第4回三笠北海盆おどり
訪問日:2005年8月15日(月)
場所:三笠市中央公園
北海盆唄のルーツについては,津軽地方から鰊漁の出稼ぎに来たヤン衆が大漁祝いに唄ったものだとか,新潟から高島に移住した人達が唄った「越後盆踊唄」の改作であるとか古くから諸説あり,昭和40年代初頭には旭川が発祥の地であると一旦結論づけられ,男山公園に発祥之地の碑が建てられたが,現在は三笠が発祥の地ということになっている。
「北海民謡の父」といわれる今井篁山が昭和15年8月,三笠幾春別炭坑の盆踊り(べっちょ踊り)を見て感銘を受け,やや卑猥であった歌詞を改め,メロディーも多少編曲して世に出したのが北海盆唄であった(当初は「炭坑盆踊り唄」「北海炭坑節」などと名乗っていた)。
このことから,1992年に道教大岩見沢校の吉田源鵬名誉教授が日本民俗音楽学会で,北海盆唄のルーツは三笠にあると発表,三笠市では翌年から「北海盆唄全国大会」を開催している。2001年には700万円を投じて高さ10.5メートルの三層やぐらを復活させ,翌2002年には「第1回三笠北海盆おどり」を開催,ゲストには北海盆唄を全国に知らしめたザ・ドリフターズのメンバーである高木ブーが招かれた。
しかし三笠市も人口が約12000人にまで減少し,豪華が櫓が建つわりには踊り手は少なく寂しい。2006年には日程が8月13日〜15日に縮小され,よさこいソーランや伊藤多喜雄のコンサートが行われるなど,神聖な盆おどりが,半ばヨサコイのイベントに化してしまったのは残念である。
初めて三笠の盆踊りを見に行ったのは2004年の第3回で,このときは直前になって降り出した大雨で中止になった。
2005年の8月15日,2度目の訪問である。桂沢方面から三笠に向かい,幾春別を過ぎると沿道のバス停に浴衣を着た人の姿がちらほら見られた。
18:00〜19:30 こども盆おどり
子供盆おどり唄にはタンポポ児童合唱団版のテープが使われていた。このタンポポ児童合唱団版のテープはきちんとした再生設備がないとその魅力が十分に発揮されないが,三笠では大変素晴らしい再生音で聴くことができた。
こども盆おどり動画(4.1MB)
こども盆踊りが終了すると,その場にしゃがんでおやつをもらう。
会場の一角で開催されていたふるさと写真展。昔の盆おどりの写真が展示されていた。
出店も良い雰囲気。
19:30〜21:00 大人盆おどり
いよいよ北海盆唄による大人盆おどりが始まった。
大人盆おどり動画(3.0MB)
はじめはややゆっくりとした調子だったが,徐々にテンポが速くなり,盛り上がっていく。歌詞はオリジナルのものが多く,無限にあるといってよいくらいである。同じ歌詞が繰り返されることもほとんどなかった。以下は録音から文字に起こしたもので,これでも当日唄われた歌詞のごく一部である。「三笠山には……」以下の歌詞は美しい物語のようになっている。○○○は伏せ字ではなく聞き取れなかった箇所である。
北海名物 数々あれど おらが国さの 盆踊り
五里も六里も 山坂越えて 逢いに来たのに 帰さりよか
波の花散る 津軽の海を 越えて蝦夷地へ 何時来たか
唄え踊れよ 叩けよ太鼓 月の世界に 届くまで
揃ろた揃ろたよ 踊りが揃ろた 囃子太鼓の 音も揃ろた
高い山から 谷底見れば 瓜や茄子の 花盛り
鳴いてみたとも 鳴けない蛍 月に負けじど 身を焦がす
○○○○わして ○○○○○○○ 鳴かぬ蛍が いじらしい
鳴かぬ蛍の 身を焼く舞を 主に見せたや 盆の夜
三笠山には 虹橋かかる 好いたあの子が 気に掛かる
好いたお方と 揃いの浴衣 秋が来たとて はなしやせぬよ
踊り疲れて 崩れた化粧 月を鏡に 色直し
村に櫓が とりもつ縁で おらとかかあの 二人旅
かかが唄えば おやじが囃す そばでわらしが 踊り出す
せがれ○○○で ○○○たときは 思い起こせよ 夜の櫓
櫓太鼓が ○○○のたよりよ 三笠たるまい ○○○○○
いつの世までも とどろけ太鼓よ 映える三笠の つちおとだ
達布山から ふもとを見れば 黄金波打つ 田や畑
三笠山かし 花火の見事 夏の一夜の 恋の夢
やめろやめろの こりなきうちに ここらあたりで 切り上げる
夢もかなえば 何にもいらぬ ヤマの男の 夢一つ
○○○○がして 月夜の夜に ○○○見せたい ○○○○○
咲いた桜に 何故駒つなぐ 駒が勇めば 花が散る
○○○日本の 夜明けの町は おらが三笠で 幌内だ
北の大地を つらぬく汽笛よ 目指せ幌内 ヤマの町よ