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猿留山道

一度は歩きたい沼見峠越え(2019.4.29訪問)

猿留山道の歴史

難所の多い北海道の太平洋岸は古来船が交通手段だった。17世紀はじめ,まだアイヌ自ら松前に赴いて交易をしていたころ,メナシ(根室地方の北部)から松前まで,大船を率いて90日かかったという。

1789年5月に始まるクナシリ・メナシの戦いでは,松前から大砲を積み込んで根室に到達するまで2か月を要している。それでも,松前藩は陸上交通を整備することには消極的だったと言われる。

その後,ロシアとの緊張関係が高まり,1798年の幕府による蝦夷地調査を機に,近藤重蔵らによって太平洋岸の陸路整備が開始されたことは様似山道の項に書いた。猿留山道は1799年様似山道と同時に幕府の公費で着工,同年中に竣工を見ている。工事には,探検家として知られる最上徳内らが指揮にあたった。

庶野~目黒の断崖を回避するための全長約30kmに及ぶ山道であり,蝦夷三険道の一つとされた。道中,モセウシナイ,アフツ,カルシコタンに小休所が設けられたが,現在その正確な位置は定かでない。峠頂上には江戸期の石造物が現存する。

1885(明治18)年,現在の追分峠を越える新しい猿留山道が竣工し,人々の記憶からも忘れられつつあったが,1970年頃(昭和40年代中頃)までは道有林の管理道路として下草刈りが実施されていたという。

えりも町では1997年に沼見峠の石造物を確認,以後町民有志により山道調査が行われた。全容が判明した2003年からボランティアによる山道復元事業を10年間継続し,2009年山道の一部区間と沼見峠の石碑を町文化財に指定している。新道への切り替えが1885(明治18)年と早く,旧版地形図にも掲載がなかったが,2008年国土地理院地形図に復元された道筋が掲載,2018年様似山道とともに北海道ではじめて「道」として国の史跡に指定された。

猿留山道を歩く

全長29.5キロメートルのうち,現在その多くが自動車道となっており,往時の姿をとどめているのは沼見峠前後の約8キロメートルに限られる。しかし全体を通して実に巧妙なルートをとっており,往時の道中を追体験するためにも,全区間を歩き通してみたい。距離は長いものの,全般に歩きやすい道である。

国道336号と道道34号襟裳公園線の分岐点が山道西口である。ここからまず国道を約7.5キロメートル歩く。単調であるものの,いかにも北海道らしい牧歌的景色は印象に残る。1時間ほどで上歌別の小集落に着く。「上歌別待合所」と文字の消えかかった案内板を掲げるバス停が味わい深い。

国道はこの先「追分山道」と称する峠道に入る。峠手前の「北海道襟裳肉牛牧場」の看板が立つ場所が猿留山道の分岐で,ここから延々8.5キロメートル未舗装道路を歩く。肉牛牧場は既に廃止されており静寂極まる。海も山も素晴らしい眺めだ。畜舎の廃屋を過ぎたあたりに,豊似岳登山口がある。入林届を見ると,猿留山道を歩く人より豊似岳に登る人のほうが多いようだ。アイヌの人たちは霊がいると言って登らなかった山である。

まずは1時間ほど国道を歩く。交通量が少なく,いかにも北海道という道。
追分峠の途中で国道と別れ,旧北海道襟裳肉牛牧場内を歩く。海も山も眺めがよい。

等高線に沿ってまだしばらく林道を歩く。百人浜の向こうにえりも岬を望むあたりにアフツ小休所があったらしい。冬期は一日で山道を越えることが困難だったため,宿泊所として設置されたものだという。

歌別から歩き始めて約15キロメートル,ようやく本来の姿が残る山道に入る。いったん沢を下り,ガロウ川を渡る。大きな石の多い川なので,乾いた石を慎重に選べば渡渉はさほど難しくない。

えりも岬が良く見える。
往時のまま残る山道区間。

ここから海抜488メートルの沼見峠へ向かって一気に高度を上げる。道は概ね等高線に沿って三尺幅で開削されており,歩き心地が良い。

沼見峠は一名トウブチ峠,トヨニ峠とも言ったが,沼見峠の名も江戸期からあり,通った人はみな眺めの良さに感嘆している。峠から望む豊似湖はその形状からかつて馬蹄湖ともいい,ハート型にみ見えることで近年有名となったが,アイヌはこの沼に神霊がいるのでカムイトウと呼んで見てはいけないものとした。現在は湖畔近くまで車でアクセスすることができ,湖畔を歩く人たちの楽しそうな声が,山にこだまして峠まで聞こえてくる。

高低差のある箇所にははしごが掛けられ,様似山道よりもむしろ歩きやすい。
沼見峠の妙見神(1859年建立)と馬頭観世音(1861年)。いずれも幌泉場所請負人が場所の繁栄と旅の安全を祈願したもの。

峠からワラビタイ川までひたすら尾根を下る。ここで,1885(明治18)年開削の新しい猿留山道と合流,猿留川筋に出たところにカルシコタン小休所があった。急流の猿留川は往時の難所で,舟で渡ることもあったという。いまは猿留山道橋が架かっている。橋の先で豊似湖への林道と合流,国道まではあと5キロメートルだ。

目黒集落に近づくと,お地蔵さんやお宮も現れて,かつての街道であることを偲ばせる。 2006年3月31日に閉校となった旧目黒小中学校が「森と湖の里ふれ愛館」という観光客向けの施設となっているので休憩していこう。まもなく,国道に出れば山道の終点である。

沼見峠からは尾根を下る。並木道が良く残る。
森と湖の里ふれ愛館。教室の一室が感じの良い茶屋になっており,えりもの食材を使用した料理をいただける。

アクセス

様似~えりも・広尾間を運行しているJR北海道バス日勝線が利用できる。歌別バス停がちょうど西側山道入口にある。えりも市街からも近く,えりもに前泊するならバスに乗るほどの距離ではない。平日ならば広尾行きの始発が追分峠経由で運行されるので,上歌別までバスが利用できる。山道東口には日勝目黒バス停がある。

明治の道について

1885(明治18)年,庶野からワラビタイの沢に越す新しい道が開削された。その前年,電信線がこのルートで敷かれており,のちに水準点もこの道路沿いに置かれた。近年まで,猿留山道と言えばこの道路を指していた。

1934(昭和9)年海岸沿いの道路,通称黄金道路が開通すると猿留山道の役割は薄れ,現在この明治の道は廃道となっている。堀淳一「北海道の交通遺跡を歩く」(コンターサークル,2003)に2003年時点の探訪記がある。黄金道路も現在はほとんどがトンネルとなっており,開通当時の姿を偲ぶことは難しくなっている。

松浦武四郎の東西蝦夷山川地理取調図。当初の猿留山道が記載されている。
ミリオン最新道路地図帖(1966)。明治の道が「猿留山道」として記載されている。