[北海観光節] > [北海道の山道]

濃昼山道

気軽に楽しむことができる本格的山道(2019.7.15訪問)

濃昼山道の歴史

1854(安政元)年に締結された日露和親条約では千島列島で国境が画定された一方,北蝦夷地(樺太)では国境画定が棚上げされ緊張状態が生じた。このため,陸路のなかった日本海側に道が整備されることとなり,濃昼(ごきびる)山道は箱館奉行(江戸幕府の出先)の命を受けたアツタ場所請負人・浜屋与三右衛門が鰊(にしん)取りの漁民を使役し,翌1858(安政5)年7月に完成させた。

濃昼山道のほか,1856(安政3)年から1858(安政5)年にかけて,長万部から黒松内山道を越え日本海岸を北上する道路が次々に開削され,1859(安政6)年,蝦夷地の東北6藩分領に伴いハママシケ(現在の浜益)に荘内藩が陣屋を置いた際には,これらの新しくできた西回りルートで藩士や農民が入地した。

途中,標高564mのルベシベ峠(三等三角点「大峠向」付近)を越えていた部分は,1893(明治26)年から1894(明治27)年にかけてルートが切り替えられ,現在の道ができあがった。

浜益本村へは1874(明治7)年滝川からの道路が開通し,1934(昭和9)年にはバスも運行を開始したが,海岸沿いの隣町に自動車で行けない時代が長く続き,陸の孤島と呼ばれた。しかし,1963(昭和38)年,浜益から濃昼に車道が通じたため,濃昼山道を歩く人はほとんどいなくなった。なお,翌年には浜益・滝川間の道路が除雪を開始し,浜益海運による小樽~浜益間の旅客航路は1965(昭和40)年に廃止となっている。1971(昭和46)年には,山道に並行する海岸の国道231号が開通,濃昼山道は生活道路としての役目を終えた。

その後は廃道状態となっていたが,2000年に濃昼山道保存会ができ,関係行政の許可を得て6年がかりで山道の刈り払いを実施,2005(平成17)年9月全線開通を見た。2018(平成30)年には増毛山道とともに北海道遺産に選定された。

濃昼山道を歩く

難読地名として知られる濃昼(ごきびる)は,江戸期のアツタ場所とハママシケ場所の境に位置した秘境である。山道に入ると、いきなり階段や小さな沢渡りがあり驚くが,100mも歩けば美しい地道となる。苔むした石垣や,路面に石を敷き詰めたと思われる部分もあり,いかにも古道という感じがする。

旧国道の濃昼バス停跡が山道の入り口となっている。2008年の新赤岩トンネル開通によって旧国道はこの先通行止めになっている。
石垣の残る山道。出口までひたすらこのような地道が続く。

車道化されなかったとはいえ往時は鰊漁で活気に沸いた漁村を結ぶ重要道路であり,いまも明治時代に埋標された一等水準点が道沿いに残っている。また,浜益への送電線も概ね山道に沿っており,道端にはかつての電話線の電柱や碍子が見られる。

左に旧道を分岐するとまもなく国定公園にも指定されている美しい海岸線が見え,素晴らしい景色の中をしばらく行く。標高357mの濃昼峠に着けば,距離にして約3分の1の道のりをたどったことになる。峠を越えた先の石狩湾の眺望も見事で,晴れていれば積丹半島まで見えるという。

一等水準点。1907(明治40)年埋標されたもので,山道沿いには約2kmおきに現役の水準点が残る。
標高357mの濃昼峠。日本海に対峙し,「風雨強し」の看板がある。

峠から一気に150mほど下ったあとは,等高線に沿ってなだらかな道が続く。山道は道なりに歩けば迷う場所もほとんどないが,一か所道を外れてしまうところがあった。等高線に沿っているはずがどんどん標高を下げていくのでおかしいと思って引き返したのだが,これは旧ルーラントンネルの南側に出る道で,かつて草刈りの際の短絡路として使用されていたようである。

厚田側には石積みの橋台が4か所残っている。既に橋はなく,石積みも山道を復元してから崩壊が進んでいるというが,大雨の後でなければ沢を渡るのにそう苦労はないだろう。

峠を越えた先の石狩湾の眺望
石積みの橋台。山道内には同様の橋台が4か所残る。

通称馬鹿臭い沢を過ぎると間もなく山道出口である。山道はこのあとも海岸から少し高いところを通って安瀬(やそすけ)集落まで延びていたが,この区間は復元されていないので,バス停までは国道を5kmほど歩く必要がある。

道の駅石狩「あいろーど厚田」は2018年春にオープンした新しい施設。テイクアウトの店もいくつかあるので,山道を歩いたあとの休憩にちょうど良い。展示施設や「恋人の聖地」に選定されている展望台もあるので,早めに到着してバスの時間までゆっくり過ごすのがよいだろう。

中央バスの札幌行きは道の駅前にバス停があるが,沿岸バスで濃昼に戻る場合は,道の駅から約700m離れた厚田支所前にしか停まらないので注意が必要だ。

アクセス

バス利用の場合,留萌方面から沿岸バス特急はぼろ号の朝の便に乗って「濃昼」で降り,南向きに歩いて道の駅「あいろーど厚田」で札幌行きの中央バスに乗り継ぐのが時間的にちょうどいい。マイカー利用の場合は,濃昼に駐車してやはり南向きに歩き,夕方の特急はぼろ号で濃昼に戻るのが合理的である。

新赤岩トンネル出口の濃昼バス停。沿岸バスの特急はぼろ号が1日1往復停車する
札幌方面ヘの中央バスが発着する道の駅「あいろーど厚田」

濃昼古道について

開削当初は現在の濃昼峠ではなく,標高がさらに200m以上高いルベシベ峠を越えていた。アイヌ語で峠道を意味するルベシベの名がついていることから,もとはアイヌの道だったのではとも思われる。

松浦武四郎は1856(安政3)年3月の「アツタよりハマヽシケ迄新道見込書」で安瀬~濃昼間の道路開削の必要性を説いており,1857(安政4)年完成したばかりの濃昼山道を通行した際には,「峠より下を俯ば,白波岩根を洗い,眺望云ん方なし」と書いている。一方で,道のできばえには厳しい評価をしていたようである。

この山道は蝦夷地有数の難所として知られ,1863(文久3)年荘内藩士交代帰国の際,吹雪に遭遇し凍死するなどの記録が残る。そこで,明治の中頃(1893(明治26)年から翌年にかけてとされる),濃昼の網元木村源作が漁場に通うヤン衆達のためにと,1万円(当時の厚田村予算を上回る額)を出して道をつけ直したのが今日の山道である。

濃昼古道は30年余り使われたのちに廃道となって130年が経とうとするが,いまもはっきりと道跡がわかるという。濃昼山道の復元に当初から携わってこられたこがね山岳会渡辺会長の「人が歩いた道はそう簡単に消えない。100年や120年では消えずにずっと残る」*という言葉が印象的である。

*「濃昼山道の歴史と魅力~その復元にかけた思い」(北海道遺産選定記念「増毛山道と濃昼山道」講演会,2019.6.29)
濃昼側の旧道分岐
濃昼に残る鰊御殿(木村番屋)。1900(明治33)年頃の建築で,異様な和洋折衷様式を見せる。この番屋の当時のご主人が現在の濃昼山道を築いた。