北海盆唄の誕生

北海盆唄のルーツ

昭和15年頃,札幌の民謡家・今井篁山(明治35〜昭和58)は幾春別炭坑の盆踊りを訪ねた。そこで見た「ベッチョ踊り」の賑やかなこと。これを広く普及させようと,卑猥な歌詞を改め,メロディーも多少編曲して「炭坑盆踊り唄」として活用した。これが「北海盆唄」の原型となる唄で,昭和21年の豊平川河畔の盆踊りで唄われたのが最初だという。

さて,「ベッチョ踊り」というのは三笠に限らず,当時道内各地に広まっていた盆踊りで,そこで唄われたのは,「ベッチョ節」「チャンコ節」「北海道越後盆踊唄」「チャンコ茶屋のババ」などと呼ばれる卑猥な歌詞を持つ唄だった。これらの唄がどこから来たのかということになると,新潟県から高島町に移住した集団移民によって伝えられた「越後盆踊唄」が全道に広まったという説,常磐炭坑で唄われた常磐炭坑節が出稼ぎの坑夫によって持ち込まれたという説など,諸説紛々として定まらない。また,唄の型でいえば「北海盆唄」は七七七五調の終わりの五音の前に「アレサナー」などの囃子詞が入る「アレサ式盆踊り唄」の一種である。福島や栃木には「相馬盆唄」や「日光和楽踊り」など,アレサ式盆踊り唄で「北海盆唄」と曲態の似た唄が多いが,これらも元は越後方面の甚句の影響を受けたものだという。結局は全国的な民謡の伝播ルートの延長線上で,移住者が内地の盆踊り唄を北海道に持ち込み,盆踊りの先進地だった炭坑で北海道の郷土色を付け加えられて開花結実したものが「北海盆唄」のルーツだと考えて良さそうである。

戦後の炭坑節ブーム

終戦後の日本は極度の食糧不足と石炭不足に見舞われた。そこでNHKでは,食料とエネルギー源確保のため,「農家へ送る夕」(昭和20年10月より),「炭坑へ送る夕」(昭和21年8月より)といったラジオ番組を定期的に組むようになった。その「炭坑へ送る夕」の中で,「北九州炭坑節」(単に「炭坑節」ともいう)や「常磐炭坑節」が世に出てきた。当時「炭坑節」は,ポリドールから日本橋きみ栄,テイチクから美ち奴,キングから音丸,コロムビアから赤坂小梅と,各レコード会社の競作で発売されるほどの流行になった。特に昭和23年11月発売の豪快な小梅盤が全国的に大受けし,「炭坑節」は「東京音頭」(昭和8年制作)と並んで日本で最も人気のある盆踊り唄となった。

昭和26年の第1回NHK紅白歌合戦では,赤坂小梅の「三池炭坑節(北九州炭坑節)」と鈴木正夫の「常磐炭坑節」の対決が行われた。この東西炭坑節対決は昭和31年の第7回紅白歌合戦でも再現されており,実況放送の録音テープが残されている。まずは白組から鈴木正夫が登場,「野郎ヤッタナイ」の常磐炭坑節を熱唱。東京宝塚劇場は季節外れの盆踊り唄で大賑わいである。興奮さめやらぬうちに,「月が出た出た」の三池炭坑節が始まる。スタンドマイクを前に,小梅さんが粋な踊りを披露。すると会場も両軍総立ちになって踊り出し,あの小梅さんのよく通る声がかき消されんばかりのお祭り騒ぎになった。

美ち奴(みちやっこ)盤「炭坑節」。レコードの写真は桧山うめ吉著「うめ吉のニッポンしましょ!」(毎日新聞社,2006)に掲載のもの。同書では音丸盤の「炭坑節」も紹介されている。

炭坑夫を図案にした普通切手。昭和23年7月から同26年10月まで,通常の封書送付用の切手にこの図案のものが使用されていた。

国民的民謡へ

もちろん,炭坑は三池や常磐にだけあったのではなく,むしろ石炭産業の本場は北海道だった。そして北海道の炭坑節はといえば,これこそ今井篁山が幾春別で見出し,後に「北海盆唄」となる唄なのである。

今井篁山はこの唄を東京に持ち込み,昭和29年7月「北海炭坑節」(唄:中田篁声)の曲名でレコードが出された(*1)。昭和32年6月には「北海盆唄(ちゃんこ節)」のタイトルで伊藤かづ子が吹き込んみ(*2),さらに,昭和33年の晩秋,当時人気絶頂だった三橋美智也の歌唱でレコード化されると,全国的に知られる流行民謡になった。

一方,昭和35年には,民謡の権威書である町田嘉章・浅野建二編『日本民謡集』(岩波文庫)に,「北海道追分」「ソーラン節」「いやさか音頭」とともに北海道の民謡として「北海盆踊唄」が採録され,"民謡"としての地位を確固たるものにした。

昭和46年10月,「8時だョ!全員集合」のオープニングテーマとして「北海盆唄」の替え歌が採用され,「ハァードリフ見たさに……」とザ・ドリフターズのメンバーが毎週法被・鉢巻き姿で唄った。この番組は最高視聴率50%を超えるお化け番組で,「北海盆唄」は一躍日本でいちばん有名な民謡になったのである。このオープニングテーマは昭和60年9月の番組終了まで使われた。

なお,昭和40年代前半まで「北海盆踊り唄」「北海道盆踊り唄」などの名が混同して用いられたが,昭和40年代後半以降は「北海盆唄」に統一されている。

*1 これより前,昭和27年から昭和28年にかけて斉藤浪聲・久慈たか子の唄で「炭坑盆踊り」がレコード化されており,曲態は「北海盆唄」とほぼ同じである。

*2 長田暁二・千藤幸蔵編著『日本の民謡−東日本編−』(教養文庫,1998)では,「この唄(筆者注:北海炭坑節)は流行性があるとピンと感じた掛川尚雄ディレクターは,改めて斉藤京子で吹き込ませ,1957年(昭和32)年7月新譜で発売する際,初めて掛川が『北海盆唄』と改名した」とある。

全国的なブームのきっかけを作った三橋美智也の「北海盆唄」。

三橋に続き,三波春夫も昭和35年に「北海盆唄」を吹き込んだ。

「正調北海盆踊保存会」

先に述べたように,昭和30年代の半ば以降,盆踊りは一時斜陽化する。特に旭川では昭和35年8月20日に銀座通りの盆踊りで殺傷事件が起きたこともあり,関係者の間には,このままでは若い人々に背を向かれて盆踊りが消滅してしまうのではないかという危機感が募っていた。そこで旭川では昭和37年7月,「正調北海盆踊保存会」を設立,盆踊り大会を抜本的に改革し,次のようなことに取り組んでいくこととした。

1. 踊りの会場を従来より照明の明るいものとする。

2. 子どもの参加は夕刻早い時刻にし,子供盆踊りと位置づける。その終了後大人の盆踊りとする。

3. いままで不統一であった踊りを会で統一し,新しい踊りの型を決める。

4. 唄は従来「よされ節」が多かったが,今後は「北海盆唄」を主流にし,歌詞は卑猥なものを排除する。

5. 太鼓の打ち方を統一する。

折りしも,盆踊り大会の有力なスポンサーであった山崎酒造(男山株式会社)の常務山崎志良は,酒造品の販路拡大のために欧米各地を巡り,各国の民俗芸能の保存の熱意を肌で感じていたところだった。彼は,日本古来の民俗遺産の衰微の現状を憂い,伝統的な日本古来の盆踊りを,特に北海道の風雪と闘いながら開拓の進展とともに風土に根付いてきた北海道独特の盆踊りを残そうと決意し,記念碑の建立を発想した。

もともと旭川には古老談として,屯田兵あるいは増毛方面のヤン衆が持ち込んだ唄が「北海盆唄」の元になったとする「北海盆唄旭川発祥説」があった。記念碑の建立にあたって旭川発祥説を明らかにするために,全道各地の民謡団体や民謡愛好者に発祥の有無を打診,ほかに名乗りを上げるところがなかったため,旭川をその発祥の地に定めることとなった。昭和42年8月,男山自然公園の本格オープンにあわせて,園内に「北海盆唄発祥之地」の碑が建てられた。

直径1メートル余りのニレ材には「北海名物 かずかずあれど おらがくにさの 盆おどり」と書かれているが,このほかに碑が木標だったため刻むことのできなかった碑文があるという。

「指呼に大雪の霊峰を仰ぎ 眼下に石狩の清流を望む 悠揚として胸中に去来する望郷の念 ここに北海盆唄生まる」

旭川発祥説の真偽はともかくとして,「正調北海盆踊保存会」がこれまで取り組んできた国内外での「正調北海盆踊り」の公演,振り付けや太鼓の統一化と指導などは,北海盆唄の普及に大変大きな役割を果たしたきたと言うことができる。

男山公園に建つ「北海盆唄発祥之地」の碑。現在の木柱は昭和56年,NHK民謡紀行「北海盆唄」録画のおりに立て替えられたもの。

2006年に刊行された正調北海盆踊保存会史。

北海盆唄全国大会の開催

前掲の町田嘉章・浅野建二編『日本民謡集』では,北海盆唄のルーツとして「新潟県から高島町(小樽市)に移住した集団移民によって伝えられた『越後盆踊唄』の改作」であるとし,以後この説が通説化されていた。しかし,昭和50年代に入り,本格的な民謡事典や全集本,解説本が発行される中でルーツの探求も進み,「ベッチョ踊り」−「今井篁山」−「北海盆唄」のラインが明らかになってきた。

平成4年,北海道教育大学名誉教授で北海道民謡連盟最高師範である吉田源鵬が,日本民俗音楽学会で三笠の幾春別で唄われていたベッチョ節が北海盆唄のルーツであると発表。翌年三笠市では「第1回北海盆唄全国大会」を開催した。さらに開庁120周年にあたる平成13年には700万円を投じて高さ10.5メートルの三層やぐらを復活させ,翌平成14年には「第1回三笠北海盆おどり」を開催,ゲストには北海盆唄を全国に知らしめたザ・ドリフターズのメンバーである高木ブーが招かれた。これらのことは新聞紙上で連載記事が組まれるなどして道民に広く紹介され,一時期下火になっていた盆踊りか各地で再興の動きを見せているのは前述のとおりである。

なお,長く北海盆唄のルーツとして通説化されていた小樽高島の越後盆踊りであるが,こちらも平成13年に小樽市の無形民俗文化財に指定されてその歴史的価値が再確認され,昔ながらの越後盆踊りが近年ではますます盛んに開催されている。

小樽市高島児童公園に建つ「高島越後踊り」の碑