8. かけがえなきニニウ
●鬼峠フォーラムその後
鬼峠フォーラムの様子は,さっそく3月17日の北海道新聞富良野版で紹介された。記者の方は14日の朝から翌朝まで全日程に参加されていたが,記事に取り上げられたのは会田さんの旧宅とニニウ神社を訪ねた部分だった。村の広報紙の記事でも,やはり会田さんの家の前での写真が使われた。
翻って,北海道では近年「景観」ということが盛んに叫ばれているが,農家の廃屋は景観阻害要因として道端に捨てられた空き缶のごとくゴミ扱いにされ,ときには公金を投じて解体されることもある。
ようやく最近になって,知床の岩尾別で最後に残った開拓農家の住宅が保存されることになるなど,廃屋の持つ意味が見直されつつあるが,今回,実際にそこで電気のないほとんど自給自足の暮らしが営まれていた廃屋を前にして,生の記憶として会田さんのお話を聞けたことは本当に良かった。
●太平洋・島サミット
鬼峠フォーラムの2か月後には,村内のトマムで太平洋・島サミットが開催されることとなった(小さな旅行記太平洋・島サミットまであと6日参照)。国がサミットのために用意した予算は驚くほど少なく,当初期待されていた鹿肉の処理施設などは実現を見なかったが,既存の施設をフル活用してのサミット開催となり,それがかえってトマムリゾートや占冠村の底力をアピールすることとなったのではないかと思う。
島サミットが残してくれた遺産の一つが,村の観光パンフレットである。このパンフレットは日月社の山本さんの力作で,鬼峠フォーラムや鬼峠,ニニウについても詳しく紹介された。
鬼峠交流会の席で島サミット担当のM主査が話していたが,村としてサミット自体に何かを期待するのではなく,サミットの経験を次代の文化にどうつなげていくかを第一に考えているとのことだった。多国の元首を迎えるという貴重な経験を積んだ村が,今後どういう文化を醸成させていくのか注目してみたい。
●山村のきずな
財団法人地域活性化センターが発行する「月刊地域づくり」の5月号では,「廃校を活用したまちづくり」という特集が組まれ,事例として双民館が取り上げられていた。その中で,鬼峠フォーラムについて次のように紹介されていた。
「『鬼峠フォーラム』は使われなくなった鬼峠をテーマに、崩壊した集落と元その地域に暮らしていた人たちの生活を学んでいる。都会からの参加者が大半を占め、環境や食について考える場となり、村民と都市の交流にも一役買っている。」
村の教育長による記事で,鬼峠フォーラムをこのように紹介いただいたことは嬉しく思うが,「都会からの参加者が大半を占め」という状況は最近少し変わってきているように思われる。
たしかに1回目は都会からの参加者が目立ったかもしれないが,回を重ねるごとに,むしろ占冠とその周辺からの参加者が増えている。鬼峠フォーラムに限らず,このところ占冠を中心として,南富良野の下金山,落合,日高町の千栄,十勝の新得,清水など,山村同士のきずなが強まってきており,今回のフォーラムにもそれらの地域から多くの参加者があった。
それから,トマムリゾートからの参加が増えている。我々はリゾートの社員というと,どうしても本部のいいなりでただ働いているだけという先入観を持ってしまうが,トマムリゾートも開業から四半世紀を経て企業内での文化が育まれ,今ではほとんどの企画が現地で立案されているという。それだけに社員達もいろいろなことを考え,悩みながら仕事をしており,だからこそ村の行事へも積極的に参加をしているという話を聞いた。会社の中で生き残るのは大変厳しいようだが,リゾートを退職した人たちが占冠の周辺に残って活躍し,新しい山村の文化を創っているのは嬉しいことである。
●何もないニニウ,かけがえのないニニウ
結局ニニウとは何なのか,ということは,恐らくこの数年で答えが出る問題ではないと思う。しかし,年に1度のフォーラムを機に,その時点でのニニウに対する考えをまとめておきたいと思っている。
昨年は「ゲニウスロキ」をキーワードにニニウを考えてみた。ゲニウスロキは地霊と訳されるが,なぜか日本においては,建築物との関わりで使われていることに違和感を持った。ニニウに佇んだときに感じる凄味は,建築に刻み込まれた記憶というような人工的なものではなく,もっと場所自体が持つ何かの力があるのではないか。
そんなことを考えていたとき,『津軽学3号・場のちから 地の記憶』という本にたまたま出会って,まさに目からウロコが落ちる思いがした。例えば,次のような指摘がされていた。
「よそから来る他者のまなざしにとっては,何もない,まったく何もない空間にすぎないその場所が,その村に暮らす人たちにとって何よりも大切な,かけがえのない,神々が宿る聖地であったりする」(同書p.17)
実際ニニウに行ってみたら何もなくて肩透かしを食らったという声をいくつも聞いたことがあるが,ニニウというのはまさに何もない,けれどもかけがえのない場所なのではないか。
「空間というのは何もない,のっぺりとただ広がっている,(中略)それが空間だとすると,その空間の一部を切り取って,囲い込んで,そこに人々の記憶がたくさん埋もれて堆積していって,物語が生まれ,名付けが施される,そのとき,その何もないのっぺりとした空間は場所になる」(p.19)
「風土は意味である。自然そのものでも空間でもない」(p.109)
大学で建築を学んだとき,建築は単なる場所から意味ある空間を作るものだと教わった。しかし私は,建築はそんな偉いものかと疑問に思い,これまでなるべく空間という言葉を使わずに,場所という言葉を使ってきた。やはり空間というのは文字通り何もないのであって,そこに意味が加わったときに場所になるというここでの指摘は,まったくその通りだと思う。構造物やモニュメントがあるかどうかを問うのではなく,場所自体が意味を持つという考え方はたしかにあるのである。
しかし,そうした地の記憶は,現在までに多くが消滅してしまった。その原因は,モータリゼーションと道の変化だった。地の記憶は,「自分の足で道行く中,行き交う人との間での様々な語らいがあり」(p.151)長い時間をかけて意味づけがされてきたものだからである。
とすれば,ニニウが今なお,力を持っている場所に感じられるのは,最後まで歩くよりほかになかった鬼峠の存在が,地の記憶を守ってきたからだと考えることができるのではないだろうか。
●ニニウのパワースポット
二次会の席で,「ニニウはもうだめだ」という声を聞いた。ニニウは何も言わなくても説得力のある場所だったが,さすがに高速道路が真ん中を通ってしまってはもうだめだと。そして,あと10年時代が違えば,ニニウのあのど真ん中に高速道路を通すことはなかっただろうと村の人たちは嘆いていた。
たしかに私も,実際に建設中の高速道路を目にすると,ニニウはもう実際に訪れる場所ではなく,かつての姿を知る人たちの記憶の中だけで生き続ける場所になったのではないかという気がしていた。
しかし,今回のフォーラムを通じて,逆にニニウはまだまだこれからだという思いを強くした。ニニウは,流行の言葉でいえば,パワースポットでありスピリチュアルスポットであると思う。そしてこれからのニニウでポイントなっていくと考えられるのがニニウ神社とニニウ山とニニウ原生林だ。これらの場所は高速道路の影響をまったく受けておらず,ニニウ神社には今回奉納相撲大会という新たな歴史が刻まれた。ニニウ山と原生林は訪れた人もほとんどなく,これからの場所である。
こんな話を夜中に宿舎の中で話していたら,牡丹灯籠さんが興味深い仮説を提唱された。神社,ニニウ山,原生林の3つをニニウの聖域であるとするならば,その3点を結ぶ中心に何らかのパワースポットがあるのではないかというのである。
そう言われて心当たりがあったのは,今はなき吊り橋を渡ってキャンプ場へと続く道路だった。中学2年の林間学校のとき,吊り橋の手前でバスを降り,テントや炊事道具を担いでキャンプ場へと向かったのだが,吊り橋を渡ってすぐにちょっとした湿地があり,その後道が上り坂になっていたのを印象深く覚えている。私がその後ニニウの魅力にとりつかれたのも,原点にはその風景があったのではないかと思う。
本当に何があるわけでもない平凡な場所だが,山本さんもエッセイに同じことを書かれている。
「ある時『北海道で一番好きな風景は?』と突然聞かれた私は『ニニウの道』と答えた。ほかにもっと雄大な景色にいくらでも出会っているのに,突然の問いに私が答えたのは何と言うことはないニニウの道であった。それは吊り橋を渡ってキャンプ場に行くまでの,ほんの短い曲がった土の道で……(以下略)」(「EastSide」No.13,p74)
吊り橋のあったあたりは,道道の付け替え工事で跡形もなくなってしまったが,吊り橋を渡って少し坂になったその場所だけは,奇跡的にそのまま残っている。
2004年8月撮影(道端の湿地) | 2008年10月撮影 |
●深山峠の観覧車に思う
話は変わるが,鬼峠フォーラム2009の開催と前後して,上富良野町の深山峠に計画された観覧車が新聞やテレビで話題となった。昨年11月の新聞報道を発端とするこの観覧車建設問題は,久々に都市対農村の問題を顕在化させた。
当の上富良野の人たちは(上富良野出身の私も含めて),おおむねこの件に無関心であったように思われる。それは,すでに深山峠に相当の観光施設が建ち並んでいる以上,そこに観覧車が建設されても実質的なインパクトは少ないと考えられたからである。また,この計画は,地元を代表する建設会社の社長さんの,至極純粋な動機から来ているものであり,その真意を知る人は建設に賛同する立場をとっていたように思われる。
ところが,インターネット上では建設に反対する声が相次いだ。反対する気持ち自体は理解できるが,自然は自然のままがいいとか,観覧車の計画を認めた上富良野町は馬鹿だとかという意見には,反発の感情を抱かざるを得ない。
自然は自然のままがいいから観覧車はいらないというのが反対意見の大半を占めていたようだが,そもそも深山峠のあたりは見渡す限り全部はげ山で,パッチワークの畑などというのは極めて人工的な景色である。問題は,北海道には雄大な自然景観を求めて来ているという彼らが,人と自然との関わりを意識して自然を見ていないことで,その景色の中で,日頃自分たちが食べているものが作られているということを実感できていないのである。
そういう自然を単なる自然としてしか見ていない人たちにとっては,自然の中の人工物はまったく余計なもので,極論を言えば,北海道には雄大な自然さえあれば,人間なんか住んでいないほうがよいということになる。こういう観光客に対しては,それは違うと,我々は声を上げなければならないだろう。
そもそも私がニニウのことをインターネットで取り上げてきたのは,これだけ地球環境問題が叫ばれながらも,一向に大量消費の傾向が改められないのは,人と自然との関わりが実感できない社会になっていることに原因があると感じていたからで,ニニウは人と自然との関わりを実感するのに格好の場所だと考えてきたのである。
●限界集落と言われて
近年,限界集落という言葉をよく聞くようになった。私は札幌や東京で仕事をすることが多いので,いろいろな会合で限界集落のことが話題に上る。要は,限界集落はとにかく効率が悪いので,限界集落の人は市街地に強制移住させるべきである。どうしても農業がやりたいなら通いでさせたらいい,人を集約するのがこれからの役所の役割だ,というようなことが札幌や東京のビルの中で日々まことしやかに語られているのである。ちなみに,ここでの限界集落とは,戸数わずかの小集落のみならず,過疎化が進んだ人口数千人レベルの自治体そのものをも含んだイメージで語られている。
考えてみれば,昭和30年代以降の日本の政策は,ひたすら人口を都市に集中させる方向に向いている。農政が無策と言われ続けてきたのは,工業立国のためだったことは明らかだ。高速道路も沿線の市町村を寂れさせるだけなのに,なぜそんなに熱心に作り続けるのかと不思議で仕方がなかったが,そもそも地方を活性化するために作るのではなく,人口を都市に集中させることを目的としていることに気づけば合点がいく。
しかし,これらの議論ですっぽり抜け落ちているのが,人々は何のためにその土地に住んできたのかという視点である。好き勝手にその土地に住んできたのではなく,何らかの役割を持って住んできたのだと信じたい。
北海道の場合は,最初の開拓の目的は,江戸時代に日本の人口が飽和状態になって田畑の生産力が限界に達していたところへ,ニシン粕を肥料として供給することだった。兵備を置いたのも日本人が生きていくために北海道の土地が必要だったからで,明治以降は本州で賄いきれなくなった人口が北海道に大量に移されたという経緯がある。
いまはたまたま食料を外国から輸入しているので,都会だけで生活していけるような錯覚に陥ってしまうが,この状態がいつまでも続くはずはない。やはり単純に効率が悪いから都会に住めばよいという話にはならないのではないだろうか。
●都市だけで生きていくことは可能か
では,昔の生活に戻り土地にしがみついていれば生きていけるのかといえば,それも実は無理である。
日本も本気になって耕作可能地を全部耕せば食料の自給は可能だとか,木は水と空気さえあれば育つので木材は無限の資源だという人がいるが,まったくの誤解である。
作物を収穫したならば,その分の肥料を畑に返さなければ物質の循環が成り立たない。日本はその肥料のほとんどを輸入資源に依存している以上,日本の国土で現在の人口を養うことは無理なのである。
したがって,持続可能な社会を実現するには,逆に都市居住しかないという考え方が現れてくる。エネルギーは当面原子力を利用し,将来的には宇宙で太陽光発電をやって送電する。食料は都心の作物生産工場で作る。肥料はどうするかというと,人間の排泄物や残飯を徹底的にリサイクルする。そういう技術は都市に高密度で住むことによって可能になるというのである。
私も土と共に生きてきた人間だから,作物を土地から切り離して工場生産するなど絶対無理だと頑張りたいが,過去に偉大な科学者が不可能と予言した技術が実現した例も少なくないわけで,絶対に無理だと断言することはできない。一方で私はいちおう技術系の研究者であるから,昔の生活に戻ることによっては問題が解決されないことが明らかである以上,技術的に少しでも可能性があるのであれば挑戦を試みるのが,まっとうな生き方かと思う。
さて,ここでいま一度立ち止まって考えてみると,みんなが都心のマンションに集まって暮らすようになったとして,何を楽しみに何を目的として生きるのだろうかという疑問が生じる。
●根っこを張って生きる
今年の冬は,旭川から丸井今井と西武という2つの百貨店がダブルで撤退かという報道に,地域は騒然となった。
旭川とその近郊では,上層は札幌の百貨店に,下層はイオンに奪われ,旭川の百貨店にはほとんど市場が残されていないといわれている。しかしだからといって,旭川から百貨店がなくなっていいという話にはならない。
旭川から百貨店がなくなったとしたら,本来百貨店の顧客になりうるミドルの層が,イオンに向かわざるを得なくなるからである。その結果,格差社会はさらに助長され,経済力のある人たちはいずれ地域を離れるわけだから,地域はますます衰退するのである。したがって,旭川というそれなりの規模の都市にはやはり百貨店があるべきなのである。結果として,5月になって西武の当面の存続が決定したことは本当に良かった。
丸井と西武の撤退騒動のさなか,地元経済誌に地元オクノデパートの社長さんのインタビューが掲載された。自分が丸井今井や西武のトップだったら同じ決断を下したという極めて冷静な見解のあと,次のように締めくくられていた。
「ここに根っこのある人間が軸になるしかないでしょう。西武も伊勢丹もここで意地をはる必要はないんですよ」(「北海道経済2009年4月号」)
「10年ほど前,社長になった直後に釧路の店を閉めました。釧路の経済界ではなんとか存続してくれないかと依頼されたけれど,釧路にはぼくの根っこがないんです。オレがどんになことをしてもこのまちでがんばるという気持ちがないと無理。そういう気持ちがあればなんとかできるでしょう」(同)
この言葉に,一筋の光明を見た気がした。いまは理屈で考えればどんなことをやっても生きてはいけない時代である。そういう時代だからこそ,ふるさとに根っこを張って,どんなことがあってもここで頑張るという生き方があってもよいのではないだろうか。
本フォーラムの参加に際しお世話になった皆様に深甚なる感謝の意を表し上げます。