ニニウ略史
立地
ニニウは鵡川上流に位置する占冠村の行政字名。鵡川沿いの沖積地で耕作に適する土地であるが、周囲を急峻な山に囲まれ、占冠本村とは地形的に隔絶されている。下流側にはやや開けていることから太平洋岸からの暖気の影響を受け、占冠本村より気温が高く、融雪も一週間は早いと言われる。地名の由来は、アイヌ語のニニウ(樹木の多いところの意)とされ、学校名として新入、営林署関係では仁々宇と漢字を当て、仁丹生(殖民広報)、丹生(占冠村史)とも書いた。
入殖以前
先住民族に関する記録や言い伝えは残っていないが、松浦武四郎が1858(安政5)年、鵡川を富内まで遡り、聞き書きとしてニヽウの地名を記録している(午 第十番手記)。1887(明治20)年頃、雨宮敬次郎北海道砂金探検団の菊地定助らは、平取のペンリウク宅を拠点としペンケニニウやパンケニニウで砂金を掘ったと伝えられる注1。
注1 ニニウに砂金はないと言われており、試掘したということなのか、ほかの川との取り違えなのかは不明である。
初代鬼峠の時代
1906(明治39)年、北海道庁によるニニウ原野の殖民地区画測設が行われ、1908(明治41)年、殖民区画の貸付けを開始。同年3戸、翌年4戸が入植した。1910(明治43)年、王子製紙が占冠~鵡川間の森林造材事業に着手したことにより移住者が増加し、翌1911(明治44)年には私立新入教育所開校、ニニウ神社創祀。同年12月、ニニウ原野組合を組織したときはの戸数は29を数えている。このころ長瀬清兵衛が経木を中央に出すため駄送道を開削する(初代鬼峠)注2。大正期の主要農作物は、アワ・ソバ・亜麻・除虫菊・ハッカなど。農作物の輸送は鬼峠を越すため大変な労苦を伴い、入植者は農閑期と冬期には造材作業に従事した。
注2 初代鬼峠の開削年代は文献による違いがあり、1911(明治44)年~1913(大正2)年頃の開削と推定される。
二代目鬼峠の時代
1929(昭和4)年、村費補助で馬車道(2代目鬼峠)が開削される。1930(昭和5)年、国勢調査で蛇食い仙人が話題となる(小樽新聞1930.5.1)。1935(昭和10)年、ニニウ集落から小峠を越えたパンケニニウ川上流でクロームを掘り出し、1940(昭和15)年には石綿に転換。最盛期の1944年(昭和19)には社員の子弟のために新入浅野小学校も開校されたが終戦とともに閉山した。
1954(昭和29)年、鬼峠~中央注3間で占冠橋が架かり、渡船が廃止。1956(昭和31)年、新入小学校に初めての有資格の教員である川村一が赴任し、北海道新聞が大きく報じて注目された。1957(昭和32)年、旭川青年会議所が呼びかけた辺地教育助成訪問団一行50名が訪れ、医師の診察や映画、人形劇による慰問を行う。また同じころ榎本守恵ら北海道学芸大学僻地教育研究所の調査団も入る。同調査による1957(昭和32)年時点の農家は20戸129人。作付けは面積順に大豆、燕麦、小豆、とうもろこしと続く。家畜・家禽は鶏164、馬30、豚27、綿羊25、山羊10。
林道開通~学校閉校
1960(昭和35)年6月、ニニウ~中央注3間の鵡川沿いの新道が全通。これをもって木材流送は完全にトラック輸送に切り替わる。1962(昭和37)年8月、台風9号による水害で開村以来の大きな被害を受ける。鵡川沿いの道が寸断されたため、鬼峠を改修して応急の交通が確保された。1966(昭和41)年、鉄道建設公団が鬼峠トンネルの工事に着手、同年各戸が通電し、ニニウ~中央間の除雪も開始される。鬼峠トンネルの工事は1968(昭和43年)にメタンガスによる爆発事故を起こすなど難航を極めた。このころ鉄道建設工事関係の居住者も多く、人口がピークを迎える。国勢調査人口は1950(昭和25年)128、1960(昭和35)年333、1970(昭和45)年477注4。しかし、森林資源が乏しくなり、1975(昭和50)年に営林署の仁々宇製品事業所が山泊から通勤形態に変更、鉄道工事も終了するにつれて、急速に過疎化が進行し、同年3月新入小学校・中学校が廃校。
注3 占冠役場所在地の行政字名
注4 1970(昭和45)年のニニウ地区の世帯数・人口は、国勢調査が76世帯477人、住民基本台帳が43世帯130人となっていることからも、一時的な居住者が多くを占めていたことがわかる(占冠百年史、p.91)。
林間学校、ニニウ自然の国開設
1976(昭和51)年、学校跡地を活用した林間学校が開設、1980(昭和55)年には国鉄自然の村に指定されるなどして活用された。1982(昭和57)年、前年に開通した国鉄石勝線や国道274号全通(1991年)による交通ルートの変化を見据え、北海道開発局の委託事業として「上川南部地域農山村開発基盤整備事業推進調査」が実施される。本調査事業により占冠村における開発拠点として「占冠インターナショナルリゾート(のちのアルファリゾート・トマム)」と「ニニウ自然の国」の構想が提案された。1984(昭和59)年5月、ニニウ自然の国の中核施設としてニニウサイクリングターミナルが開業。またこの年6月北海タイムスに「占冠の女」(取材:宮内令子編集委員)が連載、本記事をきっかけに、同年12月札幌テレビ放送制作のドラマ「鬼峠」が放送された。
サイクリングターミナル開業後、プロジェクトに関わったSAS北海道やHITによりシンポジウムや山菜ツアーがニニウで開催される。1986(昭和61)年にはニニウキャンプ場がオープン。このころには、旧来の農家が1戸を残すのみとなったが、サイクリングターミナルの職員、新規就農を志す人たちなどで、居住者が絶えることはなかった。ニニウ自然の国は飛び交う蛍や澄んだ星空などの自然、隠れ家的な山里の雰囲気が人気を呼び、家族連れや学校などの団体利用のほか、1994(平成6)年以降アルファリゾート・トマムからも蛍鑑賞ツアーが訪れるようになった。ラフティングやスノーモービルの拠点としても賑わった。
北海道横断自動車道建設~不遇の時代
1998(平成10)年頃より大雨でニニウ~中央間の道道が通行止めになることが多くなり、サイクリングターミナルは2002(平成14)年の営業を最後に長期休業に入った。2004(平成16)年、ニニウを通過する北海道横断自動車道の建設が始まり、キャンプ場付近の工事が本格化した2006(平成18)年にはキャンプ場も閉鎖された。
そのような中でニニウに思いを寄せる人たちが出会い、2007(平成19)年3月に第1回鬼峠フォーラム開催。ドラマ「鬼峠」を鑑賞したあと、元住人も交え2代目鬼峠を越えた。以降、鬼峠フォーラムは毎年開催され、ニニウの新しい時代に向け、記憶や思いをつなげてきた。
一方で、2006(平成18)年夏ごろから、ニニウ自然の国を民間の力で再生させようという動きも現れ、翌年、ニニウサイクリングターミナルと旧林間学校,旧教員住宅が村から譲渡され、札幌の不動産事業者の所有となった。しかし高速道路建設工事の車両が激しく行き交う状況の中、施設を活用することはままならず、再生計画が実現することはなかった。
キャンプ場の再開-新しい時代を迎えたニニウ
2012年(平成24)年9月、ニニウを通過する道東道が開通、翌年ニニウキャンプ場が営業を再開した。活用されないまま老朽化が進んでいたサイクリングターミナル、旧校舎、教員住宅は、結局村が買い戻し、サイクリングターミナルの自転車置き場部分を残して2013(平成25)年秋に解体された。
キャンプ場はすぐそばを高速道路が通過しているものの、野性味あふれるサイトは以前と変わらぬ人気を博している。一方でニニウの元住民による「ニニウ会の集い」は、2012(平成24)年をもって高齢化により解散したが、2014(平成26)年には久しぶりとなるニニウへの新規移住者があった。