[ 館内ご案内 ] [ 地 図 ] ニニウのこれから 北海観光節

ニニウ神社

 信仰というものは近代科学社会の中においては信ずる価値もないもので,せいぜい葬式や地鎮祭をうまく取り運んでくれる業者程度にしか認識していない人も多いが,北海道開拓期の農村において,神を祭る,仏に参るということは一重大事であった。
 異なる宗教間の相互理解は困難だと言われるが,科学も一つの宗教のようなものであるから,科学の世界に浸っているものが宗教を解せぬのも無理はない。農業というのは自然相手の仕事であって,人間の都合のいいようにできるものではない。そこに敬神崇祖の念が芽生えるのは道理である。
 「地神の石に小便をかけたけれども別に何事もなかったと体験を語る紳士」と「寒いだろうというので石の地蔵に頭布を縫ってかぶせる老婆」のどちらに好ましさをおぼえるだろうか。

これはイメージです
ニニウ神社の現況は不明です

●ニニウの信仰

ニニウ神社

明治44年の総建。昭和38年の占冠村史には「学校の前から左に曲がってのぼっていくと左にペンケニニウ川が瀬の音を立てている。馬頭観世音前からさらに進むと右に急な参道があって,ここを登りつめると森の中にニニウ神社がある」とある。
この段階でかなり荒廃していたようだから現在消滅している可能性が高い。
戦後荒廃した神社も昭和15年,遅くは終戦までは郷土生活の中心だった。戦後も各地の神社で春の運動会と秋の祭りが二大年中行事としてとり行われた。ニニウでは春には学校の運動会,秋には青年会の演芸会が行われた。
大正時代にはこの神社境内で部落総出の盆踊りがあった。その後学校の校庭に踊場が移っている。踊りは福島音頭だったようだ。校庭に立ったときには踊り手ばかり多くて見物人の少ない踊りを想像してみてほしい。

馬頭観世音

人間に協力して開拓時代の造材と農業の基礎を築いた馬も,単なる物体であるならば,利用できなくなれば捨て去ってもよいのである。しかし農家は馬頭観世音として手厚く葬っている。占冠村史には「ペンケニニウ川の流れを背にして馬頭観世音の堂がある。堂の中には全く馬面そっくりの形をした木を板にして馬頭観世音と書いてあった」とある。現況は不明。

相馬神社

大正初期の創建。馬頭観世音堂に並んで開拓時代赤岩から運んだという自然石が立っている。

水神

木材の流送の安全を祈願して下流側のつり橋のたもとに水神が祭られていた。造材関係者が祀る神社は山神が多いが,流送が水によるところかに水神であった。

なお,ニニウ殖民区画で二線沢の分岐に墓地予定地が確保されていたが,死者は自家野天火葬で川原の石を標識としたにすぎなかったようである。

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