8. フォーラムを終えて
ここで,今回のイベントを振り返っての雑感をいくつか記しておきたい。
本物の道
現在では「道(みち)」といえば,自動車が通る道のことを指す。一方,鬼峠は馬車が通ることもあったが,基本的には人が歩くために作った道である。しかも人を寄せつけない山岳の登山道とも違って,人が生活するために歩いた道である。こういう,人間が人間のためにつけた道というのは北海道にはほとんど残っていないのではないかと思う。
鬼峠とは名前の通り険しい峠だったが,一方で人に優しい道だとも感じ,車道を歩くよりはむしろ心地が良かった。みんな体力的な不安を抱えながらも峠を歩き切り,意外にも筋肉痛になったという声を聞かなかったのは,鬼峠が人間のために作られた本物の道だったからではないかと思う。
道新の記事
3月28日の北海道新聞富良野地方版に「自然の美,厳しさ伝えた"廃墟"」の見出しで,鬼峠フォーラムの開催報告が掲載された。フォーラムには富良野支局の記者が泊まり込みで参加し,いろいろな人の話を熱心に聞いていたが,テーマが重いだけに,限られたスペースの中で記事にするのは苦労されたことと思う。結局記事の中では,元ニニウ住民のガンビさんのお母さんとHさんの思い出話が紹介されていた。この歴史的なイベントを新聞記事という形でしっかりと記録していただけたことに,心から感謝申し上げたい。
みんなで作るイベント
およそ2か月前から,あらたまっての打ち合わせもないまま,おのおのが当日に向けて準備をしてきた。既成の概念にとらわれている人は,どこが主催しているイベントなのか不審に思っただろうが,明確な主催者がいないのが今回のイベントの特徴である。私のホームページの関係で参加した方にも受付や食事の準備の手伝いをしていただき,いわゆる「オフ会」に近い雰囲気もあった。いちおうチラシには主催が占冠村公民館となっていたが,公民館はチラシの配布と参加者のとりまとめをやっていただけで,公民館が陣頭指揮を執っていたわけではない。このやり方こそが占冠村の「自主創造プログラム」であって,行政主導の社会教育事業から脱却した,新しい生涯学習の手法なのである。
実は私も以前かなり行政寄りの仕事をしたことがあって,住民の意識啓発という名目のもとに,偉い先生を呼んできてセミナーをやったり,あるいはやっつけで花壇をつくるというような事業に参画したことがある。参加者は無理矢理動員をかけられて来た人達ばかり。あとに残るのは多大な労力をかけてテープ起こしをしたあげくに誰も読まない報告書や,草だらけになった花壇にぽつんと立つ事業名を記した看板だけである。まったく無駄なことだったとは思わないが,かなり効率の悪い手法である。
占冠村では「自らが自らの学びを組み立てる」「税金の使い方は住民が決める」という原則のもと,これまで行政が企画していた事業をいったん白紙にし,2005年度より住民の発意にもとづいて生涯学習関係事業を実施することにした。これによって担当職員の負担はかえって大きくなったといい,思いつき的事業の多発化,住民が持つ知的関心の限界からくるプログラム展開の閉塞化など課題はもあるものの,一つ一つの事業の成果は従前以上ものがあるという。鬼峠フォーラムも「自主創造プログラム」の仕組みがなければ実現しなかったイベントであろう。
道内外から12名参加のインパクト
結果的に私のホームページを通じて,道外から4名,道内から8名の参加を得た。これらの参加者が与えた影響は計り知れないものがある。
私のほうで参加者をとりまとめて現地に報告したとき,「なぜなんだ」と?マークが渦巻いているような感触が現地から伝わってきたが,「鬼峠」という一般的にはまったく知られていないことをテーマにしたイベントに,わざわざ飛行機でやってくる人がいるということは,かなりの驚きをもたらしたようである。
双民館という会場
2月8日に山本さんからフォーラムの開催通知が届いたとき,会場が双民館だと知って。まさに目からウロコが落ちる思いだった。味わいのある木造校舎で,調理も宿泊もできて,これほど今回のフォーラムにふさわしい会場はなかったと思う。宿泊棟は本来冬季閉鎖中だったところを,役場のご厚意で除雪,通水していただき,快適に泊まることができた。双民館の名には村民と都市住民の2つの民が集うという意味も込められていると聞くが,まさにそれが実現した日ではなかっただろうか。
村民の5%が集まるということ
初日のフォーラムには約50名が参加した。占冠歯科診療所のK先生が「50人といったら村の人口の5%だ。20人に1人が参加するというのはすごいことなんだよ」と熱く語っていたが,たしかに札幌で市民の5%が集まったとしたら10万人になるわけで,占冠にすればファイターズ優勝のパレードに匹敵する大イベントだったわけである。それも,どこかの団体を通じて動員をかけるとか,そういうことをまったくしなくても自然と集まったのだから,これもやはりニニウが持っている不思議な力なのであろう。
人のつながりの大切さ
ニニウのホームページを公開してから約5年間,ニニウと自分の関係にほとんど進展はなかった。心情的には,芸能人のファンサイトを芸能プロダクションに無断で作っているような後ろめたさもあり,占冠の人とは何の関わりを持つこともできなかった。それが千春の家さんにドラマのビデオを見せてもらって,2年前にドラマのページを作成してから一気に進展し,ニニウのGさん,山本さん,M主査と,ニニウにまつわるキーマンと言える人物に次々に会うことになった。M主査は自主創造プログラムの制度を創設した超本人であり,また,山本さんからアウトドア関係,料理関係,新聞関係の方々へと輪が広がっていった。一人でやっていて全然進展しなかったことが,ちょったした出会いでどんどん膨らんでいく。人のつながりの大切さを改めて認識したイベントであった。
ホームページの力
自分のホームページが持つ影響力というのは,正直言ってわからない。しかし,今回のこのようなフォーラムが開催された背景には,少なからず自分のホームページの存在があったものと思われ,ニニウのページを作った意義はたしかにあったのだと実感することができた。特にホームページを通じて,元ニニウ住民の方が参加し,同窓会のようになったことは嬉しかった。
一方で,私などよりずっと早くからニニウの魅力に気づき,ニニウをフィールドに活動されている方々にも出会い,ニニウのホームページなどあってもなくても,ニニウを愛する人は世の中にたくさんいるということもまた実感できた。
占冠の人の前で話すということ
村の人達,それも重鎮中の重鎮の方々を前にして,よそ者が村の歴史を講釈するなど,普通はあり得ないことである。私も大学のゼミで,何も知らずに田舎のことを勝手に論じる都会出の仲間達とさんざん喧嘩をしてきた経験があるので,本当ならどんなに丁重に頼まれても断るべき話だった。ただ,今回はその辺の事情を十二分に知っている山本さんからの提案だったので,素直に応じることにしたのである。のちに山本さんから「講演が始まってからしばらくは不安だった」「あの人達の前で君に話をさせるのはいちばんリスキーなことだった」「もし話がこじれれば主催側の責任を問われることにもなりかねなかった」と打ち明けられ,やはりそうだったのかとあらためて怖い思いをした。
しかし一方で,いちばん聞いてもらいたい人達に聞いてもらえたという思いもある。生え抜きの村民が参加しないなら,あまり古い話をしても仕方がないと思っていたが,生粋の村民が相当数参加してきそうな雰囲気を感じてからは,ほとんどその人達だけを念頭に置いて内容を考えてきた。村史を読めばわかるようなことはなるべく省いて,自分にしか話せないことを盛り込み,「私はここまで調べました。ですからみなさんの記憶も私達に語ってください」という気持ちで話せば,きっと村の人達も受け入れてくれるはずという確信はあったし,講演後に元の村長さんや元ニニウ住民の方々から感想を伺って,その思いが通じたことを実感できた。
高速道路と占冠
高速道路の建設が本当に我々に幸福をもたらすかのということについては疑問を感じているが,道東道の夕張IC〜十勝清水IC間が道内の高速道路網を形成する上で最も重要な区間であることは疑いないわけで,占冠に高速道路が通るということは現実として受け止めるしかないと思う。
道路がどこからどうつながっていつ開通するかということは,意外とその土地の人は知らないものである。占冠も例外ではないと思われるが,そのことを確信したのは3月5日に占冠に行ったときのことだった。駅前の物産館に高速道路の開通予定を記載したポスターが掲示されていたのだが,肝心の日勝赤岩線が載っていないのである。道東道が清水からトマムICまで延びるとともに日勝赤岩線が開通することで,現在日高市街を経由している自動車のほとんどが占冠に移ってくるのである。
このことには早く気づいて手を打たなければならない。何もしないでいれば,外から一攫千金を狙う業者がやってきて,コンビニやドライブインが乱立するはずだ。そして5年後高速道路が全通した暁には交通量が激減し,市街地は一転して廃屋銀座になることは目に見えている。ポスターは占冠村商工会が制作したもので,本気でそう思っているのかどうかわからないが「早期開通祈願」と書かれていた。実際は開通せずにいつまでも工事をやってくれていたほうが村内の商工業者は潤うはずなのにだ。
ドラマ鬼峠はトマムリゾートの開発の影で過疎に泣く山村を一つのテーマにしている。しかし,1980年に行われた国勢調査と比較して,占冠が人口を減らしていないのに対し,当時占冠よりも大きかった音威子府村や西興部村が現在では1000人近くにまで人口を減らしている現状を見ると,結果としてトマムリゾートがなければさらに過疎化は進んだのだと思う。その点では占冠は石勝線の開通を村の発展に生かすことができたのだと思う。それから四半世紀を経て,占冠村は今後高速道路とどうつき合っていくのか,今まさに勝負の時を迎えている。
ニニウに関する二つの誤解
ニニウのホームページを開設して7年余り,直接あるいは間接的に,いろいろなところでニニウについての意見を見聞きする機会がある。その中でこれは違うだろうと思うことが2つある。
●ニニウは手つかずの自然なのか?
まず,ニニウや石勝線沿線の景色について「手つかずの自然」「原始林」だと思っている人が非常に多い。とんでもないことである。むしろニニウは人の手が徹底的に入った,荒れ果てた自然なのである。耕作地は放棄されて荒れるがまま,山も全部一度は伐採が入っており,細く弱々しい木しか残っていない。こういうニニウを見て,原始の自然だとか言う人が出てくるのは,いかに人間と自然が遊離してしまっているかの現れであろう。
ニニウの魅力は,「里山」のような人の手が加わった自然である。廃屋があり,吊り橋があり,むかし田んぼだった跡にホタルが乱舞する。キャンプや観光でニニウを訪れる人達は自然を目当てにしているようでありながら,実はそういう人の匂いにひきつけられている部分が大きいのではないか。ニニウにはあの閉塞された空間の中で,かつて百数十人の人達が自給自足的な生活をしていた。逆にいえば,あの面積の自然が養うことができた人口の限界が百数十人だったということになる。そのような人間と自然の関わりを直接感じることができるのがニニウの魅力で,そういう見方をすれば高速道路さえも一つの観光要素として取り込んでいける可能性があるのではないかと思う。
●ニニウは悲惨な集落なのか?
もう一つこれも誤解だと思うのは,「ニニウには鉄道の開通を夢みて多くの農民が入植したが,結局駅はできずに雲散霧消した悲劇の部落である」というパターン化した理解である。
直接聞いたわけではないが,恐らくニニウに住んでいた人達は自分たちのことを悲惨だとは思っていなかったはずだ。それを悲惨だと解釈するのは都会の人の思い込みではないか。そうでなければ,ニニウをテーマにしたフォーラムが開かれることもなかっただろうし,ニニウはとっくの昔に無住地になっているはずだ。ニニウはこれからも完全に自然に還ることはなく,細々と人間の生活が営まれていくのだろう。
その土地で生きる意味
都会と田舎,あるいは都市の農山村の関係を考えるとき,まず『遠野物語』の一節,「願はくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ」という柳田国男の言葉が思い起こされるが,都会人が田舎のことに耳を貸さないのは今も昔も変わらないらしい。
最近は政治の流れもあって,急速に地方の切り捨てが進んでいる。いま札幌や東京のビルの中では,効率の悪い地方に住んでいる人間は都会に強制移住させよなどということが毎日まことしやかに語られているのである。そういう議論で完全に抜け落ちているのが,「何のためにそこに人が住んでいるのか」という観点である。人里離れたところでペンションをやろうというような世捨て人は別として,何も好き勝手に住んでいるわけはなく,きちんとした役割があって人はその土地に根を張って生きているわけである。人間はどんなに文明が発達しようとも,衣食住はすべて自然からの恵みを頂戴しなければ生きていけないのだが,現代人はそのことをすっかり忘れ,都会だけで生きていけるものだと思っている。
幸運にも占冠のような美しい土地で生業を得て暮らしている人達には,その土地で生活している意味をしっかり理解して,自分たちの役割をどんどん都会の人達に発信してほしいというのが,故郷から追い出されてしまった私の切なる願いである。
そういうことで最後に高速道路のこと,人と自然のこと,都市と農山村の関係について思うところを書いてみたが,今回のフォーラムがこういうことを考えるきっかけになったとしたら,成功だったのかなと思う。
本フォーラムの実施に際しお世話になった皆様に深甚なる感謝の意を表し上げます。