北海観光節旅行記熊野古道と北リアス線

十津川温泉

十津川温泉バス停から6分ほどで本日の宿「ホテル昴」に到着。旭川を出発してから,およそ24時間,ほとんど列車とバスに乗りっぱなしでようやく着いた。

ホテル昴は国道168号から外れた場所にあるが,2010年4月から八木新宮線のバスが乗り入れている。先ほどから気になっていた4人の青年もこのバス停で降りたが,一軒宿のホテル昴には入館せず,別の方向へ向かっていった。彼らはいったい何者だろうか。

今日の宿代は,いままで泊まった宿の中で最も高かった。せっかく十津川まで来たのだし滞在時間も長いので,思い切ったのだが,フロントは極めて事務的で,食事の時間などを言い渡された。明日は何時のバスに乗るのかと聞かれて,バスには乗らないと答えると,ではどうするのかと問い詰められ,果無峠を越えるのかと勘ぐられたので,そうだと言うと,峠を越えても食事をするところはないからと弁当をすすめられた。またどれだけ高いものかと不安に思ったが,525円と思いのほか良心的な価格だった。宿代にしても,繁忙期だからやけに高いわけで,普段はそうでもないようである。

明日は雨の予報である。それも,毎時8ミリと大雨である。実は,明日だけはどうしても雨が降ってほしくなかった。熊野方面に向かうバスは昼過ぎまでなく,かといって引き返すとまた大変なことになる。何があっても,明日は歩くしかなかったのである。それが,よりによって大雨とは気が滅入る。

夕食は食堂で和食。

ボーイさんが飲み物の注文を取りに来たが,繁忙期料金の宿代でいっぱいいっぱいなので何も頼まなかった。

毎日玄米と十割そばしか食べないような生活をしていると,おかずというものにあまり関心がなくなってくる。なのに,ご飯がいつまでたっても出てこない。今夜はたっぷり時間があるので,意地になってひたすらじっと待っていると,ようやく年配の女中さんが現れて,どうぞお食べくださいと促された。ご飯はないのかと尋ねると,希望を聞いてから出すようにしているとのことだった。

料理は刺身などあまり地方色のないものだったが,唯一この「むこだまし」が十津川の郷土料理として出てきた。米が十分に作れなかった十津川村で,正月にお嫁さんたちが米の白餅に似せて白い(あわ)でこしらえた餅だという。

そういう時代がいつまで続いたのかわからないが,この山奥で白い米があたりまえに食べられるのは,実はありがたいことである。おひつで出されたご飯は,何度も茶碗に盛って残さずに食べた。

古道歩きの拠点となっている宿なので,売店では当然雨具なども取り揃えているものと思っていたが,まったくなかった。かろうじて,ジャンプ傘という名のビニル雨傘を売っていたので1本購入した。定価300円のところ,なぜか100円に値引きしてくれた。

 

ロビーに置いてあった奈良新聞は,正月までまだ3日あるのに,もう1月1日号が出ていた。それでいて,載っている記事は道新で随分前に見たものがあった。奈良も案外田舎なのだ。

 

テレビではデジタル放送をアナログ変換したものがケーブルテレビで配信されていた。村の専用チャンネルもあり,行事の案内が流れていた。

泊まっている人は少ないようだった。

浴場はむしろ日帰り客のほうが多く,「〜のう」という語尾が印象的だった。この辺の方言だろうか。

温泉は源泉かけ流しで,2005年には十津川温泉で第1回「源泉かけ流し温泉サミット」が開かれている。しかし,長い距離を引湯しているらしいお湯には無理が感じられた。温泉プールなども本当にこの施設に必要なのだろうか。

2012年12月30日(日)

あくる朝,予報では雨は昼前から降り出すはずだったが,既に本降りとなっていた。

決められたとおり7時30分に食堂に行き,朝食をとる。

8時30分,昨日買ったビニル傘を差し,覚悟を決めて出発する。峠越えは状況を見て判断するとして,とりあえず果無集落までは行こうと思う。

まずは旧道のトンネルをくぐる。

トンネルを抜けたところからが世界遺産熊野参詣道・小辺路(こへち)である。熊野古道のうち京都方面から熊野へ向かうルートは,距離の長さから大辺路,中辺路,小辺路と名付けられたといわれている。小辺路は最も距離が短く,高野山と熊野本宮を70kmで結ぶが,1000m級の峠を3つ越えなければならないため,メインの参詣道とはなっていなかったようである。

ここを歩こうと思ったのは,熊野古道だと知ってのことではなかった。地図を見ていたとき,十津川温泉と熊野本宮が意外と近いことに気が付いた。ただ,狭い国道をを歩くのは嫌だ。それでほかに道はないかと,地形図を見ていると,尾根沿いにずっと歩道が続いており,これはもしかして歩けるかもしれないと思って調べると,それが熊野古道だったのである。

それだけ自然なルートで道がついており,昭和の初めまでは生活道路として使用されていたのだという。もともと,熊野古道は,生活道路と参詣道を兼ねているところが多いが,この小辺路の果無峠越えは特に生活道路としての色合いが強く,ぜひ歩いてみたいと思った。

吊り橋の柳本橋を渡る。橋の下はダム湖の一部で,かつては渡し舟や宿屋があったそうだ。標高は150mと意外に低く,本宮,新宮まで船が利用されることもあったという。しかし,多くは危険な川沿いの道を避けて,これから向かう果無峠を利用したようだ。

橋を渡った先からは古道らしくなった。

いきなりの通行止めかと驚いたが,猪や鹿の侵入防止策だった。野生動物に悩まされるのは北海道だけではないのだ。

ぐんぐんと登っていくと,開けた集落に出た。これが天空の郷と呼ばれる果無(はてなし)集落である。

大変な苦労をして水を引き,本当に猫の額のようなところに水田を作っている。

 

住んでいる人もわずかにいるようだった。恐らくほとんど自給自足のような形で,つつましく暮らしている様子に見える。

 

馬の背のような道を歩き,世界遺産碑に到達した。天気は悪いが,ポスターに写っていた景色に間違いない。

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