9. ニニウの力
終わりに,今回のミーティングを通して私なりに考えたことをいくつか書いておきたい。
●北海道中ひざくりげ
NHKの「北海道中ひざくりげ」は2月29日(金)の19時30分から道内全域で放送された。肉牛農家の夫妻,自然写真家としての門間さん,デザイナーの山本さんという占冠に根付いて暮らす人たちにスポットを当てた内容だった。
その中で鬼峠ミーティングは山本さんが「薄れつつある昔の暮らしの記憶を学ぼう」と企画したイベントとして紹介された。実は,鬼峠ミーティングは番組の中で扱うには内容が重すぎるということで一度話が流れたのであるが,その後事情が変わって,何としてもこの機会に取り上げたいということになり,10分弱の中に無理矢理詰め込んだようである。
短い時間の中では大変良く紹介していただいたと思っている。私としても,これだけはと思って推した神社の雪下ろしのシーンやA邸の絵が使われたのは良かった。何より,番組がきっかけとなって,ミーティングが盛況のうちに終わったのは良かった。
●これぞ鬼峠
今回のミーティングは初代の鬼峠を越えてみたいというところから始まった。それゆえ「ミーティング」と名付けられ,当初はこんな大がかりになることは想定していなかったのである。ただ,峠越えについては不確定要素が多すぎるので,ある程度人数を絞り,7名で峠越えを完遂することになった。
峠を越えたメンバーは,なるほどこれが鬼峠かと,だれもが納得したことと思う。昨年,2代目の鬼峠を越えた時には,険しいけれども,人間が歩くために作られた人に優しい道という感想を持ったが,今年はまったく別の感想を持つことになった。先人から伝え聞く「稲妻道」そのもので,これが村と結ぶ唯一の生活道路だったのだから,これはもう想像を絶する大変なことだっただろうと思う。
ただ大変厳しい道ではあったが,大変に魅力的な道でもあった。初代の鬼峠も2代目の鬼峠も生活道路として人が歩くために作られた本物の道であることに変わりはなく,それぞれに違う魅力を持っている。ミーティングの後,センノキの巨木を見に行ったり,フクロウに会いに行ったりと,早速何名かの方が鬼峠通いを始めていると聞いた。
●昔の人と心を一つにすれば道は見えてくる
峠越えは昔ながらの方位磁針とあまり正確ではない大正時代の1/50000地形図のみが頼りだった。それでも,登り口の部分を除けば,当時の道をほぼ正確にたどることができたと思っている。峠越えの隊長を務めたのはトマムリゾートでアクティビティを担当している細谷さんだった。様々な緊急事態を想定し,30キロの重装備を担いで峠に挑むその姿には圧倒的な存在感があった。ときおり道があやふやなまま先を急ごうとする我々に対し,細谷さんはしばし立ち止まり,まさに石橋を叩いて渡るような慎重さで微妙な地形の起伏を読みとって,誤りなく我々を導いてくれた。
最近,地図を見るということが少なくなった。カーナビゲーションシステムが普及し,登山にまでGPSが使用されるようになった。地図で歩いていた時代には,山や川など周りの景色から自分のいる位置を知るしかなく,必然的に視覚的な刺激に満ちていたが,GPSがあれば画面と足下だけ見ていれば歩けるようになった。GPSは人間と自然を切り離し,ドライブや登山を単なる物理的な移動・運動におとしめてしまったのである。
地図と地形を照らし合わせながら峠を歩いていたとき,昔同じ道を歩いた開拓者や測量技師と心が通じたような気がしたが,GPSがあったらそういう感覚にはならなかったであろう。
●鬼峠は伝説にあらず
我々は「伝説の鬼峠」と言ってしまいがちである。たしかに3年ごとに転勤のある私の職場などでは,わずか10年前の出来事でさえ伝説化しているのだから,その感覚からすれば80年前のことなど幻のように思われても無理はない。実際,占冠村内では初代の鬼峠は道があったことすら忘れられかけている。
しかし,例えば大正15年の十勝岳噴火が伝説上の出来事だと言われれば,私は違和感を感じざるを得ない。噴火の体験を生々しく語ることができる大叔母がまだ健在だし,一昨年には90才を越える方々をパネリストに迎えての80周年記念フォーラムが開催されたのである。
女性の平均寿命が女性86歳という今,初代鬼峠を越えた人がまだ生きていてもおかしくないと思いつつ,昨年Iさんが100歳で亡くなられたとのことを聞き,これでついに鬼峠は伝説になってしまったのかと思っていたところ,ミーティングの終了後に,元ニニウ居住者のU老媼が99歳で健在との情報を得た。初代鬼峠の記憶がこの世にまだ生きてあるうちに我々が鬼峠を越えたことで,鬼峠の鬼もまた生き延びたのではないか。
●苦労と不幸
ニニウの人は大変な苦労をしたという。今回鬼峠を越えたり,ニニウ食を味わったりして,その苦労をいくらかでも追体験することはできたと思う。ただ,苦労したのは事実だろうが,だからといってニニウが悲惨な部落だったのかといえばそうではないと思う。
戦時中警防団ができ,防空壕を掘れと言われたとき,ニニウの村長伊藤周吉は「ニニウは防空壕の必要がない」と言って頑張ったというが(『占冠村史』p.605),あの山の中の部落が都会と同じ体制の中に組み込まれて,都会の人と同じことをしなければ生きてゆけなくなったとき,それは悲惨だということになろうが,ほとんど自給自足的に暮らしている限り,自分たちのことを不幸だとは思っていなかったのではないか。
昨年末,『知床開拓スピリット』(栂嶺レイ著,柏艪社)という写真集が出版された。斜里町岩尾別地区は大正,戦前,戦後の3度開拓が試みられるも,いずれも失敗に終わり,開拓者は雲散霧消したとこれまで様々な書物で伝えられていた。ところが,本書はそういう開拓地のイメージを根底から覆し,岩尾別の開拓部落にも豊かな暮らしがあったことを教えてくれた。あの岩尾別でさえ豊かな一面があったのだから,ニニウにも余所の人に自慢したくなるようないろいろな楽しいことがあったに違いない。
限られた空間の中に幸せを見出していたニニウの人の暮らしこそ,これからの我々の生き方のヒントになるような気がする。
●ニニウファン
昨年,今年と双民館で鬼峠とニニウに関する集いを開催し,思いがけず多くの人たちが集まったが,実はこういうことはもうずいぶん前から行われていたそうである。
昭和59年のサイクリングターミナル建設に始まる「ニニウ自然の国」計画も,林間学校にニニウファンが集ってニニウの将来を語り合う中で構想が練られてきたものだという。その頃,道内のニニウ愛好家が集まって会を作り,今も活動を続けているという。占冠の姉妹都市アスペンの市長もニニウが気に入って何度も訪れており,ニニウ沼のほとりにアスペン環境研究所の日本研究所を作ろうという話もあったと聞いた。
スノーモービル愛好者の間ではニニウは大変有名なところだというし,サイクリングターミナルが営業していた頃は常連客も多くいて,元旦の宿泊客でニニウ神社に参拝するのが恒例のイベントだったという。
ニニウというのはいつも人を引きつけてやまない場所なのである。
●ニニウのゲニウスロキ
今回,NHKの取材が入ることになり,「なぜ鬼峠を越えるのか」「ニニウには何があるのか」ということをずっと問いかけられていた。この問いに対して明確に答えるのは非常に難しいことである。私自身まだ何の結論も見出していない。
現段階であえて説明を試みれば,「自然と人とのつながりが希薄になった現代において,自然と人とのつながりを身近に感じられる場所」というふうにでもなろうが,そういう里山的な場所は別にニニウ以外にもたくさんある。結局,山本さんが「人を魅きつける不思議な場所」とEastSide誌に書いているように,説明不能な何らかの力がニニウに存在していると考えるしかない。
実際ニニウに佇むと,山や大地から何とも言えない「気」が伝わってくるが,説明できないものである以上,誰もが感じるわけではなく,ホームページを見てさんざん期待してニニウを訪れたものの,実際行ってみたら何もなかったという感想のメールが届くこともある。
昨年のフォーラムの後,滋賀の牡丹灯籠さんからそれは「ゲニウスロキ」というものなのではないかというメールをいただいた。牡丹灯籠さんは今年の1月31日,ニニウのゲニウスロキを確認しに,単身ハイヤーでニニウに向かっている。
ゲニウスロキとはラテン語で,日本語では「地霊」と訳されることが多い。建築史の方面で使われることが多く,その場合,例えば,札幌農学校演武場としての時計台,開拓使麦酒醸造所跡としてのサッポロファクトリーというように,その場所におけるかつての人間の営みを建物や土地自体が何らかの形で現在に伝えているというような,非常にスケールの小さな意味で用いられる。それがゲニウスロキの本義なのかどうかは定かでない。
ニニウにゲニウスロキという概念を適用するとすれば,もっとスケールの大きな概念となり,そこにかつて人間の営みがあったということのみならず,人間が住む以前から土地自体に何らかの力が存在していたと考えざるを得ない。そういう力が存在していたからこそ,開拓者達はあれほど山奥の土地に根付いたのではないか。
●トマムとニニウ
今回のミーティングも,いろいろな意味で,占冠にトマムリゾートが存在しなかったら実現しなかったと思う。リゾート内でもホテル・飲食部門の人たちはあまり村の人との接点がないようだが,自然観察などアクティビティを担当している人たちにとっては,プログラムの幅を広げるために村の人たちとの連携が不可欠であり,このようなイベントは村の人たちと交流を深めることのできる貴重な機会と捉えているようである。
交流会でトマムのアイスビレッジがすごいという話を聞いた。「じゃらん」での扱いも小さく,正直たいしたものだとは思っていなかったのだが,今年は層雲峡や支笏湖より一歩抜きんでているという。そこで,アイスビレッジのディレクターをしている細谷さんを頼って,2月23日にトマムを訪れた。
氷のホテル | 氷の教会 |
夜は「ニニヌプリ」という今シーズンオープンしたばかりのレストランで食事をした。「ニニヌプリ」の名はニニウに由来している。もともとニニウで蛍鑑賞ツアーなどをやっていたアクティビティ担当のメンバーが,スノーシューハイキングのフィールドとしていた無名の山を「ニニヌプリ」と名付けたところ,会社の目にとまってレストランの名前に採用されたのだという。
ニニウはアイヌ語で「木の多いところ」という意味だから,「ニニヌプリ」は木の多い山というような意味になるだろう。素晴らしい建物で,名前の通りガラス張りの建物の外は深い森だった。施設自体はトマムリゾート開業当初からあり,数度の改装を経ているが,前身の「祭りや」時代にはせっかくの眺望を垂れ幕で覆い隠してステージでヨサコイをやるなどして,あまり受けなかったのだという。そこで今回のリニューアルでは,原点に立ち返ろうということで,味で勝負するシンプルなレストランにしたところ,大変な好評を呼んでいる。
●トマムの真価
トマムというとバブルの遺産としてのハード面ばかりに目が行き,私自身トマムにどんなソフトがあるのかということについてはほとんど知識がなかった。特に道内では会社の倒産に関するニュースばかりが大きく報じられ,営業していないと思われても仕方がないような雰囲気さえあるが,実際は道外客の利用が大半を占めており,堅調な経営を続けているという。昨年からは老朽化した施設の大規模修繕も始まった。我々道民はトマムのことを知らなさすぎると思う。
トマムの施設は一流である。異様な光景とも称される4棟の超高層ホテルは,周辺の自然の改変を最小限にとどめるというコンセプトの結果で,トマムリゾート開業前後の写真を見比べてみたとき,ホテルが4棟あるということを除けば,何ら昔のトマムと変わっていないのだという。水の教会は道内に2つしかない安藤忠雄設計の建築物の1つである。あまり知られていないが,VIZスパハウスは日本を代表するプールといってよい。工事現場の事務所を改造したようなまがい物の建物はまったく目に入らない。トマムにあるものはすべてが一流なのである。
しかし,それ以上にトマムにはソフトが充実している。たしかに開業して数年の間はトマムにはハードばかりでソフトがなかったというが,平成に入って何年かたった頃からスタッフ手作りの情報誌「苫鵡の達人」を創刊するなど,現地スタッフが自ら企画を提案するというシステムが根付いてきた。それが会社にも認められ,経営会社が変わってもトマム独特の企業風土として引き継がれている。いまでは立候補によるディレクター制を採用しており,現地のディレクターは連日深夜まで新たなプログラムの開発に勤しんでいる。新たな企画はネットワークを通じて本社にプレゼンされ,テレビ会議での厳しい審査を経た上で採択されるそうである。あの山の中に,東京のオフィスと何ら変わらない企画部門があるのである。
そういう企画を考える上で,やはり拠り所となるのはニニウなのだという。私が訪れたときも,ちょうど夏に向けて都会の子供達を対象にした環境プログラムを作っているところだったが,その中で究極のエコとして取り上げられたのが,ニニウの「蛇喰い仙人」だったという。トマムとニニウは一見次元が異なるように思われるかもしれないが,実は表裏一体のものなのである。
昔からトマムに住むある人は,トマムは60年ごとにブームが来ると言ったという。最初のブームは明治の砂金掘りの時代,2回目のブームは昭和30年代の林業や畜産で活況を呈した時代。ということは,3回目のブームはまだ来ていないことになる。つまり,トマムリゾートの開発は,かつてのトマムの賑わいに比べれば取るに足らないことだというのである。逆にいえば,これからトマムリゾートが本当の意味で評価される時代が来るということになる。互いに陸の孤島の中の孤島と言われたニニウとトマムが,これからの時代にどういう役割を果たしていくか,楽しみである。
ザ・タワーI | VIZスパハウス |
●頭脳流出
この数ヶ月ほどで,地方の状況が急激に悪化している。直接的には灯油代の値上りが響いているのだろうが,正月に上富良野の実家に帰った時,あまりの疲弊ぶりに驚いた。
1月に富良野支局のK記者と話したとき,いちばんの問題は頭脳の流出だということで意見が一致した。かつての地方では,都会の学校に進学する人は少なかったが,部落単位で青年学校があって,戦争のさなかにも部落の会館で古事記の講義が行われたりしていたのである。町村単位で発行されていた新聞には全国紙に負けないだけの論説があった。それらの新聞もいまはフリーペーパーに取って代わられ,記事の中身といったら美容と健康とグルメのことばかりである。
今はもう地方にきちんと考えることのできる人が住めない時代になった。地方にきちんと考えられることのできる発言力を持った人がいなくなると,都会の論理だけで物事が進み,ますます地方は悪くなるという悪循環に陥っている。
自分自身のことをいえば,地方から都会へという激流の中でやはり地方にしがみつくことができず,いったん流されてしまった後はもうどんどん下流へと流されるままである。下流で清くあろうとするのは無理なことだし,再び上流に戻るには,一度海に出て蒸発するしかないのではないかとさえ思う。
占冠にはトマムもあるし,きちんと考えられる人たちがまだたくさん住んでいる。しかし安泰であるとは言えない。一人一人が最後の砦だと思って上流の村で清らかに生きていってほしいというのが,既に流れに呑み込まれた者の身勝手な願いである。
本ミーティングの実施に際しお世話になった皆様に深甚なる感謝の意を表し上げます。