[ 館内ご案内 ] [ 地 図 ] ニニウのこれから 北海観光節

つり橋

自然は時に猛威を振るう。その一つが水害である。
ニニウのシンボルともなっているつり橋をヒントに,ニニウと水害についてみていこう。

キャンプ場にアクセスするつり橋。手前がキャンプ場。もともとは生活道路でかなり古いが,赤い橋はニニウの緑に映え,今ではニニウ自然の国のシンボルである。重量制限はたしか1.5tで,車も渡れるが,橋げたは木なので少し恐い。

●川を渡る方法

占冠における橋の発達

○自然石を庭の飛び石のように川の中に並べて渡る橋
○一本の丸木橋→二本橋,三本橋
○土橋〜二本または三本の丸木の間を離して並べ,その上に3尺か4尺に切った細い丸棒を並べ,この上に土を乗せたもの
○川幅が広くなった場合〜川の中央に杭を四角に打ち箱型にし,その中に玉石を詰め,これを橋脚として丸木橋を連ねる
○設計された木橋,コンクリート橋,近代的鉄橋(赤岩橋など)
最近は木橋がほとんど見られなくなった。しかし,ニニウのつり橋をはじめとして,昭和35年当時は全国でも屈指の近代的デザインだった赤岩橋,それに印象的な名前の鬼流橋など,橋の見本がそろっている。

渡し舟

 中央からニニウに向かうとき市街を出るとすぐに鵡川を渡る。今は立派な占冠橋が架かっているのだが,ここに橋ができたのは昭和29年7月10日でそれまでは渡船だった。占冠に3つあった渡船場のうち最も遅くまで残ったものである。普段は舟底を川にこすりつけながら人馬を渡したが,いったん雨が降ると急速に水量が増加するので,渡すのも渡されるのも命がけということも多かった。ニニウと中央の間には鬼峠ともう一つ渡し舟という難所があったわけである。

氷橋

 雪と氷はあまりありがたがられなかったが,ソリという雪国独特の運搬具とともに凍り橋という橋もあった。自然に張った氷の上に柴を敷き,雪をのせて水をかけ幾重にも凍らせるものである。

●水害

占冠は鵡川最上流の山村であるが開拓以来何度か大水害に遭っている。主なものは大正11年と昭和37年のものである。ニニウは占冠の最下流部にあり鵡川は村内の水を全部集めていちばん太くなっているが,他の地区に比べるとニニウの被害は小さくてすんでいる。


村史付属の占冠村鳥瞰図より

昭和9年ペンケニニウの大洪水

 道路を破損したのみではなく,沿岸の畑を砂礫で埋め,河道が変わって畑が水底に没し去り,それがもとで土地争いが起こったりした。この影響だろうか,昭和10年にはニニウ殖民地区画図の改訂版が出されている。
 ペンケニニウ川沿いの道はサイクリングロードになっており,上流にはコンクリート製と鋼製の橋がある。洪水の時には川の水はこれらの橋をも越えてしまうようだ。さらに上流には砂防ダムがあり,ここが一応サイクリングロードの終点となっている。

昭和37年の大洪水

 現在ニニウを通る道道は鵡川の北に沿っているが,かつては途中の断崖絶壁(右の写真)を避けるため,2本のつり橋で鵡川を渡っていた。およそ殖民区画の2号に沿ってかけられ「ニニウ1号橋」,「ニニウ2号橋」を名乗っていた。両橋とも王子製紙の私有物だった。
 昭和37年の水害ではこの2つとも流失した。孤立した農家もあり,村長自らヘリコプターに乗り一戸一戸庭先に着陸して激励するという一幕もあった。
 下流側のつり橋は流失したままでその後架けられる事はなかったようだ。上流側の端は架け替えられ,現在の立派なつり橋に生まれ変わっている。
 また,赤岩青巌峡では水は赤岩橋の上に達したそうである。想像を絶する。



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