北海観光節旅行記九州吹雪

子守唄の里

さて,五木村はご存知「五木の子守唄」発祥の地である。


「五木の子守唄の謎」のCDジャケット。このCDには五木の子守唄ばかり25バージョンが収録されている。

おどま 盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ 早よもどる
おどま かんじんかんじん あん人たちゃよか衆 よかしゃよか帯 よか着物

この子守唄を初めてレコードに吹き込んだのが,あの音丸さんだった。

音丸さんは昭和24年秋の九州巡業中,人吉市の古老から当時既に消えかかっていた五木の子守唄を習い,すっかり気に入って滞在を延ばしてまでとことん覚え込んた。帰京後すぐにキングレコードの文芸部長を訪ね「人吉市で素敵な子守唄を覚えてきたの,これを唄わせてもらえない?」と懇願,早速同年11月17日にレコーディングし,翌昭和25年3月にレコードが発売されたのである。その後音丸さんは,ラジオでもステージでも遮二無二この子守唄を歌い続けたという。

わたしの祖母もまたこの子守唄に魅せられていたようである。小学校5年くらいの時だったろうか,祖母はわたしに五木の子守唄を聴きたいと言った。祖母がそのようなことを言うのは珍しいことだった。わたしは若干オルガンを弾くことができたので,いくつかの子守唄の楽譜を探して弾いてみたが,祖母はそれではないと首をひねるばかりで,結局五木の子守唄を弾いて聴かせることはできなかった。

五木の子守唄の魅力とは何なのだろうか。一度発祥の地を訪れてみたいと思った。そう思って調べてみると,その地は現在ダムの建設が進み,近い将来湖底に沈むのだという。これは何としても今のうちに見ておかねばならぬ。

ところが,行程上どうしても訪れるのが12月31日になってしまった。五木村へは人吉からバスで1時間弱だが,事前にバス会社に問い合わせると31日は年末年始特別ダイヤでの運行になるとのことだった。これだと五木での滞在時間が5分程度しか取れない。

滞在時間5分では行ってもしょうがないので,レンタカーを使うことにしたのである。ところが昨日からの雪でレンタカーを断念せざるを得なくなり,結局滞在時間5分でも行くだけ行ってみることにした。

人吉産交9:40発→頭地10:37頃 産交バス 頭地行き

このターミナル始発のバスだが,定刻になってもバスがやって来ないのであせった。

結局,約5分遅れで発車。乗客はわたし一人だった。里帰りの人が乗っているものと思っていたが,地元客が皆無というのは意外だった。

運転手さんに行き先を問われたので五木村だと答え,子守唄の里を訪ねてきたのだと,いちおう自己紹介しておいた。運転手さんは,一瞬険しい顔をして,「昔とは変わってしまったから」とだけ言った。

五木村までは国道445号の1本道だが,国道といっても人吉市街地では離合も難しいような狭い道だった。

人吉市街を抜けると,北海道の国道と比べても遜色ない2車線舗装道路になった。

お茶の産地だという相良村を経て,だんだんと山間に入ってきた。

運転手さんが突然,「お客さん,川辺川ダムは知っていますか」と聞いてきた。

ダムのことは知っていた。事前にホームページで調べたところでは,昭和41年のダム建設計画発表以来,水没関係者と国との間でもめにもめたらしいが,現在までに移転は完了し,完成間近だというふうに理解していた。

ところが,詳細は差し控えるが,運転手さんによると,ダム問題はまだ決着しておらず,どうやら建設中止になる可能性も出てきているようである。

たしかに,ダムはかなりできてきているものの,現在工事が進んでいるようには見えない。

 

ともかく道路は立派になった。谷底の旧道をところどころで見ることができたが,1車線の細い道で,これが五木本村と人吉を結ぶ唯一の生活道路だったというのだから,たしかにかつては子守唄に唄われるだけの幽玄な山里だったのだろう。

五木村到着。

バスを降りたところからすぐに五木村の集落跡を見下ろすことができた。既にほとんどの建物が移転を終え,旧集落は跡形もない。

傍らには,「五木村は自らの意志にかかわりなく新しい一歩を踏み出す」という碑文から始まる記念碑が建っていた。

子守唄公園

 

子守唄公園も新しい国道沿いの高台に移転していた。

  

公園内には子守像彫刻コンクールの入賞作品が点在していた。

その中でも「ママあいたかった」というこの作品には胸打たれるものがあった。

隣には道の駅「子守唄の里五木」があったが,年末年始休業中で残念。

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