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2. 鬼峠越え前編

2010年3月13日(土)

●8:00 オリエンテーリング

8時に道の駅に集合。風は強いが,雨の心配はなさそうである。参加者は21名。

昭和35年まで実際に鬼峠を生活道路として使っていたニニウ生まれの会田さんと元役場職員の長谷川さんが,初めて峠越えに同行してくださることになった。

8時30分出発。郵便局の前で長谷川さんの説明を聞く。かつてはこの辺に食堂や旅館が並び,劇場もあったという。そして村の中は鍛冶屋だらけというほどで,蹄鉄屋も3軒あったそうだ。

峠の入口まで約2キロメートルあるが,今年はバスに乗らずきちんと歩いていく。中央から峠の登り口までの部分,峠を下りたところからニニウの中心部までの部分をきっちり歩くことで,昔の峠越えを追体験しようという趣旨である。

青巌橋の上。昭和29年までは渡船で越えていた。ここはニニウと中央を結ぶ関所のような場所で,奥さんに隠れて酒を飲みに出てここで発見されたというエピソードなどが伝えられている。会田さんによると,大雨で渡船が出ないときは,上流の千歳橋(大正6年架橋)を廻って市街に出ることもあったという。

明治以来,渡し守を勤めていた遠藤氏の住宅跡。

旧版地形図によると,今の鬼峠入口は石勝線の工事の際に付け替えられたもので,もとはこのあたりから右手に入って沢を越えていたと考えられる。第1回の鬼峠フォーラムでは,少女時代に鬼峠を歩いていたという方2人と峠を越えたが,2人とも登り始めてしばらくは昔と何かが違うと話していた。そう感じた原因は,このルート付け替えの部分にあると思うのだが,会田さん,長谷川さんともこの部分については記憶が定かでなかった。

9時15分,峠の入口に到着。スノーシューを履き,9時30分出発。

雪の壁に挑む人たち。新鬼峠は馬車が通れるように大回りをして勾配を緩めているので,昔も人間だけで歩くときはこのように近道をしたという。

ときおり足を休めて,会田さんや長谷川さんの話を聞く。この鬼峠が現役だった頃,占冠は造材で活況に沸いていた。冬になると出稼ぎで,青森や秋田から500名くらいの若者がやってきたそうである。

鬼峠にも造材の馬そりが行き交い,馬そりが通ると道が崩れるので,道を直す人夫が沿道に点々と張り付いていた。その人夫たちがくせ者で,酒を持っていって機嫌をとらないと,わざと道を悪くして馬をひっくり返されたそうだ。今では想像しがたいが,鬼峠は人馬が行き交う山の動脈だったのだ。

これはついに親父が出たかと,一瞬緊張が走ったが,足跡をたどっていくと,

会田さんの輪かんじきであった。昔はかんじきを使わずつぼ足で鬼峠を越えたという。

山また山の景色に,犬も感慨深げ。

●10:43 鬼峠到着

お二人が峠を越えていたのはもう50年以上前のことで,ここが峠の頂上だと確信させるものはなかったようだが,地図やいろいろな話を総合すると,ここで間違いなさそうである。「ここが峠だと認定します」と長谷川さん。会田さんからは,たしかにここに休憩小屋があったという証言も得られた。

 

細谷さんと山本さんから現在地の説明を受ける。

これは鬼峠に限った話なのかどうかわからないが,昔は焼いた石をカイロの代わりに抱いて冬の山を歩いたという話も聞いた。自分用の石が決まっていて,寝るときも一緒。この周辺では,赤岩青巌峡の青い石が,焼いても割れないので好まれたという。


3. 鬼峠越え後編