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ニニウと私 2005年

●2005.2.5 ドラマ「鬼峠」紹介のページ作成に着手

ドラマ「鬼峠」のビデオテープはホームページ開設早々の2000年8月に入手していた。シナリオの文字おこしは3年前に終えており,絵を描くための紙までとっくの前に用意してあった。それがなかなか作業に着手することができず,期待して待っている方に申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。

しかし材料がそろっていたとしても,いざ事を始めるには機が熟すということが必要なのかもしれない。その意味でニニウのページ公開から5年がたち,いよいよ機は熟したという感じがしていた。他のコーナーの更新が一段落ついた2月,ドラマ「鬼峠」紹介のページ作成に着手した。

●2005.2.13 ドラマ「鬼峠」非公式サイト一部公開

テレビの画面そのまま載せるわけにはいかないので,いくつかの場面を紙に鉛筆で模写した。絵も机の上に道具を並べるまでがおっくうだが,実際に描いてみると意外とすんなり描けてしまうものである。

ホームページの構成は当時放映されていた「北の零年」や「優しい時間」の公式サイトを参考にし,ドラマの非公式サイトという形をとった。約1週間でおおよその形ができあがり,2月13日公開に至った。

●2005.2.17 『ぽぷるす随筆第7集』入手

13日の時点ではまだ「解説」と「ロケ地マップ」の作成が残っていた。実はこれまで,「鬼峠」というドラマを誰が何のために制作したのかまったく知る手がかりがなかったのだが,インターネットで検索すると,放送作家の佐々木逸郎氏が昭和60年に「鬼峠」という随筆を書いていることがわかった。ドラマが放送された直後のことであり,これは何かドラマと関係がありそうである。

その随筆が収められた『ぽぷるす随筆第7集』(朝日カルチャーセンターぽぷるす随筆編集委員会,1985.3)をNPO法人自費出版ライブラリーから取り寄せる。それによると昭和59年6月,北海タイムスに「占冠の女」という記事が連載され,そこに登場する女性がドラマ「鬼峠」のチズのモデルになっているらしい。

●2005.2.20 帯広市図書館にて

今度は北海タイムスを探しに走る。2月19日,市立釧路図書館を訪ねるが,北海タイムスは所蔵なし。この図書館は職員も能無しでまったく使えない。次の手として隣の市(といっても120kmも離れているが)である帯広の図書館に電話で問い合わせると所蔵しているとのこと。そこで急遽翌日帯広に向かった。

帯広市図書館では本館とややはなれた分館に昭和30年代後半以降の各種全国紙,道内紙が原紙で保存され,だれでも自由に閲覧できるようになっていた。釧路と帯広ではさほど人口も変わらないのに図書館の質には歴然とした差がある。それは市民の文化レベルの差を如実に現しているように思われる。

さて,北海タイムスの記事からは予想以上の収穫があった。「占冠の女」は昭和59年6月4日から6月29日まで11回にわたって連載され,各回1人の女性にスポットをあびせていくという形をとっている。ただし鈴木ヨシノさんだけは3回に渡って連載され,チズの生き様そのものだった。そのほかニニウに住んでいた女性が3人登場しており,嫁入り,山神様,浪花節語りの夫婦などドラマのテーマになっていることのほとんどが,連載の記事中に凝縮されていた。

なおこれらの連載は「小樽の女」「雨竜の女」「母村の女」「遊郭の女」と併せて『北海道の女』(宮内令子著,北海タイムス社,1986.10)に収められている。

●2005.2.25 占冠村コミュニティプラザ図書室にて

札幌からの帰途,清風山信号場付近からニニウ方面を遠望すると,鬼峠下のトンネル坑口に建設プラントができていた。

占冠駅で下車してコミュニティプラザの図書室へ向かう。この図書室は小さな村の図書館にしては異常なほど充実している。しかしいつ訪れても誰もいない。さすがに人件費が惜しくなってきたのか,お姉さんはいなくなり,コミュニティプラザの管理人さんが図書室の管理を兼ねていた。

郷土資料コーナーを見ていると『しむかっぷでむかしむかしあったこと』(占冠村,2003.3)という本があった。この本は占冠村開基100年を記念して村にある(有)日月社が制作したものである。日月社は観光や農業,アウトドア関係の各種出版物,ホームページデザインを手がけているとのことで,このような知的生産を行う会社が人口1000人あまりの村にあるのはすごいことだと思う。

内容は1997年〜1999年に村の広報に「昔あったこと」として連載された記事の再録と,2003年2月に新たに取材したものである。古老への聞き書きの形をとっており,全37話,42名の古老が登場している。うちニニウ関連は4話あった。

昭和さえも遠く感じられる昨今,明治・大正の時代など完全に過去のことになってしまったように思われるが,本書には明治生まれの古老が多数登場している。そうした古老たちによって開拓時代の昔が今にいきいきと蘇っているのは,取材者の卓越した識見があってのことだろう。

ニニウ最後の農家となった伊藤キヨさんは明治41年生まれ。稲妻道といわれた初代鬼峠のことを語っている。岩淵ハナさんは19歳でニニウの農家に嫁いだ。「占冠の女」では夫を造材山の事故で亡くし,9人産んだ子供のうち4人を病気で亡くしたという壮絶な人生が描かれていたが,現在では村の最高齢者となられて実に穏やかな表情で写真に写っているのが印象的だった。

帯広と占冠の図書館で得られた成果をもとに3月5日,残っていた「解説」と「ロケ地マップ」を掲載した。

●2005.4.5 転勤で札幌市へ

釧路勤務も丸4年となり,そろそろ異動の時期である。網走市を第一希望にしたのは川湯温泉から離れたくなかったからだが,3月中旬,内々に札幌への異動を知らされた。

釧路では実に幸せな4年間だった。たまに霧は出るが,空はいつも青空。少し車を走らせればすぐ釧路湿原で,温泉もたくさんある。ラーメンもうまかった。およそ月に1回は札幌に出る機会があり,そのたびに特急列車の車窓から占冠やニニウの様子を見ることができた。仕事柄転勤は仕方ないとはいえ,釧路を去るのは残念である。

●2005.5.1 掲示板に佐々木逸郎氏の息子さんから書き込み

ドラマのページは幸い大きな反響を得て,感想のメールもいくつかいただいた。この日はドラマに登場する佐々木逸郎氏の息子さんから掲示板に書き込みがあった。倉本さんと布施さんがよく仕事を一緒にされていた関係もあり,友人であるSTVのプロデューサーやカメラマンに口説かれて出演することになったそうだ。

●2005.6.1 ニニウキャンプ場オープン

この4年ほどリニューアル工事や大雨のためまともに営業した年がなかったが,今年は6月にオープンして9月まで無事乗り切った。特にお盆の時期に営業できたのは2000年以来5年ぶりとなる。

しかしサイクリングターミナルは休業のまま。工事関係者の需要も結構あるはずなのに営業を再開しないのは心配だ。

●2005.9.25 ニニウ訪問

ニニウのGさんからは3年前にメールをいただいて以来,何度かやりとりがあった。早いうちに一度ご挨拶にうかがわなければならないと思いつつまだ実現していないのは,心苦しい限りだった。それはこれまで機会がなかったのではなく,会う勇気がなかったからだったが,ちょうど学会で来道中の弐四四さんが同行してくれることになり,9月25日,レンタカーでニニウを訪ねた。

9時過ぎ,南千歳のマツダレンタカーを出発。千歳東ICより一路東進し,10時35分福山のパーキングエリア到着。福山小学校・中学校を見学後10時50分福山発,道道占冠穂別線に入りニニウを目指す。

なお,以下の写真の一部は弐四四さんが撮影したものである。

占冠穂別線の簡易舗装は波のようにうねりひどいことになっていた。よほど気をつけないと車の腹をガリガリとこすってしまい,これなら砂利道のほうがまだ走りやすい。舗装は恐らく1999年の段階から延伸されていない。

清風山信号場入り口。穂別トンネル東坑口,鵡川大橋の工事現場入り口となっており,ダンプが激しく行き来していた。 鵡川橋(下部工)工事作業所
鬼流橋 木のトンネルだった道道もはげ野原に。

ともかく狭い道に激しく車両が行き交い,車を止めて写真を撮ることもままならない。もう,わやとしか言いようがない。

占冠トンネル西工事。 高速道路は道道を直角に横切る。

「鉄夫の家」は健在。 「鈴木さんの家」は南から見ると建っているようだが,正面からはぺしゃんこである。

いったんニニウを通過して赤岩に向かう。
 

赤岩橋のたもとには公衆電話が設置されていた。赤岩トンネル坑口は大きな変化なし。

ニセイパオマナイ川側では赤岩大橋の工事が始まっていた。工事をやっているすぐそばで今日もたくさんのロッククライマーが岩登りをしていた。

ニニウに引き返し,Gさん宅を訪ねる。家の前で薪を割りながら待っていてくれた。家は外から見てもきれいだが,中はいちだんとしゃれており,吹き抜けの広々とした居間に暖炉があって,まるで映画に出てくるような美しい生活空間だった。誰か有名な建築家に設計を頼んだのかと思ったら,自分で図面を引いたとのこと。

あらかじめニニウ神社と鬼峠入り口を見たいとお願いしてあったので,まずニニウ神社に向かう。ニニウ神社はGさんがサイクリングターミナルの管理人をしていたときに探し出し,毎年元旦の宿泊客で初詣をしていたという。この時期に藪こぎをするのは無謀だったかとお願いした後で反省したが,容易にたどりつけた。

まるで時間が止まっているかのように,昭和38年の占冠村史に書かれているとおりの状態でニニウ神社は鎮座していた。村史にはこう書かれている。

 
「何も楽しみがない。せめて盆位踊るべしというので部落総出の盆踊りが神社で行われた。(中略)月の世も更けるまで,あの高いところの神社で福島音頭を踊った姿が目に見える。丘の下はペンケニニウ川の闇で水の音が静かに聞こえたのではないか,筆者は祠堂前の広場に立って踊り手ばかり多くて見物の少ない踊りを想像してみた」
 

なお,ニニウ神社にはまだ神様が宿っている。荒廃を防ぐために場所は明らかにしないこととする。
 

次は鬼峠入り口へ向けてペンケニニウの林道をさかのぼる。

ニニウテニスコート。

林道からペンケニニウ川橋梁を見上げる。

思わぬ発見。一里塚の跡だという。ドラマ鬼峠では鬼峠入り口にこれと同じような形の道標が立っているが,これもニニウに一里塚があったという事実に基づいたものだったのだ。

2代目鬼峠入口に到着。ドラマに出てきた鬼峠入口とは違っていた。数年前まではオフロード系の4輪自動車がたまに峠から下りてきたというが,現在は倒木が立ちふさがり廃道になっている。

家に戻ってテラスで食事をいただいた。大変なごちそうだったが弐四四さんの飛行機の時間もあり,食い逃げのようになってしまったのは非常に申し訳なかった。

最後にニニウに別荘でも建てないかといわれたが,素直にはいと言えなかったのが心苦しかった。すっかり都会の生活に甘んじてしまった自分が情けない。

奥さんは道路さえ通行止めにならなければニニウはすごくよいところだと言っていたし,Gさんも一生ニニウに住み続けるつもりだという。しかしこんな山奥に1軒だけではやはり寂しさもあるのだろう。道路工事も外の者にしてみれば騒がしいだけだが,Gさんにとっては張り合いを感じることでもあるのではないか。私も子供の頃寂しい町はずれに住んでおり,家の前で下水道の工事が始まったとき現場の監督さんと家族ぐるみでのつきあいが始まり,工事が終わったときには大変寂しい思いをしたのでそういう気持ちはわかる気がする。


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