北海観光節小さな旅行記コレゾ旭川

アサヒビル

新駅の建設が進む旭川駅。扇形車庫はまだしぶとく残っていた。


さて,いよいよ本日最大の目的地へやってきた。

アサヒビルは昭和28年,市内初のエレベーター付き高層建築物として建設された,地下1階,地上6階建て,延べ床面積7490m2のビルである。このビルの建設経緯もやはり太平洋戦争と深い関わりがある。

昭和20年7月の空襲では旭川でもパルプ工場や駅に被害を受けた。この空襲によって,市街中心部に防火帯を作るべく建物疎開を行うことが決定され,緑橋通りの8丁目側の建物は一斉に強制取り壊しの対象となった。無用に広い緑橋通りはこのときの遺産である。


広々とした緑橋通りに面して建つアサヒビル

敗戦を迎え食糧・物資の絶対的な不足に見舞われる中,海外からの引揚者や戦災貧困者,旧神農会の露店業者らは建物疎開跡地に青空市場を開店した。これが通称「やみ市」と呼ばれるものである。(国土地理院が公開している昭和23年米軍撮影の空中写真を見るとこれらのマーケットの様子が克明にわかる)

昭和23年に緑橋通が都市計画道路として整備されることが決定されると,各マーケットの撤去が問題となって最高裁に上告されるに至り,昭和29年警察官150名が出動する中強制撤去が実施された。アサヒビルはこうした過程の中で株式会社が設立されてビルを建設したもので,強制撤去が行われた年にビルが完成している。

 

1階には道北バスと旭川電気軌道の営業所が入っている。旭山動物園行きのバスもアサヒビルの前から出る。

1階のアサヒビル商店街は本日休業だった。

 

1階ロビー。

 

地下への入口は内部に1箇所,外部に面して2箇所,計3箇所ある。

内部階段から地下に降りる。

 

地下食堂街は営業していた。

 

恐らく道内で最も古い部類に入る地下飲食店街。

半地下にあるトイレは改装されていた。

2階ホール 3階ホール

かつて2階にはアサヒビルデパートが入居し,2階フロア単独で商店街が形成されていたが,いまは寂しい限り。

上階のトイレは昔のままだった。

3階廊下。ドリフターズのコントに出てきそうな商社の事務所が並んでいる。

4階には代々歯科が入っている。

4階エレベーターホール。金融関係のテナントですら最近は撤退が相次いでいる。

 

6階にあった旭川ステーションホテルは既に閉鎖されており,階段には柵がしてあった。往時は時刻表や新聞に頻繁に広告を出しており,宿泊料金が安かったことから,周遊券で旅行している旅人には地味な人気があったという。(右の広告は「道内時刻表」昭和62年3月号より)

アサヒビルの解体は戦後の終わり,昭和の終わり,近代という時代の終わり,周遊券文化の終焉など,いくつもの時代の終わりを意味する象徴的な出来事になると言えそうである。

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