9. 桃源郷としてのニニウ
●道新の記事
3月17日の北海道新聞富良野地方版にフォーラムの記事が掲載された。
- 占冠・ニニウ地区学ぶ「鬼峠フォーラム」
- 消えた集落、往時しのぶ
- 旧小中学校、神社など訪問
という見出しで、神社の雪下ろしの様子と、閉校記念碑を前にした写真が掲載された。
●ニニウとは何なのか
なぜ鬼峠を越えるのか,ニニウとは何なのか。これは簡単に答えが出る問題ではないが,これまでもフォーラム開催の都度考えてきた。今年もまた,現時点で考えていることを書いてみたい。
ニニウは悲惨だったのか
ニニウについては,「陸の孤島の中の孤島と呼ばれ,駅の開設や炭坑の開発を夢見て入植したものの,結局駅も炭坑もできず,雲散霧消した悲惨な集落である」というよく語られるイメージがある。
ニニウの人たちがものすごい苦労をしたであろうことは間違いない。ただ,その苦労を悲惨と感じていたかというと,必ずしもそうではないように思われる。私たちは体験していないので,何ともわからないが,当時のニニウの人たちのその思いに何とかアプローチしていこうというのが,鬼峠フォーラムで一貫して追究してきた一つのテーマだったように思う。
実際,これまで4度のフォーラムでニニウについて語られてきたのは,占冠の中では最も温暖で作物も何でもとれる豊かな土地,いわばニニウは占冠の桃源郷であるというようなイメージだった。今回聞くことができた次のような言葉からも,やはり悲愴感のようなものは感じられない。
- とにかく,自然がいっぱいで,蛇を追いかけたり,蛙をたらいにいっぱい取ったりした。川の中に魚がうじゃうじゃいて網ですくって遊んだりもした。それが当たり前だった(G氏)。
- 夏の夜,ねぎの茎の中にホタルを入れて灯りを楽しんだ(I氏)。
- 川で獲ったウグイでだしをとった自家製のそばがご馳走だった(会田氏)。
- 水害の後,木が倒れる中をバスでニニウに向かうと,ニニウでぱっと視界が開けた。学校にみんなが集まって,キャーキャーという感じで歓迎された。中央からニニウに行くというのはすごく歓迎されることだった(観音氏)。
- ニニウに行くと偉い人がみんな集まっていて,「さあ食べれ」と一晩中つき合わされた。アイヌネギがご馳走で,今では考えられないことだが,「ちょっと待ってて,マス獲って来るから」と言ってヤスを持って出かけていった。それからたいていの家はニワトリを飼っていたので,ニワトリ料理が出た(長谷川氏)。
一方で,「占冠村ニニウの教育計画に関する研究」(1959)などには,ニニウの悲惨な生活実態が記録されており,ニニウは本当にそんなに豊かだったのだろうかという疑問も生じてくる。しかし今回,小山先生に参加していただいたことで,改めて桃源郷としてのニニウのイメージを強くした。小山先生もまた,「ニニウは豊かなところだった」とおっしゃったのである。上川管内の学校をいくつも転勤し,ニニウに実際に5年住んだ先生のこの言葉は重みがあるように思う。
占冠にとってのニニウの意味
陸の孤島と言われた占冠の中にあって,ニニウはさらに鬼峠を越えた山奥にあった。いつでも,峠を越えてくるマチの人たちをもてなさなければならなかった占冠の人たちにとって,ニニウとは自分たちを歓迎してくれる唯一の場所だった。そこに,桃源郷としてのニニウのイメージが形成されたようにも思われる。したがって,ニニウは村の一地域であるのみならず,全占冠村民の心の拠り所でもあった。
そして,いまもまたニニウは占冠の心の拠り所であり続けている。物資の輸送路が鬼峠しかなかったということは,逆に言うと,ニニウの中で衣食住に必要なほとんどのものが調達されて,循環型の暮らしが営まれていたということである。ニニウには生活にしていくために必要なものは何でもあったのである。豊かさの基準は今と違うにしても,そういう意味では,ニニウはたしかに豊かだったのだ。
「循環とは不便だから生まれる側面もある。外から入ってきてそっちのほうが良いとなれば,そっちに流れてしまう。占冠村を循環型の村にしたいが,ニニウの桃源郷のイメージが,占冠がいまやろうとしていることにつながっている」(山本氏)ということである。
記憶の重なり
それにしても,「ニニウ,鬼峠にこれだけ惹きつけられるのはある種特別な意味がある。双珠別だとか湯の沢だとかとはまた違う意味を持っている」(山本氏)という。
ニニウについて一つ言えることは,昔からいろいろな人がニニウに惹かれ,記録に残してきたということである。私の知る範囲で,文章,写真,映像に記録されたニニウの系譜をまとめてみると次のようになる。
大正8年の村上ハツさんの嫁入りの話は,今でも鬼峠を語るときには欠くことのできないエピソードであるし,蛇食い仙人の話しも占冠で常日頃語られている。今回の事前打ち合わせでも,蛇食い仙人が住んでいた場所を探訪したいという話が出て,もう80年も前のことなのでわかる人はいないのではないかと思ったが,「真野の沢というのがそのはず」(観音氏)とのことで,すぐにわかった。
狭い地域なだけに,こうした記憶がいまもリアリティを持って語り継がれている。昭和30年代以降の交通革命(モータリゼーション)は,かつて道行く人の語らいの中で生まれた土地の記憶を消滅させ,空間を無意味化したが,ニニウはモータリゼーションの影響を基本的に受けていないため,地に織り込まれた記憶が消滅せずに残っている。ニニウの至る所に残るこうした記憶の重なり合いが,ニニウの力となっているのではないだろうか。
占冠の転機
平成22年夏は,占冠は高速道路無料化の特需に沸いた。しかし,平成23年の秋には,道東道の夕張〜占冠間が開通する予定で,そうするとほとんどの車は占冠を素通りすることになるだろう。平成17年の国勢調査では1,819人いた人口も,工事関係者が流出し,現在住民基本台帳ベースで1200人を切っている。来年,占冠は大きな転機を迎えるはずだ。
もちろん,占冠村ではこのことを認識しており,昨年あたりからめまぐるしい勢いでいろいろな取り組みを始めている。占冠がいま,何を目指そうとしているのかはわからない。小さな村とはいえ,それぞれの向いている方向は微妙に違うようにも思われる。ただ,話を聞いていて感じるのは,できることが限られているだけに,やるべきことを相当に選んでいるということである。「小さい村だからこそ,やらなければならないことが,はっきりと具体的に見える。それがこの村の良さ」(観音氏)というように,目先の利益を追うのではなく,本質を見て判断している。
いま日本全体に閉塞感が漂っているが,占冠はなぜか明るい。その明るさの源は,いざとなれば森の木を切って燃やせばいいというように,地域内で持続可能な暮らしが成り立つ可能性を持っていることにあるようである。国の補助金がなげばやっていけない現実もあるが,本当にいざとなれば地域の自然から頂戴できる分だけで生活していけるというのは,都会にはない圧倒的な強みである。占冠は日本全国から見れば相当に特殊な地域であろうが,多様な地域の一つとして,占冠のような地域が元気に存在し得るということは,日本の国全体の豊かさにもつながる。占冠がこれからどのように変化していくか,注目していきたい。
本フォーラムの参加に際しお世話になった皆様に深甚なる感謝の意を表し上げます。