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4. 鬼峠交流会

過去7年を振り返るスライドの紹介の後,参加者ひとり一人,自己紹介を含めて,ニニウとの関わり,鬼峠越えの思い出,明日への意気込みなどを語っていただいた。

「トマムの企画,広報時代を含めていろいろなイベントや催しをやってきましたが,第1回目の鬼峠フォーラムを超える催しはないですね」と山本さん。

「ニニウに住んでいた方の気持ちだとか,本当にそこを歩いていた人たちの人影を感じられるというのは,つくれるものではまったくありません。企画そのものというよりは,そういう鬼峠というもの自体に価値があるものだと思っています。このためにやろう,これだからやらないとということではなく,この時期になると何だか越えたくなる。先人の思いを辿って鬼峠を越えて,温泉に入って,地域のおいしいごはんを気のおけない仲間たちと食べる。こんなに贅沢な1日はないという気がしています」

とのこと。私も,何が価値なのかということをはじめ,山本さんや参加者の方々から,ひたすら学ばせていただいている。

細谷さんからは,明日の全員での鬼峠越えに向け,今日の下見を受けての説明があった。

「いままでは絶対方向だけを見て安全に下っており,実際にはその道は馬車は通せない」
「なので今朝,馬車が通れるルートをしっかりと見つけたいと思ったのですが,ぜんぜんやられちゃいました。明日ももたぶんやられるだろうと思います」
「なぜ川を6回も渡っているのか。馬車を通すためだとは思うが,それにしても理由がわからない。明日は会田さんに聞きながら行きたい」
「動きが止まった時には,悩んで,昔の方と心を通わせているのだと思ってください。できれば,先頭のほうで一緒に悩んで,みなさんも地図と現地を見比べて」

というように,鬼峠を越える難しさ,楽しさなど,熱いお話があった。

道の追究に妥協のない細谷さんに対し,山本さんは,

「そういうロマンももちろんあるんですれど,参加している人たちはほとんどわからないですね」

とやや冷めた意見。ただ,

「道が決まっているところを安全に連れていくのが普通のツアーですから,こういうのも珍しいですね。みんなで道を探しながら行く楽しみと感じてもらえれば」

とのこと。まったく,8年目にして,ますます謎は深まるばかりで,答えが出ないだけに,楽しみは続き,毎年新たな発見がある。

参加者からは,たくさんの質問や意見が出た。

著名な彫刻家で,郷土史研究家でもある上富良野の山谷圭司さん。今回は交流会から参加してくださった。

幕末に松浦武四郎が歩いたという十勝越えのアイヌ古道「トカチルウゥチシ」を探し出し,2008年から毎年「トカチルゥチシ伝承堅雪フットパス」を主宰されている。

2代目の鬼峠については,峠のいちばん低い部分よりわざわざ20〜30m高いところを越えているのが不可解であると,鋭い指摘をされていた。たしかに,過去2回の鬼峠フォーラムでは最も低い部分を越えており,それが自然だという実感もある。

ほか,尾根峠が転訛して鬼峠になったという俗説に対しては,それならば対となる谷越えの峠があったのではという意見であった。結果として初代が尾根越え,2代目が谷越えの峠ではあるが,同時には存在しておらず,やはりはじめから鬼峠の名だったのだろう。

山谷さんは「もう一つの入植経路はあったのか?−上富良野三重団体の「夕張越え」について−」という先月まとめられたばかりの論考を持参されていた。

富良野原野に初めて入植した三重団体は,先遣隊が空知川経由,本隊が旭川から美瑛経由のルートを取ったというのが定説であるが,実は明治42年(1909年)刊の『上富良野志』に,本隊が二手に分かれたうち一手は「夕張より下富良を経て」到着したという記述がある。この入植ルートについては,その後なぜか顧みられることがなく,山谷さんが調べられたところでも,一切証言が残っていないという。そして,なぜ証言が残っていないのか考察した上で,それでもなお夕張越えルートの存在は無視できないと論じている。

夕張から富良野に至る場合,ニニウが結節点になる。それで,今回会田さんからいろいろお話を聞き取りされていたが,夕張とのつながりについて,ひとつ確信を深める証言も得られたようである。

論考には「夕張岳周辺の往年の自然道<鹿道・アイヌ道・砂金の道>推定図」という地図が掲載されていた。北海道の最奥地と言える夕張,ニニウ,金山峠を結ぶあたりに,網の目状に道が走っており,興味深いものである。とりわけ,金山口からの夕張岳登山道については,人為的に開削,維持されている登山道とは異なり,「何度も立ち止って嘆息するほど」の「古色を帯びた絶妙な風趣」が感じられ,それはアイヌたちが歩き砂金掘りたちが辿ったかつての鹿道ではないかという。山谷さんは,アイヌ道と言われるものも,もとは鹿道であったケースが多いとの指摘を以前よりされており,

「物流や登山のための意図的ではない径が,増え過ぎた(?)鹿の渡りで再び山中に顕れてきているなら,かってそこを歩いた人たちの忘れられた物語もまた,歩くことで聞こえてくるのではないだろうか。巡礼をするような気がしないでもない」

と論考を結ばれている。個人的なことだが,私の祖先も三重団体の一員であるので,またニニウとの関わりが一つ増えた。

●18:00〜 鬼峠交流会

座学にも力が入り,やや遅れて鬼峠交流会が始まった。

 

乾杯。

「みなさんからの1品持ち寄りをお願いします(できれば占冠の昔からある料理・地元素材を使ったもの。食べきれないので少量でお願いします)」の呼びかけだけで,またこんなに素晴らしい料理が。

19時45分からドラマ「鬼峠」も見た。2011年以来で久しぶりだ。ドラマは国鉄石勝線開通後3年目の放送。現在は,道東道開通後3年目と,状況が当時と似ている部分もあり,一段と内容が深く感じられた。

ニニウの天然の山ブドウで作ったブドウ酒。昨年,8年ぶりにオープンしたニニウキャンプ場の管理を託されたTさんの差し入れ。会田さんがこれはおいしいとおっしゃって,ずいぶんと飲まれていた。

 

これはプログラムには掲載されていなかった企画。

昨年11月から観光協会主催で開催された「昭和のしむかっぷ写真展」の展示写真の一部を,西村さんが持ってきてくださった。

今日の参加者の中では唯一当時を知る会田さんが向こうに座って,いろいろな質問に答える。じつに楽しそうな光景で,「今度山菜市でやろう」と山本さん。

ニニウ,鬼峠関連の写真も何枚かあった。

 

「昭和30年頃ニニウ青年団 鬼峠にて」。鬼峠現役時の写真にこのような形でお目にかかれるとは思っていなかった。

いまほどにカメラも普及していない時代に,何人もの青年が首からカメラを下げている。着ているもの,カバン類も今の都会人と何ら変わらないし,今の農村と比べてもそれなりに豊かな暮らしをしていたように見える。

 

「馬車にゆられてニニウまで」。実にのどかな光景。

久しぶりの峠越え前日の交流会は,0時過ぎに終了。


5. 鉄塔に惑わされて