北海観光節旅行記秋の湯殿山・尾瀬

8. 注連寺

鶴岡市街から旧櫛引町に入ると,旧街道の趣のある道を通る。いまは国道が市街をバイパスし,さらに高速道路までできている。

出羽三山一体で考えると,今回は3回目の訪問である。旅行で複数回訪れるところはそんなに多くない中で,出羽三山はそれだけ強く引き付けられる場所である。

始めに関心を持ったのは,たしか大学4年のときで,快速月山という列車で,極楽浄土にでも行ってきたようなとても幸せそうな顔をした参拝帰り思われる一団に出会ったのを印象的に思っていたのである。

月山,羽黒山,湯殿山を出羽三山と言って,そのうち,羽黒山には2度参拝したが,いずれも冬だったため,冬季閉鎖となる湯殿山神社,月山神社には参拝したことがなかった。

鶴岡を出て40分,旧朝日村の市街を過ぎると,いよいよ山あいに入り,道の駅月山に差し掛かった。

出羽三山といっても山が3つあるわけではなく,月山という山に3つの神社があるのである。月山は世界遺産にこそなっていないが,日本では紀伊山地と並ぶ山岳信仰の霊場であって,出羽三山の呼称も,熊野三山を意識したものであるという。そして,紀伊山地に熊野古道があるように,月山には六十里越街道という古道がある。

今回,湯殿山神社と月山神社の両方を参拝することも時間的に可能だったが,むしろ古道歩きに魅力を感じたので,六十里越街道を歩いて湯殿山を目指すことにした。

 

道の駅に隣接する文化創造館では恐竜展を開催中。向かいには月山ワイン山ぶどう研究所があった

さて,どこから六十里越街道を歩くかであるが,昭文社の「山と高原地図」によると,街道の見せ場とされている田麦俣〜湯殿山本宮だけで7時間半を要するので,これでいっぱいいっぱいだと思った。ただ,距離感からするとどう見てもそんなにかからないのである。昨日久しぶりに長距離を歩いて,その確信をさらに強め,田麦俣〜湯殿山本宮は3時間で歩けると踏んだ。

そうすると,田麦俣には12時半着の2便のバスで間に合うことになり,この1便のバスに乗るなら途中で2時間20分の余裕が生まれる。そこで,ほとんど下調べもしていなかったが,途中の大網でバスを降り,即身仏で知られる注連寺,大日坊の2寺院を参拝することにした。

 

梵字川の渓谷に観光施設が続く。うまくいけば,大日坊の参拝後,折り返しのバスに乗ってこのあたりも散策できるかもしれない。

バスの乗客は4〜5人しかいなかったが,前の席に一人旅の女性が乗っていた。運転手横のいちばん前の席にである。道中,居眠りしているような旅人が多い中で,景色に興味津々なこういう旅人を見るだけで嬉しくなる。

旅の予定表には,かわいい文字でぎっしりと列車の時間や,バス乗り場の番号まで書かれていた。本明寺や大日坊の文字も見えたから,即身仏巡りをしているのだろうか。明日の予定には「8時30分発・湯殿山本宮行」とあったから,恐らく今晩は湯殿山の参籠所に泊まり,明日の朝一で湯殿山本宮を目指すのだろう。一日で湯殿山を巡ろうという私などから見ると,うらやましいような一人旅だ。

バスの時刻表も,私と同じものをインターネットから印刷して持っており,「大網」にマーカーが引かれていた。同じバス停で私も降りるのである。これはときめかざるを得ない。

10時を過ぎ,バスは国道を外れて大網の集落に入った。

10時03分,定刻で大網到着。

注連寺(ちゅうれんじ),大日坊,それぞれ即身仏を有するお寺である。

バスからは予想どおり,一人旅の女性も降り,注連寺のほうへと歩いて行った。久しぶりに旅の同志が現れたのは嬉しいが,声をかける気力はなく,道の反対側を早足で追い越した。悲しい性である。

大網の集落を望む。森敦の『月山』を読むと,なかなかに陰のある集落である。

大網のバス停から注連寺へは,約2kmの道のり。

 

地図にはここに七五三掛(しめかけ)の集落があって,十数戸の家屋が見えるが,倒壊した家が2,3棟あるのみで集落が消えていた。あとで調べると,2009年に大規模な地滑りが起き,全面移転したのだという。歴史ある集落のあまりにもあっけない最後だ。

ここを通る道路は,鶴岡と山形を結ぶ六十里越街道であって,明治38年に現在の国道が開通するまでは,注連寺が湯殿山の入口であった。注連寺の名は,ここを開山した空海が,桜の木に自分の注連(しめなわ)を掛けたことによるようだが,現在でも神域の結界をなしており,参拝者は魔よけの注連縄をかけて歩くという。集落の名には七五三掛の字を当てている。

湯殿山注連寺

20分で注連寺に着いた。車で来ている人たちは結構いた。

拝観料を払うと,いまそこで即身仏の説明をしていますから,一緒に聞いてくださいと案内された。

振り向くと,いきなり正面に即身仏が安置されており,驚いた。金網越しなどではなく,ガラスで覆われた中にはっきりと見ることができた。

いわゆるミイラは中学の修学旅行で訪ねた弘前の長勝寺で見たことがあったが,即身仏はミイラとは異なり,自らの意志によりその体のまま仏様になったお坊さんである。明治になって自殺として禁止されるまでに,全国で相当数の即身成仏が行われたという。中でも山形県には即身仏が多く,特に湯殿山周辺に集中している。

このあたりで即身仏になったのは,一生修行に生きることを決めた一世行人で,みな空海にちなんで,海の字の入った号を名乗っている。

注連寺に残る即身仏は,恵眼院鉄門海上人で,関東から北海道まで広く功績を残されている方である。恵眼院の院号は,眼の流行病を鎮めるために自分の片目を神様に投じて祈願したことに由来するというが,これも実話と思わざるを得ないほどに壮絶な生き方をしている。

まったく知らなかったが,今年は羊年で,6年に一度の御本尊御開帳の年であり,12年に一度即身仏の衣替えをする年でもあるとのことだった。御本尊御開帳に合わせ,五色の紐が大日如来様の手から本堂外の木碑まで結ばれ,五円玉などお賽銭が下げられていた。

鶴岡市ではこの未歳御縁年の特別企画として市内4寺院の即身仏をめぐる「つるおか湯殿山系即身仏集印めぐり」を実施していた。思いのほか即身仏は身近な存在であった。

案内の人は,お寺の中を一巡約25分の説明をひたすら続けており大変そうだった。驚いたのは,参拝客の多くが立って話を聞いていたことである。行儀の問題ではなく,昔のものは正座して見ることを前提に作られているはずなので,立っていては意図したものが見えないはずである。まずは座って,それから心をなるべく昔に寄り添わせていくことが必要だ。

何か縁起物をと思って物色をしていると,お坊さんがこれなんかどうですかと言って示してくれたのが,逆さに張られた牛の絵だった。火伏牛と言って頭が湯殿山,腰が月山,尻が羽黒山にたとえられ,絵札を逆さにして貼ると火伏のお守りになるという。

本堂内にはほかに,ピカソやチャップリンなども描かれた天井画があり,ややくだけた感じがした。明治の廃仏毀釈後,戦後しばらくまで廃寺に近い状態に陥ったことがあり,鉄門海上人の即身仏も一時期行方不明となって見世物小屋を回っていたという歴史が,注連寺をとらえがたいものにしていると感じた。

 

その注連寺が廃れていた時代に,作家の森敦が一冬を滞在し,その経験をもとにした小説「月山」で昭和49年に芥川賞を受賞している。小説を読むと,昭和26年当時,夏は下の道をバスが通るものの,冬は六十里越街道の十王峠が現役であり,鶴岡から商人の往来もあったらしい。今度十王峠も歩いてみたいと思った。

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