北海観光節旅行記秋の湯殿山・尾瀬

10. 田麦俣

大網の集落へ下っていく。

大網郵便局と大網小学校が向かい合う交差点。

大網局前12:23発→田麦俣12:33着 庄内交通 湯殿山行き

湯殿山行き2便のバスは,乗客を1名だけ乗せてやってきた。1日3便しかないバスだというのにひどいもの。

乗り込むと,運転手さんが「お客さん湯殿山まで?」と尋ねた。

田麦俣までと答えると,ここは白川郷の合掌造りと違って,兜造りであることなど教えてくれた。

田麦俣は,鶴岡方面から湯殿山に向かう場合に,最も奥地に位置する集落である。

当初計画では,1便のバスを田麦俣でおり,湯殿山まで歩くつもりだった。それを2便のバスでも間に合うと踏んで予定を変更したわけだが,運転手さんも,田麦俣からだと湯殿山まで歩いて3時間だという。その言葉を信じれば,湯殿山には15時半には到着するはずなので,湯殿山本宮の参拝にも間に合うはずだ。

田麦俣は新道から歩く必要があるのかと思ったら,バスは集落に下りて行った。

この道は現在も国道112号に指定されており,六十里越街道とかなり近いところを通っている。

六十里越街道を歩けば大網から塞ノ神峠を越えて1時間はかかる道のりを,バスは10分足らずで田麦俣に着いた。

 

田麦俣のバス転回所。「それでは楽しんで」と言われてバスを降りる。公衆便所は,近年なくなりつつある壁式だった。

目の前には,兜造りの多数民家が2棟,どんと建っていた。

「よみがえれ棚田」の看板があったが,さすがにここまで来ると水田はほとんどない。もともと,湯殿山参詣道上の旅籠集落だったが,明治の神仏分離令により参詣者が減り,代わって養蚕が導入されるに伴って出現したのが兜造りだという。

現在2棟残っているうちの1棟は,民宿かやぶき屋として活用されている。隣の旧遠藤家住宅の入場券も,ここで求めるよう案内があった。

ところが,先ほどバスの運転手に,原動機付自転車で山形に行くにはどの道を通ればよいかと尋ねていた男が,ここに来てまた道を執拗に尋ねており,しばらく待たされた。道もわからずにバイク乗りを気取るのはやめてほしい。

旧遠藤家住宅

江戸時代後期の建築で,明治の中ごろ養蚕の導入に伴い,寄棟から兜造りに改築されたという。

 

兜造りとした理由は,屋根を切り上げて上層部に光を入れるためであった。それでもかなり暗い。現在は蛍光灯が設置されており,「お帰りの時には電気を消してください」とあったが,照明をつけないで見るのが往時の本当の姿である。

「若妻たちの集り場」とされた部屋には,旅人達が寄せ書きをしていた。

六十里越街道のポスターには岡本太郎撮影の写真があしらわれていた。昭和37年の撮影で,当時はまだ10棟以上の多層民家が残っていたという。

2棟の多層民家の間は,のどかな花畑になっていた。

時刻は13時に近づいたが,今日は6時過ぎに宿を出てから何も食べていない。注連寺や大日坊に食堂はなく,田麦俣も自動販売機すら見かけなかった。

往時の六十里越街道には茶屋がいくつもあったというのだから,今だってうどんでも出してくれる茶屋の一軒くらいあるだろうと思っていたのだが,廃れ様は想像以上だった。江戸時代には年間5万人の往来があったというから,1日200,300人は通行していたことになる。いまでは1日数人通るかどうかだろうから,たしかに茶屋などなくなっても無理はない。

多層民家の前に長椅子があったので,ここでやむを得ず,昨日盛岡駅で買っておいた,虫歯になりそうな味付けパンを昼食とする。

民宿かやぶき屋では,六十里越街道のガイドマップと「ゆどのみち押印帖」を手に入れることができた。一式で500円。充実の内容だが,いまじっくり読み込んでいる時間はない。こういうものは事前に入手できるようにしてほしい。

田麦俣公民館前の国道を上る。

時計台は番所跡だという。

旧大網小学校田麦俣分校の案内板があったので行ってみる。

田麦神社への道。

学校跡の体育館には紅白幕が張られ,まつりが行われていた。あとで知ったが,田麦俣まつりと言って,田植踊や神楽で知られる伝統あるまつりとのことだった。少しでも覗いてみればよかった。

学校跡を後にし,さらに急な坂道を上る。眺望の良い場所に,わずかに1枚だけ水田が残っていた。

正面右手に連なっていく山を,鷹匠山という。日本最後の鷹匠と呼ばれる松原英俊氏が住まわれているのがこの田麦俣の集落であるという。

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