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大橋を渡ると国道に出て左折,約3km走って左折。
ここから先は昭和38年まで国道に指定されていた道路である。現道から分岐してすぐ山部橋を渡る。大型車進入禁止の弱弱しい橋だが,この橋は比較的新しく昭和52年に竣工している。
さらに,いかにも怪しげな細くくねった舗装道路を進むと,山部川を渡る。ぼろぼろのコンクリート橋で通行車両は5トン以下に制限されているが,相当古いもののようである。
ここで大きな道路に出て山部市街に入る。国道38号にすり寄るようにして合流するが,市街はこちらの道のほうに延びていることからも旧道であることがわかる。
現国道に合流してすぐの次の信号を左折,踏切を渡る。
右手に山部駅の広々とした構内が見える。根室本線は昭和56年10月に石勝線が開通するまでは札幌と帯広・釧路方面を結ぶ大幹線だったのであり,山部駅には急行列車が停車していた。構内本線の有効長は420mあり,踏み切りのある場所はまだ線路が2本になっている。
踏切から約1km直進して右折。
ここから富良野市街まではほぼ一直線で結ばれている。空知川を渡船で渡っていた時代には富良野と山部の往来にはこの道路が利用されていたことから,山部街道とも称される道である。
一方,この直線道路は北大の第8農場の基線として設定された道路でもある。
富良野原野は明治30年に殖民地の貸下げが開始されたのであるが,その前年明治29年に札幌農学校が現在の富良野市の南側一帯に第8農場を置いた。
札幌農学校は明治9年に創設(明治40年東北帝国大学農科大学,大正7年北海道大国大学,昭和24年北海道大学となる)。明治29年にはクラークの教えを受けた一期生・佐藤昌介が校長に就任していた。佐藤昌介は明治15年〜19年の米国留学中,米国の農工科大学が国有地の分配を受け基本財産としているのに倣い,札幌農学校においても各地に校有財産として大面積の土地付与を受けた。下富良野の農場は学内の第1,第2農場,烈々布,簾舞,角田北,角田南,七飯に続き,道内8番目に設置されたので第8農場といい,面積は約3800ha,8つの農場で最大規模だった。農学校では小作人を募集して開墾にあたらせ,小作料は大学の財源となった。また,学部造成などで多額の費用を要するときには小作人に農地を売却して資金としている。
第8農場の区域は学田一区〜五区と山部からなっていた。学田一区〜三区は現在も学田という地名で残っており,学田四区は現在の布部,学田五区は現在上五区・中五区・下五区という地名になっている。
資金のない移住者たちは,まず小作農として入植し,自ら土地を開墾して一定期間小作料を納めると農地の譲渡を受けられるとされていた。一方,小作料は大学の資金源であったため,農民は苦労を強いられた。戦後GHQの意向により昭和21年から25年にかけて全国で農地改革が実施され,北大農場も希望者に未墾地価格で売り渡され,249戸の自作農が誕生した。しかし,価格が不当であったことと,開墾小作の場合土地に対する租税もかからず,小作料は固定資産税よりも安く営農に支障がなかったことから,95戸の農家は依然として小作に留まった。このため昭和34年,北大は小作料を一挙に10倍に引き上げる措置を発表。これに対し富良野では昭和36年に払下期成会を結成。栗山,札幌,簾舞,幌加内,中川,幌延,音威子府を巻き込んで解放運動を展開した結果,昭和38年に全農地が解放された。なお翌39年には東大演習林に残っていた小作地も解放され,ここに日本の小作制の完全な終焉を迎えたのである。
道路がやや右にカーブしたところで左折する。
道路を曲がったところの左手に天満宮がある。この神社は北大農場の小作人の心の拠り所として明治35年ごろに創祀されたもので,学問つながりで天満宮になっているのがおもしろい。明治42年には第8農場の成墾記念碑が建立された。
このあたりに,通称「富良野道路」の富良野南インターチェンジができることになっている。富良野道路は道央道の旭川北I.Cと道東道の占冠I.Cを結ぶ地域高規格道路「旭川十勝道路」の一部をなし,芦別側の学田3区で国道38号に接続し,トンネルで北の峰を抜け,帯広側の上五区で国道38号につながるという8.3kmの区間で,国道38号のバイパス的位置付けとして先行着手を目指している。
しかし,私はこの道路は建設すべきでないと考える。
この道路の第一の問題は道路が農地をつぶすということである。富良野は農業が基幹産業なのであり,農地をつぶして道路を作ることは本末転倒だ。
第二の問題として,市街地の交通量の減少がある。バイパスにより旧来の市街地が寂れてしまった都市はたくさんあるが,これは実際に自分の町が経験してみなければわからないことのようで,全国各地で何度も同じ失敗が繰り返されるのである。一方で,商店街では跡継ぎもいないのに多額の補助金を投入した再開発事業が行われている。商店街の人も,目先の利益で公共工事にただ賛成するのではなく,きちんと将来のことを考えて,反対すべきことには反対すべきである。
そもそも新たなバイパスが必要なほど,富良野の道は混雑していない。既にバイパス的道路としては,道道985号山部北の峰線があり,また,観光地と農村を結ぶ重要な道路として,五条大橋も近年まれに見る立派なアーチ橋で建設された。観光,農業,商店街の生き残りを考えるのならば,こうして地道に築き上げてきた道路網を生かしていくべきだと私は思う。
立派な舗装道路の坂を上る。私が子どもの頃はこの上に墓地があるだけで,ガタガタの砂利道だったのだが,近年チーズ工房などができて観光化され,北の峰にも通り抜られるようになった。
右手には育良会館があるが,もと育良小学校のあったところで,私の母は小学校の途中までこの学校に通っていた。
(昭和5年当時の育良小学校)
道なりに進み,突き当りを右折,すぐに左折する。北の峯学園,北の峯ハイツの奥に北真神社がある。
富良野が「北海道のへそ」であることを売りにし始めたのは昭和44年である。その年,市民憲章に「中心標のあるまち」である旨が記載され,第1回北海へそ祭りが行われた。北真神社は昭和49年7月29日創祀。北真の名は北海道の真ん中にあることに由来する。一名へそ神社とも呼ばれ,生命の源,愛情の源であることを縁起にしている。例大祭は毎年7月28,29日で,この日に合わせてへそ祭りが行われている。母子堂は昭和53年に清水山に建立されたものを移設したもので,「親と子のきずなを大切にする会」がへそ緒を奉安している。
先の道路に戻り,北へ直進,500先で右折。
坂を上ると左に富良野演劇工場がある。富良野演劇工場は2000年12月にオープンした全国初の公設民営劇場である。運営は全国で最初にNPO法人の認証を受けた「ふらの演劇工房」がボランティアで行っている。富良野在住の作家倉本聰氏が知恵を注ぎ込んだ劇場は作り手が使いやすい空間になっており,客席数は少ないが,富良野塾の公演をはじめ,この規模の都市では異例ともいえるような一流の役者を招いての公演が行われている。
富良野演劇工場の向かい側に中区配水池展望台がある。2002年8月にオープンした新しい施設で,西に新富良野プリンスホテル,東に北に下五区の農場,北に富良野演劇工場を望むことができる。
中区排水池展望台から西側に見下ろすのは御料と呼ばれる地区である。子の地区は明治22年,帝室林野局の御料地に選定されて大正2年に貸下げが開始され,主に奈良県からの同郷団体が入植した。御料地は北大農場や東大演習林よりも早く,大正の末に円満に土地払い下げが許可になっている。これは天皇の土地に小作問題が起こることを好ましくないと当局が考えたからだとか。戦後には奥地に20数戸の開拓者が入った。昭和40年から御園(みその)西瓜の生産が始まり,富良野を代表する特産品になった。1989年にふらの西瓜と銘柄を改めている。
坂を下って先ほどの道をさらに北へ進む。
この道路は正確に南北方向を向いているが,これは帝室林野局が設定した御料基線である。
これで一通り富良野の殖民区画を見てきたことになる。すなわち,上富良野から富良野に至る平原部の北海道庁設定の殖民区画,布礼別の本間農場の区画,東山・麓郷の東大演習林の区画,山部・五区の北大農場の区画,御料地の区画である。明治の人たちは大自然がつくった地上に対して半永久的な人工的規格を引くという大変な事業を成し遂げた。それに比べて我々の時代の土地区画整理事業や宅地分譲などなんとせせこましいことか。
次第に北の峰町が近づいてくるが,その手前,下御料に文化村がある。13区画あって,昭和46年から募集が開始され,倉本聰氏は昭和52年からここに住んでいる。
昭和56年から放送が開始されたテレビドラマ「北の国から」で富良野は一躍有名になった。ところで同じドラマが,同じような風景の他の場所で撮影されたとしたら,同じようにそこが今の富良野のような人気観光地になっただろうか。私はそうは思わないのである。「北の国から」は富良野でなければ成り立たなかった理由が何かあると思うのである。
私は富良野市民の文化に対する包容力がその理由だと思う。富良野には東京から来た作家を受け入れ,ドラマを見て東京から来た観光客を優しく迎える包容力があった。これが「百姓に文字はいらない」と固く信じているような農村だと,東京からインテリがやってきても話しにならない。
その包容力はなぜ生まれたのか。それは富良野に東大の演習林と北大の農場があったからである。大学とは地主対小作人の関係だったが,市民は地主が大学だったことを誇りに思っており,今でも市史などを刊行するときには序文で東大と北大の総長が言葉を寄せている。開拓以来富良野には学者が多く来訪したし,札幌や東京の文化に直接触れる機会があった。
「北の国から」の放送が始まったとき,「富良野はあんなに田舎じゃない」と市民は怒ったというが,そこでへそを曲げたまま終わるのではなく,すぐに観光と結びつけることができたのは,過去のそうした大学との繋がりが素地にあったのではないかと思うのだ。
現在の富良野には東京の一流大学を出た人たちが,UターンやIターンをして住んでいる。そういう人たちにも活躍の場が与えられるのが富良野市である。そして彼らが富良野で新しい文化を創って外へ向けて発信し,それがまた新たな来訪者を生むという好循環を発生させている。
翻って私の地元の上富良野では,大学出の者など単なる変人として扱われてしまい,安住できる居場所がない。富良野市はやはり偉大なのだ。
北の峰の信号の500m手前で右折。
頂上付近まで車で登ることができる。朝日ヶ丘は富良野市街の南西に突き出した小さな山で,開拓時代から「なまこ山」と呼ばれてきた。昭和6年頃から公園として整備され,当初は日の沈む方角にあることから「夕陽ヶ丘」と呼ばれていたのであるが,昭和11年公園期成会の発足ときに市民から名称を募集して朝日ヶ丘に決定した。
頂上からは富良野盆地と十勝峯を展望し,富良野市随一の眺望である。眼下に富良野市街が広がるので夜景も良く,「北の国から」の第8回では大晦日の夜,五郎一家がここから夜景を眺めて,「さようなら1980年」と叫ぶシーンがあった。
桜が植栽され,5月には頂上の一帯が桜色に染まる。
一目千両は朝日ヶ丘よ 咲いた桜の花衣 誰に見せましょこの晴れ姿 街も霞の薄化粧 「富良野小唄」 |
昭和25年,日本観光地選定会議・毎日新聞社主催による日本観光地百選の平原十景のうちに「富良野・芦別平原」が第4位入選となった。これは元道議の竹内武夫が中心となって沿線町村が団結して取り組んだ結果実現したものであり,富良野市における観光開発の嚆矢とされている。翌年富良野町観光協会が設立され,昭和30年には富良野・芦別道立公園が実現した。
文献,パンフレットには朝日ヶ丘公園が日本観光地百選に選定されたと記述しているものがある。たしかに昭和25年10月15日に日本観光地百選当選祝賀観光祭が朝日ヶ丘公園で開催されている。しかし,朝日ヶ丘公園自体が選定されたのではなく,富良野・芦別平原の代表的な展望地として朝日ヶ丘公園が位置づけられたのではないかと思う。
公園を下り,御料基線には戻らず,そのまま朝日ヶ丘の麓の道を空知川方面に進む。
この通りを北の峰シャンツェ通といい,かつてはジャンプ台があった。北の峰シャンツェは札幌冬季五輪に備えて昭和43年1月に完成。昭和50年2月の第30回国体ではジャンプ競技場として使われたが,その後利用されることなく解体された。
突き当たりを右折,空知川の左岸堤防を走る。
私が子どものころは,河畔に石がごろごろしており,磨けば光る石や,形の良い水石がたくさんあった。昔の人たちは川からこうした自然の石を拾って庭に並べて楽しんだものであるが,今はそうしたこともできなくなった。
堤防を1kmほど走ると五条大橋のたもとに出る。
南を向くと碁盤目の玉ねぎ畑が一面に広がり,地区の中央に大きな玉葱定温倉庫が立ち並んでいる。下五区は朝日ヶ丘と空知川に囲われた袋地のような部落で,開拓前にはカツラ・ドロ・くるみの巨木が茂り,昼なお暗い秘境の地であった。それが現在では下五区といえば「玉ねぎ」,と跳ね返ってくるほど,北海道の内外によく知れわたっている。下五区では昭和33年3月に富良野玉葱振興会が発足,昭和40年度からは商品規格の統一化を図るために産品の自主検査に踏み切った。
玉ねぎは思いがけない豊作あり,予想できない大暴落あり,不安定な作物であるが,最も悲惨だったのは昭和58年だった。この年,春は晴天に恵まれ,7月8日の天満宮祭典の時には誰もが大豊作を予想していた。その後7月中旬から誰いうことなく「抽苔がある」と話題となり,あれよあれよという間に一面の林立と化し,未曾有の抽苔大発生となった。抽苔とは花茎が伸びることであるが,こうなると商品価値がまったくなくなる。観光客には玉ねぎ畑の白い花は格好の被写体になったが,農家では大量の抽苔処理に機械作業もできず,一本一本手作業で抜き取った。母の実家は下五区の玉ねぎ農家であるが,このときばかりは親戚の者みなが借り出され,花の咲いた玉ねぎを抜き取ったのを覚えている。
富良野市街中央部の空知川に架かる橋。開拓当初は夏は渡船,冬は氷橋を作って渡っており,山部,金山方面に行く者はみなここを通過したという。大正3年頃には木橋が架けられたが,水害によりたびたび流失した。昭和29年11月,五条橋架設促進期成会が結成され,同31年1月に落成。しかし当時は金山ダムができる前で空知川の水量の変化が激しく,昭和32年10月一部流失,33年8月橋脚一基流失,同36年7月一部流失,同37年8月全部流失した。ちょうど母がこの橋を渡って市街の小学校,中学校に通っていた時期であり,思い出としてよく聞かされた。昭和40年9月,先代の五条大橋が竣工。しかしこの橋は幅員5mのため大型車のすれ違いができず,通行に支障をきたしていた。現在の橋は1993年に完成したもので,幅員を2倍として,歩道にはカラーブロックの舗装が施されている。構造は観光地を結ぶルートにふさわしく,シンボリックな鉄骨アーチが組まれている。歩道にはへそ人形が設置されており,この人形のへそを触るとヘソクリが増えるという噂もある。
橋を渡って,国道38号の信号を直進,2つ目の信号を左折,500mほど進むと富良野小学校がある。
さて,いよいよ旅も終わり,北海道の中心までやってきた。富良野小学校のグランドの一角に北海道中心標がある。正式には北海道中央経緯度観測標といい,大正3年にのちの京都大学教授で天文観測の権威となる新城新蔵博士が,経緯度観測・重力測定を行ったときにコンクリートの台を設置した地点を示すものである。昭和31年には北海タイムス社の北海道文化財百選に選定された。
こうして旅を終えてみると,何か私自身がこれまで歩んできた道を振り返ってきたような気がする。
私の祖先は三重団体の一員として明治31年に上富良野に入植した。大正泥流や戦争で一時上富良野を離れたこともあったが,戦後再び上富良野に戻ってきた。私が死んだとき,もし葬式で誰かに略歴を読み上げてもらえるとしたら,学歴や職歴はどうでもいいから,三重団体の5代目であることだけ言ってもらえればよい。それくらい私は上富良野に生まれたことを誇りに思っている。
私の両親は富良野の生まれであり,4人いる祖父母もそれぞれ上富良野,中富良野,富良野の生まれである。さらに8人いるはずの曽祖父母の時代になると内地生まれになるので,私には富良野盆地以外の北海道の血は入っていない。
中学のときまでは,自分も家業の跡を継ぎ,一生上富良野で過ごすものだと思っていた。旭川の高校に通い,札幌の大学に進学し,釧路の会社に勤めるなどとは,少なくとも中学3年の夏ぐらいまでは思ってもみなかった。上富良野を離れることになったのは親の勧めもあったのだが,今の月給暮らしは一種の出稼ぎのようなもので,いつかは富良野に戻りたいと思っている。
◇ ◇
同世代の人たちに比べれば,私は郷土のことに詳しいほうだと思う。しかし知識のほとんどは文献から得たものである。実は私は「昔を知らない」ということについて,大学に入ってしばらくまで劣等感を持っていた。歴史というのは親から子へ,子から孫へと語り継がれるべきものだと思う。小学校,中学校の頃,友人達は親や祖父母から昔話を聞かされ,昔のことをよく知っていた。しかし私の両親,祖父母は昔のことをあまり話してくれなかったのである。
親は団塊の世代で前ばかり見て歩いてきた人だから昔のことには興味がないし,祖父母は暗い戦争の時代を経験し,特に祖父は昔のことをまったく話さなかった。また,祖父母もさらにその上の祖父母からは北海道に入植する前のことなど聞かされていなかったようである。
幸い,町史や『泥流地帯』を読めば家がたどってきた道のりはある程度知ることができる。大学に入ってからは実家に帰省するたびに図書館に通い,郷土資料を読みあさるようになった。
今回「観光モデルコース上級編」の作成にあたっても,せっかく富良野出身の人間が書くのだから,文献では得られない知識もいろいろ盛り込もうと思ったのだが,結果的には各市町村史に書かれている程度の内容に終始してしまったように思う。
◇ ◇
ここで一つ書いておきたいのは岸本翠月氏の存在である。岸本氏は明治41年に中富良野農家に生まれた歌人・郷土史研究家で,昭和30年代から40年代にかけて山部町を除く富良野沿線の各市町村史を執筆している。現在ではありえないことであるが,1巻1000ページというような市町村史を一人で何冊も書いたのである。岸本氏は「足で書く」という精神のもと,どこにでも出かけ,あらゆる人から話を聞き出している。したがって岸本氏の手による市町村史は膨大な記録の集成でありながら一種の物語のようでもあり,読むたびに好奇心が呼び覚まされ,心が洗われるような感覚になる。私が郷土に興味を持ったのも,一に岸本氏の影響といって過言でない。こういう人はもう世に出ないであろう。岸本氏の市町村史はその後のあらゆる富良野に関する記事のもとになっており,岸本氏がいなかったら『泥流地帯』や「北の国から」も生まれなかったに違いない。日本に柳田国男,北海道に更科源蔵がいたように,富良野に岸本翠月という偉大な郷土史家がいたことを幸せに思う。
旅行にお付き合いいただき,ありがとうございました。