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2代目鬼峠

謎めいた幽谷の馬車道(2019.5.18訪問)

2代目鬼峠の歴史

北海道の中央部やや西寄りに,海洋プレートが沈み込んでできたとされる構造線(神居古潭構造体)が南北に走っている。旭川の神居古潭(石狩川)を中心に,ポンコタン渓谷(雨竜川),空知大滝(空知川),赤岩青巌峡(鵡川),日高竜門(沙流川)など,ここを貫流する河川はことごとく峡谷をなし,古来人の往来を阻んできた。

とりわけニニウと占冠本村の間にある赤岩青巌峡は切り立った谷が続き,木材流送のため歩く人がないではなかったが,「針金のはしご,丸太,舟,ぶどうつる,吊り橋などあらゆる方法」を駆使しなければならない有様だったという。したがって,生活道路としては峰越えの鬼峠が1960(昭和35)年まで使われた。

初代鬼峠に代わり1928(昭和3)年から翌年にかけて開削されたのが2代目鬼峠である。それまで物資の運搬は主に人が背負っていたが,昭和に入ってニニウの農家にも馬が普及する。そのため,2代目の道は馬車道として計画され,上川土木事務所の技手に測量を依頼,王子製紙や高谷木材部,村有志の寄附により工事が行われた。馬車や馬橇が通れる勾配とするため,大きく北側を迂回し,等高線に沿って激しい屈曲を描いているのが特徴である。それまで駄馬で1俵積みだったのが,馬車で5俵くらい運べるようになったが,普段はやはり歩くことが多かった。逓送も最後まで徒歩で峠を越えていた。

1957(昭和32)年7月,旭川青年会議所の企画で医療関係者,報道関係者などの一行約50名がニニウを訪問した。このとき,「聞きしにまさる悪路を難行軍のすえ」数台のトラックが鬼峠を越えてニニウに入っているが,日常的に自動車が通ることはなかったようである。

1959(昭和34)年6月に赤岩橋が竣工,翌年の10月に仁々宇橋ができ鵡川沿いの林道が開通,このときをもって鬼峠は生活道路としての役割を終えた。

2代目鬼峠を歩く

道の駅「自然体感しむかっぷ」のある交差点から道道夕張新得線を西に進む。正面にこれから越えようとする峠を見ながら600mほど行くと鵡川を渡る。明治以来,毎年何万m3というパルプ原木を流送した大きな川である。いまも本流にダムがなく,海からサクラマスが上ってくることがある。

1954(昭和29)年までここに渡し船があり,渡し守の住居が残っている。険しい峠越えとともに,この渡船場のこともニニウにまつわる記憶として村の人たちに語り継がれている。さらに1kmあまり道道を進むと,JR石勝線鬼峠トンネルの脇に2代目鬼峠の入り口が見えてくる。

峠の頂上までは,ほぼもとの道のまま「ふるさと林道鬼峠線」として整備されている。途中,送電線が交差しているところは木が伐り払われ,占冠市街やトマム方面の山並みを一望にする。

占冠橋渡船場跡。市街に映画や芝居を見に来た帰りには,みんなで手をつないで川を渡り,月夜の鬼峠を越えたという。
峠の頂上付近までは舗装された林道が続いている。

頂上付近はなだらかで,見事に最低鞍部を越えている。かつては初代の峠と同じく休憩小屋があったという。

峠のニニウ側は車道として整備されないまま往時の姿そのままに残っている。ところどころ崩落個所があるが,道の形はしっかりしており,激しい屈曲を描きながらも,ほぼ一定の緩勾配で谷間を下っていく。ときおり勾配が妙に急になったと思うと,それは後年につけられた作業道で,注意深く周囲を探せば必ず緩やかに山肌を縫っている馬車道が近くに残っている。途中,かなり深い谷を渡る場所があるが,巧妙に場所を選んで橋を架けることなく渡っているのには感動する。

2代目鬼峠頂上。稜線が最も低くなったところを越えており,標高は初代の峠より80mほど低い。
しっかりとした馬車道が残る。

峠を下りきってかつての土場のような広場に出たところが6号の沢である。この沢をどう渡っていたのかは大雨で地形が変わっていて定かでないが,沢を渡るとしっかりとした林道がついており,700mほどでペンケニニウ川に落ち合う。あとはペンケニニウ川に沿って4kmほど下ると,かつて学校のあったニニウの中心部に着く。

道端の朽ちた木柱はニニウ駅逓跡から約4km地点にあり一里標と伝わる。
ペンケニニウ川沿いの離農跡地。かつてこの林道沿いにも10軒ほどの農家があった。

鬼峠が使われなくなってからのニニウは,国鉄石勝線建設の拠点になるなど新たな一時代を築いたが,1974(昭和49)年,営林署の新入(ににう)製品事業所の閉鎖を機に多くの住民がニニウを離れることとなり,同年度で新入小,中学校も閉校した。しかし,無住地となることはなく,平成に入ってからの移住者が複数戸暮らしているほか,本村からの通い作も行われている。

林道沿いに唯一現存する旧N.A.邸。
1960(昭和35)年この赤岩橋経由の林道が開通し,鬼峠は通る人がいなくなった。

現在の利用状況

峠の本村側はふるさと林道鬼峠線として整備されている。ニニウ側は放置されており,熊の生息地のため地元でも長らく歩く人はいない状況だった。2006(平成18)年,占冠村の山本敬介氏が単独で峠を越え,そのエッセイが「EastSide」013号に掲載。これを機に,2007(平成19)年3月「鬼峠フォーラム」が開催され,元ニニウ居住者らと峠を越えた。以降,2010(平成22)年および2014(平成26)~2017(平成29)年の鬼峠フォーラムにおいて2代目の鬼峠越えを実施。鬼峠フォーラムは熊を避けるため積雪期に実施してきたが,2019(令和元)年5月には有志が融雪後の道路状況を確認した。

惑わされたルート

2代目鬼峠のルートは1958(昭和33)年測量の国土地理院5万分の1地形図に掲載されている。しかし,地形図のニニウ側の道は地元に伝えられている記憶とかなり食い違っていることが鬼峠フォーラムの中で問題となってきた。一方で,地図によらず記憶に基づいて峠を下った場合も,「谷間をもっと大きく巻いてこれから行く道を見下ろすような場所があった」などの証言とは異なる部分があった。

地形図には相当の信頼性があるはずとの考えから,2014(平成26)年から3度にわたり地形図上のルートを検証したが,

・途中6度も同じ谷を渡っているがその必然性はない

・地形図どおりのルートでは到底馬車が通れる勾配にならない

という理由から,地形図のルートには何らかの錯誤があるのではないかという結論に至った。

その後,2016(平成28)年に森林管理署の担当官に相談したところ,現行の森林基本図には記載されていない謎の道がGIS上の電子データに中にあるのが発見された。森林基本図は1/5000の大縮尺であり相当の確度を持つが,国有林として管理している道ではなく,誰が何のために書き込んだのかはまったく不明だという。

2017年の鬼峠フォーラムにおいて実踏調査し,森林基本図のルートどおりに道が存在することを確認,古老の証言とも符合することから,2代目鬼峠のルートそのものである可能性が極めて高いと考えている。

この顛末のあと,「謎の道」は公式なデータから抹消されたと聞いている。ルートの判明まて実に10年を要し,その間多くの人を惑わせてしまったことは関係者の一人として申し訳なく思うが,2代目の鬼峠はこうしてかろうじて命脈を保ったと言える。

なお,2代目鬼峠のルートには,もう1か所不明な点がある。それは本村側の登り口で,1958(昭和33)年測量の地形図には,現在の鬼峠トンネル脇を登っていく道とは異なる道が描かれているのであるが,実踏調査で道の跡は確認できず,古老の証言とも食い違っている。この場所は国有林ではないため森林基本図にも記載がなく,いまだ不明である。

森林基本図ルートの発見を伝える新聞記事(2017.3.17北海道新聞富良野面)