[富良野・美瑛特集]

富良野の歴史

歴史といってもいろいろな面からの歴史がありますが,ここでは市町村の分割・併合といった行政史から富良野を眺めてみましょう。

富良野・美瑛キャンペーンに加盟している町村はいずれも現在上川支庁に属しますが,郡でいうと美瑛町は上川郡,上富良野町,中富良野町,富良野市,南富良野町は空知郡,そして占冠村は勇払郡であり,それぞれ別の歴史をたどってきた市町村が集まった観光圏といえます。

北海道観光入門の最後にも書きましたが,美瑛と富良野は元々ほとんど関係がありませんでした。美瑛は明治33年に神楽村から分村された後は,独自の道を歩んでいます。一方,占冠村は苫小牧系統の村ですが,のちに南富良野村と組合村となり富良野沿線の一村となっています。したがってここでは美瑛町については触れませんが,開拓100年を迎えこうして互いに手を組み観光に取り組む状況は,地元の人間としては,目覚しい変化が起こっているように感じます。

富良野地方の市町村の沿革について見ていただいたところで,いくつかお話を。
いずれも私が18年間上富良野に住んでいて感じたことですが,いろいろ誤解している点もあると思います。適当に読み流してください。

●上富良野は富良野地方の中心か

市町村の系図を見ればわかるが,富良野原野に最初に役場が置かれたのは現在の上富良野町である。今の富良野市は下富良野村として分村されたあと富良野市と名前を変え,あたかも富良野地方の中心であるかのようにみえる。富良野川と空知川が合流し,富良野線と根室本線が合流しているのが富良野市であるから,どう見ても富良野市が中心になっているのだが,今でも上富良野の人はわが町こそ富良野の開祖であるとの意識が強い。

●三重団体か伊藤喜太郎か

富良野地方の開拓の始まりは,明治30年の三重団体とされる。三重団体のフラノ原野開拓第一歩の地「憩いのにれ」の跡に「富良野平原開拓発祥の地」の碑がある。しかし最も早く入植したのは明治28年に富山県から単独で中富良野の西中に入った伊藤喜太郎である。それでもなお三重団体が開拓の祖とされるのにはいくつか理由があろう。まず,伊藤喜太郎は富良野原野に殖民区画が引かれる前の入地で,法にのっとった入植ではなかったこと。そして,三重団体は団体として正当な手続きを取って入植し,成功を収めたこと。さらに,大正15年の十勝岳噴火による泥流で三重団体が直撃を受け,没落したこと。力を失って,どのように扱っても利害が生じなくなった三重団体をまつり上げることによって,町民のアイデンティティを高揚させているのではないかと思われる。入植以来三重県との交流はほとんどなかったが,最近になって三重県人会ができて,三重県津市と町ぐるみでの交流が行われている。100周年記念式典でも,津市の市長が式辞を述べている。
上富良野・中富良野・下富良野とも,明治30年になると堰を切ったかのように三重団体を皮切りとして次々に団体が移住している。したがって,和を重んじるならば開基年を明治30年に一致させるべきである。
ところが中富良野町では,伊藤喜太郎入植の明治28年を開基の年としている。しかし,富良野市は上富良野町にあわせて明治30年を開基としているのだし,何より明治28年には村が存在していなかったのだからこの開基はおかしくないだろうか。近年富良野地方で開基100周年の行事が次々と行われたが,いちばん最後に分村された中富良野町が最初に開基100年を迎えるという奇妙な事態になった。
さて,富良野市は開拓が少し遅れる。富良野川と空知川が合流するのが富良野市で,地形的に見ると富良野市が富良野地方の中心になるべき地域であったことは明らかである。にもかかわらず,初期に開拓が遅れたのは,大部分が北大の第8農場,東大演習林,皇室の御料地で占められていたからである。開拓者は,それらの農場の小作人となったが,後に全道でも有数の激しい農地解放運動が展開されることになる。

●上富良野×中富良野

さて,先に中富良野では独り明治28年を開基としていると書いたが,これにはそれなりの理由があると思われる。
○中富良野村分村のいきさつ
大正元年の上富良野村勢に「本村における最も急務を要する課題は,字中富良野の泥炭地約2000町歩の大排水施設の工事で,本村に重大な影響を及ぼす」と書かれている。大正6年には第1次大戦の影響による雑穀類の高騰により,富良野地方は史上空前の好景気に沸いた。この時,上富良野町域,特に畑作の農民から中富良野分村案が持ち出された。その背景には,中富良野の大排水事業による多額の起債の負担を回避しようとする判断があった。中富良野にしてみれば,やっかいな土地を上富良野に投げ出されたことになり,上富良野側の無責任さが目立つ。
○ 水争い
 上富良野・中富良野町域は河川の水量が乏しいうえ,源流が火山にあるため酸性度が高く作物の生育に悪影響を及ぼしてきた。大正12年水田の造成と干ばつにより水不足は極限に達し,7月半ばの某日,下流の中富良野村西部一帯の農民が上富良野農民の閉じた水門を次々と開け放った。これを知った上富良野側も続々と集まり,下流側が堰を外し上流側が止めるたびに石が投げられ,ついに石合戦となった。
これらのような歴史的な背景もあって,上富良野町と中富良野町は仲が悪いようだ。

●富良野市の誕生

 富良野市は東山村と山部町を合併して市になった。このうち東山村との合併は,円満に行われた。一方山部町については,前述のように時限立法で市に昇格するために,富良野側が強引に合併を進めた感じがある。山部町では意見が分かれ,住民投票にまで持ち込まれた。山部町が合併の条件として富良野農業高校が山部に建てられたがは,場所が悪いこともあって入学者が減少,1999年ついに閉校し富良野市街に新設された緑峰高校に吸収されることになった。

●上富良野町×富良野市

富良野地方の中心は始め上富良野にあったが,次第に今の富良野市が栄えてきた。大正2年,根室本線滝川−富良野間が開通すると富良野市の繁栄は決定的なものとなり,富良野市は下富良野村から富良野村と改称した。今考えるとこれが現在の混乱を生んでいるのではないか。いっそ下富良野村のままでいてもらったほうがすっきりしたと思う。今の地名だと,富良野市に上富良野町・中富良野町・南富良野町が従属しているものと思われてもしかたがない。実際,上富良野などは富良野市の一部だと思っている人が多数あり,手紙に「富良野市上富良野町」と書かれることがよくある。頭にくるが,地名が紛らわしいのだからやむをえないことだと堪忍するしかない。
そんなこともあって昔から上富良野の人は富良野市のことを良く思わず,買い物には山を越えて旭川まで行った。まだ全日制の上富良野高校がない時代,名門といわれる家では,高校は旭川に進学させた。成績が足りなければ私立に行かせた。もちろん,上富良野高校が全日制になって間口が減らされる危機にさらされてからは,優秀な人材を上富良野高校に送り込んだこともあった。
ラベンダーに関しても,我が町こそが先駆けだとの論争が絶えない。上富良野の人が「東中の誰々だ」といえば,中富良野の人はいや「○さんだ」と言い,富良野の人は「実は△さんだ」と言い張る。北の国からには,中富良野ははじめから出ていたが,上富良野は長い間登場しなかった。これも富良野と一緒にされては困るというプライドの現れかと思ったが,'92「巣立ち」からは頻繁に登場するようになった。
地元では上富良野を「かみふ」と言い中富良野を「なかふ」と言う。これが観光客と地元の人とのコミュニケーションの障害になっていることはどこかでも書いた。私など町外で生活している人は「かみふらの」などというが,地元の人は自分の住んでいる町が「かみふらの」だと思い出すのは,年に1回年賀状を書くときぐらいで,ほとんど忘れている。そこで,町名を「かみふ町」に改称しようかという動きもあったが,歴史的な背景を考えれば「富良野」の文字を取り去ることは屈辱である。それでも旭川や札幌で「かみふ」を知っている人がいたときには少し嬉しい。

最後に

こうして書いてきたのは,いたずらに町村間の対立をあおることが目的ではない。とかく北海道には歴史がないといわれるが,私はこの点に反感を持っており,開拓100年の間にもいろいろなドラマがあったのである。父祖が築き上げた歴史を振り返ることで,郷土愛をはぐくみ,観光客にはより深い感動を得てもらうことが真意である。

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