盆踊りの魅力

「子供盆おどり唄」と「北海盆唄」

「子供盆おどり唄」と「北海盆唄」。その具体的な魅力は別に詳しく述べることとするが,それぞれ戦後の復興の時代に生まれて,現在まで連綿と盆踊り唄として使われ続けている。北海道の盆踊り唄にこれら以外考えることはできず,将来も恐らくこれらに代わる盆踊り唄は出てこないだろう。それだけ「子供盆おどり唄」と「北海盆唄」が詩としても音楽としても素晴らしい作品だということである。我々はこれらの盆踊り唄を残してくれた先人に深く感謝しなければならない。

盆踊りの開放性

踊る阿呆に見る阿呆というが,どちらであっても盆踊りはまず楽しいものである。たいていの盆踊りは輪踊りで,何分かで1回転する。踊り手にとっては「またあの人の前に来る」,そんな密かな楽しみもあるだろうし,観客も「三度のメシより盆踊りが好き」「オレの一年は盆踊りのためにある」というような熱心な踊り手を輪の中に見つけたりして興奮の度合いを高めていく。

盆踊りを「踊る」側の視点で見れば,まず最大の魅力はその開放性であろう。盆踊りは地域共同体と深い関わりのある年中行事だが,その昔,若い男女はお盆になると村から村へと盆踊りを渡り歩いたという話が伝えられているように,盆踊りとは元来,外の世界に開放された性質を持っている。

盆踊りに参加するのに資格はいらない。特定の団体に属している必要もないし,身分も問わない。踊りも簡単だから,子供からお年寄りまで誰でも踊れる。近年では車いすで輪に加わる人もよく見かける。そして,輪の中では皆が平等で,背広の月給取りよりもむしろボロ着で踊る労働者が人気を集めたりする。

ヨサコイのように特定の人しか踊りに参加できず,時には観客をも排除するイベントとは異なり,誰もが自由に参加できるということが盆踊りの大きな魅力である。格差社会といわれる世の中にあって,踊りの輪の中に開放感を求めようとする人達は今後ますます増えていくのではないだろうか。

単純さゆえの地域性・個性の表出

北海道の盆踊りはどこに行っても「子供盆おどり唄」と「北海盆唄」ばかりである。しかも,踊りは簡単で,特に北海盆唄は初めての人でも見よう見まねですぐに踊れてしまう。これほど簡単な盆踊りは全国でもほかにないのではないだろうか。

盆踊りを「見る」側の視点で考えたとき,どこに行っても同じ唄で踊りが単純なのではすぐに飽きてしまうのでは,と思われるかもしれないが,実はその逆で,むしろ単純だからこそ地域性や個性がそのまま現れるのである。踊りが簡単だからといって,技巧的に物足りないのかといえばそうではなく,熟練者が踊ればそれなりの味が出るし,北海盆唄は素人でも簡単に唄えるものでありながら,鍛練を積んだ者が唄えば聴衆を泣かせるだけの力を持った唄になる。歌詞は地域によって無限のバリエーションがあり,聴く者を飽きさせない。

つまり,盆踊りは個性を押し殺した集団演技が求められるヨサコイなどとは対照的に,どう唄うか,どう踊るかはその人に任されているのである。

したがって,盆踊りを総体として見れば,地域の特色が見て取れるし,一人一人の踊り手に注目すれば,踊る手先に踊り手の人生までもが表現されるのである。見る者にとってこれほど面白いものはない。

陰影礼賛

19世紀末にトーマス・エジソンが日本の竹をフィラメントにして製造した白熱電球が,奇しくも日本の文化から生気を奪い取ってしまったといわれる。電球ができる前の世界は,白昼下の屋外を除けば,すべて闇に支配されており,能にせよ歌舞伎にせよ,日本古来の芸能は,蝋燭のみによって照らされる幽玄の世界で演じられたとき最も美しく映えるように作られていたのである。照明を用いてすべてを鮮明に見せてしまうことはそれらの美を半減してしまうと,谷崎潤一郎は著書『陰翳礼讃』の中で述べている。

いまはどこでも,人のいるところはどこまでも影がないように照らさなければ気が済まない時代になった。郊外の量販店に100円ショップ,コンビニエンスストア,ガソリンスタンドと,文化とは対極的な方向に進むに従って,ますます照度を増していくようだ。夜に行われる祭りも,ヨサコイなどはパチンコ屋のような派手な電飾を施したトラックに,大きなライトをずらりと並べ,目がくらむほどの光を踊り子に浴びせる。

そういった中で,盆踊りは陰影を大事にする数少ない昔ながらの文化だといえるだろう。盆踊りの会場は基本的に暗い。暗いからこそ,死者の魂を迎えて踊るという思想が現在でも説得力を持っている。そして,踊りに興じる若き踊り手たちには,現代の能役者や歌舞伎役者が既に失ってしまった怪しげな美しさがまだ息づいているように思われるのである。

艶(つや)のある芸

地唄,長唄,端唄に常磐津,新内といった純邦楽,明治大正に大流行した浪花節(浪曲ともいう),それに誰彼となく唄いだした民謡,これらが日本本来の歌である。ところが,それらは完全に現代日本人の関心の外に置かれている。実際,民謡歌手が歌う民謡や伝統芸能と称する純邦楽は決して魅力的であるとはいえず,人々の関心から邦楽から離れていくのはやむを得ない面がある。そしてときたま,ただ派手なだけの津軽三味線がもてはやされては,すぐに飽きられていくのである。

しかし,日本の音楽は本当はこんなにつまらないものではなかったのである。生きた姿の日本の音楽を知るためには,わずかに残された往時のレコードを頼りにするしかないが,花柳界出身の二三吉さんや市丸さんが唄う小唄や端唄,小梅さんや音丸さんが日本で初めてレコードに吹き込んだ各地の民謡,浪花節全盛時代の桃中軒雲右衛門や広沢虎造の浪曲,それらのごく一部が現在CDに復刻されて入手することができる。デジタル化の過程で,レコードに刻まれていたゆらぎや息づかいが相当そぎ落とされているのだろうが,それでも,日本の音楽とはこんなに面白いものだったのかと驚かざるを得ない。要するに芸に艶があるのである。

芸能は伝統芸能と呼ばれるようになった時点で本来の魅力は失われているのであり,民謡も,その民謡が生まれた生活空間から切り離されて,プロの民謡歌手がステージで歌うにようになったらもう終わりなのだ。

そういう意味では,北海道の盆踊りはまだ十分に艶を持っている。艶のなくなった芸には,上手いか下手かという判断基準しかないが,盆踊りでは唄も踊りも上手い下手は関係ない。土地の唄い手は多少調子を外していたとしても,地に足のついた声は聴衆の心を打つ。あるいは,若い男女が浴衣がけで唄うのは,唄がどうであれ艶っぽいものである。このように盆踊りは,いまだ伝統芸能とはならずに艶を保っているという点でも魅力的である。

着物の美しさ

近年和服がブームになっており,書店では着物関係のファッション誌がたくさん並んでいる。本格的な和装となるとまだなかなか敷居が高いが,浴衣は和服の中でも最も気軽に着ることができ,浴衣で盆踊りに参加した踊り手に特典を与えるというような取り組みが最近増えてきたのは,大変好ましいことだと思う。

そもそも,和服は日本人を最も美しく見せる服装であり,特に年輩者は多少体形に難があってもも,和服を着てさえいれば誰でも美しく見えるのである。ところがヨサコイでは,あえて汚い足を見せる法被スタイルや,洋服とも和服ともつかない山姥スタイルが横行しており,なぜあえて無様な格好をするのか理解に苦しむところである。

近年,外国人観光客の誘致が北海道でも課題になっているが,外国人が北海道に求めているのはアメリカ的風土でもなく,国籍不明のヨサコイ的文化でもなく,あくまでも「日本」なのである。したがって,外国人の誘致を考えるなら,日本人が浴衣を着て踊る盆踊りのようなものを第一にアピールすべきだと思うのだが,そのような発想がまったく見られないのは残念である。

観光と盆踊り

盆踊りは観光客向けのイベントではないし,観光化することが望ましいとは思えない。全国的に見ると,盆踊り自体が文化財に指定され,団体客がツアーで見物に訪れるような観光化された盆踊りもいくつかあるが,そういう盆踊りは盆踊り本来の意味や魅力を既に失っている。しかし,先に述べた「開放性」と「地域性」という盆踊りの特徴を考えたとき,盆踊りは重要な観光対象になり得ると言うことができる。

観光とは,単に観光地を巡ることではなく,その土地を理解するということである。観光地とは,その土地を効率よく知ってもらうために観光客に用意された場所であり,観光地を巡ることは観光することの十分条件ではない。

北海道に来て,丘の景色,牧歌的な風景,自然だけを見て観光した気分になる観光客が多いが,それだけでは北海道の何を知ったことにもならない。美しい風景の中にも,そこで暮らす人々の生活があり,我々が日常口にしている食物の多くが彼らの手で生産されているのである。そのことに気がつく観光客がいかに少ないことか。

実際,人口が希薄な北海道において,人々の生活の気配を感じることは容易でないが,特に農村,漁村の集落では,盆踊りは小学校の運動会と並ぶ地域総出の行事であり,地元の人間ですら,こんなにたくさん人が住んでいたのかと驚くことがある。もし通りすがりの観光客が運良く盆踊りを見ることができたとしたら,その地域に対する印象は,景色だけ見ていたのとまったく異なるものになるだろう。

危うく崩れやすい調和であるがゆえの美しさ

先に述べたように,盆踊りは基本的に自由なものである。何も決まりはなく,歌い手と囃子方,踊り手と観客がお互いを縫うようにして絡み合い,踊りの輪を盛り上げていく。しかし自由なだけに危うさを伴っており,誰かが自分勝手なことすれば,途端に秩序は崩れる。実際,過去には盆踊りがらみ事件が相次ぎ,行政が盆踊りを禁止した時代もあった。

幸いにも,現在ではヨサコイが人々の日頃抑圧されたパワーのはけ口とし機能しているため,盆踊りのほうはいたって平穏な状態である。しかし,盆踊りが微妙な調和の中に存在しているものである以上,今後どうなっていくのかまったくわからない。このような危うく崩れやすい調和こそが,盆踊りの最大の魅力であり,毎年人々を熱狂させているゆえんなのである。