[ 館内ご案内 ] [ 地 図 ] ニニウのこれから 北海観光節

交通−道路の変遷

「地図を開いてニニウという所を見るとまず直感的にこれは大変な場所だという印象が沸くことであろう。」(占冠村史)
ニニウは占冠村でもっとも気候温暖で耕作適地であるが,それにもかかわらず人々が出て行ったのは交通至難の一言に尽きる。

 赤岩青巌峡は「天下にほこる絶景」であり,規模では層雲峡や旭川の神居古潭に劣るが,谷間の狭さではそれらの及ぶところではない。神居古潭や芦別の空知大滝は交通の障害にはなったが,道路をつける幅ぐらいはあった。しかし,赤岩はどうにもならない。人ひとり歩ける幅もないし,川を遡るにも激流ではどうにもならない。占冠は鵡川という一流の河川の流域にありながら下流の町村とは断絶された特異な位置にある。

 明治の入植者たちも鵡川のような大河川であれば必ず道路と鉄道がつけられると考えただろう。道路と鉄道さえあればニニウは何も悪いところではない。しかし,赤岩青巌峡がニニウを戦後まで「日本のチベット」「陸の孤島の中の孤島」と言わしめたのである。

 占冠は鵡川水系であり,国は胆振国,勇払郡,支庁も当初は胆振支庁であったが,開拓まもない明治39年,上川支庁に編入された。支庁のある苫小牧には行きようがなかったのである。ニニウへの入植ルートも夕張や穂別からではなく,金山から占冠を経てのものだった。

道路関係年表

明治41年(1908) ニニウに最初の入植者 鬼峠時代
昭和4年(1929) ニニウ道路開通 旧道時代
昭和35年(1960) 占冠・ニニウ間林道開通 村道・林道時代
昭和49年(1974) 占冠・ニニウ間道道に昇格 道道時代

●鬼峠

 標高697m。「鬼峠」とは誰がつけたかわからないが,この山にふさわしいものである。馬も通れぬ道,そして「この峠は一人では歩けない」という。熊が出るのだ。ニニウに嫁ぐことになった花嫁が金山で汽車を降り,ニニウまで歩く間に5足のわらじを履き替えたという逸話がある。

 この鬼峠は開拓後20年くらいまで利用されたと思われ,『町村の創成開設の沿革』(大正初期)には「最も同情すべきは『ニニウ』と称する部落にして,環峯千尺の底に在りて未だ道路なく,熊害と雪害との危惧あり,旅客独行を阻む為に最初三十六戸の殖民漸らく減じて目下二十一戸となり僅かに沈着の状あるは唯是れ此の部落は夕張炭山の背後に在りて広大なる煤田連互せるを以って前途の曙光に慰籍せらるるに依る。」(占冠村史)とある。
 ニニウへの入植動機は「鉄道がつけばニニウ駅ができる。そうなると歌志内のようになる。ニニウはせまいが,せまい土地だけに今確保しておいた土地に値が出てくる。仕事もあるし農業をしても占冠では気候が一番よいから野菜もできるのでこれも売れる」というものだったが,だだひとつ交通至難の問題により開拓当時から厳しい状況を迫られていたことがわかる。

 昭和37年8月3日から4日にかけての9号台風,9日の10号台風で占冠村は開村以来の大水害を記録した。『占冠の水害』という分厚い本が出ているほどである。このとき,新道は決壊し,10月20日,上富良野の自衛隊の協力を得てこの鬼峠が応急復旧されたとのことである。占冠村史には「日本人の通路は多く底地で川筋であるが,いざとなると,峯をゆくアイヌ道が安全である」とあるから,鬼峠の起源はアイヌ道であったのかもしれない。確かに地図を見れば正直に尾根を通っている。

 昭和59年にはSTVで「鬼峠」というニニウの人びとをテーマとしたドラマが放送されている。まさに鬼峠はニニウの象徴ともいえるものである。実際に行けなくなった今でも占冠村のガイドマップには「鬼峠」の名が記されている。

●旧道(ニニウ道路)

 旧道ができたきっかけは学校である。ニニウの学校は明治44年に私設として開校したが,大正2年に公立となった。この結果住民は税金を払わなくてはなくなり,離散者が出続ける状況を何とか食い止めなければならなくなったのである。請願に請願を重ね,大正5年にこの旧道がつく見込みがたった。

 「占冠村ニニウの実態と歴史」には,「中央との間は自動車を通さず馬車おも困難ならしめ,主として駄送という鬼峠の三里あまりの山道で,軽馬車で5〜6時間を要する」とある。なおここで「鬼峠」というのはこの旧道のことで,開拓当時の鬼峠が廃止になった後はこちらが鬼峠と呼ばれるようになったようである。

 旧道の入口は今でも見ることができる。占冠側は写真左のJR石勝線鬼峠トンネルの脇に入口がある。廃道のような状態で残っていたが,1998年夏から「ふるさと林道鬼峠線」として改良工事が始まった。どこにどうつながるのかわからないが立派な道である。看板は写真右のものと同じだったからこれにつながるのかもしれない。

石勝線鬼峠トンネル占冠側入口。この左脇に旧道への入口がある。 「民有林林道鬼峠線」。赤岩青厳峡に行く途中,レクの森に入る道である。最近ずっと通行止め。本来の鬼峠とは関係なさそう。

 昭和4年の時点で,馬橇の運行が可能であったが,それで十分な食料,物資が入手できるはずはない。昭和35年の林道開通までは冬期間は保存食に頼るという壮絶な暮らしが続いたのである。

 国鉄石勝線の建設工事に伴い「村道赤岩鬼峠線」が改良されたという。それがこの旧道と関係あるのかどうか。

●ニニウ林道(→道道占冠穂別線→道道夕張新得線)

 かつては「占冠から林業を取ると何が残るか」といわれたほどであったが,占冠−ニニウ間のトラック道路もはじめは木材搬送のために開削されたのである。
 古くは木材は鵡川による流送で搬出され,占冠全村の木材は下流にあるニニウを必ず通っていった。赤岩はやはり難所で一流の流送人夫が毎年数人命を失った。いま赤岩の川沿いにつけられている「一番淵」,「ひげそり岩」,「とびいし」などの名前には流送の歴史が秘められているのである。
 最後の流送は昭和30年ごろだったという。木材輸送もトラックが主流を占めるようになる中で,ニニウにも車道をつけなければならない。昭和27年民有林施業案編成にあたり,自動車道路延長10kmを森林組合を施工主体として工事することを決定し,昭和35年に開通を見た。いまも古さを感じさせない永久橋「赤岩橋」はこのときに架けられたものである。

道道占冠穂別線,ニニウ−清風山信号場間。ニニウ林道はその後穂別福山へも開削が進んだ。

 この林道の開通と時を同じくして石勝線の工事が始まり,林道も除雪されるようになった。ようやく冬季孤立,乾物・保存食の暮らしから開放されたのであるが,ニニウはなだれの名所であり,融雪期には交通不能となる。昭和49年度の新入小中学校経営案には「融雪期における給食の中止(約1ヶ月間)」「融雪期の給食をどうするかが課題」とある。

●ニニウ駅逓

 駅逓は北海道独特の制度であるが,ニニウにも大正15年に官設駅逓がおかれた。役割はおもとして旅館であり,荷物の輸送をわずかに担当した。駅逓があったおかげでニニウはどんな地図にも載っている。ニニウには鬼峠を越せなければいけなかったから,馬もおらぬ地区であったが,駅逓には古くから馬がいた。ニニウには店もなかったが,戦後は駅逓跡が阿部旅館となり,若干の日用品を扱った。
初代駅逓主
小林昇之助

 いま,駅逓跡には「史跡・ニニウ駅逓跡」がある。占冠側からサイクリングターミナルへの分岐点,サイクリングターミナルの看板の下にある。そこにたってみると,ああなるほどここに駅逓があったのかと納得する場所にある。。

●鬼流橋

道道占冠穂別線,清風山信号場の近くに「鬼流橋」という橋がある。鬼峠から鬼が流れてくるようでまったく恐ろしい名前である。別に伝説があるわけではないらしいが,「占冠ガイドブック」には鬼峠と鬼流橋が対で紹介されている。鬼の付く地名が2つもあるところは全国でもニニウだけではないだろうか。


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