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ニニウと私 2001年

●2001.1.17 観光フォーラム「蝦夷を斬る!!」にて

「蝦夷を斬る!!」は道経済部観光局主催の観光イベント人材育成セミナーの受講生が卒業制作として企画したフォーラムである。ヒロ中田氏の基調講演の後,松田忠徳氏らをバネラーに迎えてパネルディスカッションが行われた。

この中でNAC(ニセコアドベンチャーセンター)のロス・フィンドレー氏から「占冠の山奥になぜ美術館を作らなければならないのか」という趣旨の発言があった。やや唐突にも感じられたこの発言は,恐らく当サイトのニニウ博物館のことを意識していたのではないかと思われる。前年7月に道道136号夕張新得線リンク集を作成した際,NACにリンクした旨の報告をしておいたので,サイトを見ていたのだろう。考えは人それぞれだから批判されるのはかまわない。


3月で大学院の修士課程を修了し,4月から就職で釧路に住むことになった。

●2001.6.10 北海道遺産構想推進協議会にニニウをPR

この年の5月,北海道遺産構想推進協議会が設立され,10月の第1回選定に向けて写真などの情報提供を呼びかけていた。さっそくメールにてニニウに関するホームページを作っている旨連絡しておいた。

2日後,道の担当者より返信が来る。「私自身も、ホームページを見せていただきましたが、たいへんに緻密な見ごたえのある作りであって、素晴らしい!と驚きました。」と役所にしては意外に率直な感想をもらえたのは嬉しかった。各選定委員の先生方にも内容を送付していただけたとのこと。

●2001.7.4 北海道遺産第1次候補514件選定

3000件以上の応募があった物件の中から第1次候補として514件に絞り込まれた。「ニニウ地区一帯」はこの時点で選に漏れてしまった。候補は学術上の重要性や美的価値などの基準で選んだというが,リストを見ると従来の天然記念物や文化財の北海道版に過ぎないという気がした。

●2001.8.14 ニニウ訪問

就職して車を持ったことで,自分でも容易にニニウに行くことができるようになった。お盆で実家に帰省中,単独ニニウを目指した。

まずニニウを通り過ぎ,信号場付近まで行って引き返すと,パンケニニウ橋手前の直角カーブで乗用車が頭から川に突っ込んでいた。川に落ちた人たちはトマムに向かう途中だった,ということはこのあと4年もたってから知ることになった。

清流鵡川。正面が鬼峠。 村営牧場跡の「ニニウの森」

サイクリングターミナルで自転車を借りてまわってみる。

キャンプ場はリニューアル工事のため2001年は通年閉鎖とのことだった。夏休みくらい工事をやめて営業すればよいのに。 駅逓跡近くには農産物の直売所があった。どれだけ売れるのだろうか。
学童農園もきれいに耕され,トウキビなどが植えられていた。
 
道道東側の廃屋群は健在。そのうち南の家は中に入れるようになっており,初めて入ってみた。中にはニニウの歴史がぎっしりと詰まっており,写真に撮らなかったことを後悔する。
昨年倒壊した西側の廃屋2棟。まだかろうじて1階部分が残っていた。
サイクリングターミナルの南で新たな建物を見つけた。
ニニウテニスコート。
 
ニニウサイクリングターミナル。宿泊部門の営業が行われたのはこの年が最後になったはずである。ニニウ温泉に初めて入浴。石勝線の鬼峠トンネル掘削中に発見した温泉だという。サイクリングターミナルの建物は日本建築学会北海道支部の北海道建築奨励賞を受賞しており,いわゆる名建築の部類に入る。館内を丁寧に見て回ると随所に贅を尽くした重厚な造りになっており,建設から20年近くたっているとは思えないほど清潔感にあふれていた。

赤岩ではトンネルの工事が始まっていた。着工早々にして大崩落を起こし,峡谷の絶景がめちゃくちゃになっていた。

●2001.9.16 三浦綾子記念文学館「泥流地帯展」にて

9月15日,祖母の13回忌法要のため実家に帰る。釧路への帰路,神楽の三浦綾子記念文学館で『泥流地帯』の世界展を見学した。

ここではニニウと私を結びつける思いがけない発見が2つあった。

 

1つは祖父の叔父(曾祖父の弟)が三浦綾子氏に宛てた書簡だった。『泥流地帯』では三重団体が30年間汗水垂らして開墾してきた田畑が,十勝岳爆発の泥流で一瞬にして壊滅させられるという事件を描いており,真面目に働く者は救われないのかということが1つの大きなテーマになっている。私の先祖はまさに三重団体の一員として上富良野に入り,泥流で田畑を失って上富良野を一度離れることになったのである。祖父の叔父は災害の惨状を数枚の便箋に克明につづり,三浦綾子氏に宛てていた。また三浦氏の取材ノートを見ても祖父の叔父の証言が重要であったことがわかった。『泥流地帯』を読むとき,何か自分の家の歴史を読んでいるような気がしていたが,それもそのはずだったのだ。

もう一つの発見は『富良野地方史』だった。展示ケースに収められた状態でたまたま開かれていたページには,「占冠村ニニウの小学校の沿革誌には,賭博のない郷土のない実状の中でわがニニウだけは賭博がないことをほこりとすると書いている」という箇所にアンダーラインが引かれていた。


三浦綾子著『泥流地帯』(1976)

岸本翠月著『富良野地方史』(1969)

『泥流地帯』の中で三重団体は大酒をくらわない,博打をやらない模範的な開拓団体だったと書かれているが,これがどこまで事実だったのかはわからない。しかし三浦綾子氏は富良野地方史のニニウに関する記述を見て,開拓民の中にも真面目な農民がいたことを知り,これを三重団体に重ね合わせたのではないか。

会場にはご主人の三浦光世さんがおり,「神は愛なり」とサインしていただいた。展示されていていた手紙のことを伝えたくて私は「ひいじいさんが…」と嘘をついてしまった。神様のような光世さんはそうですかとうなずくだけだったが,懺悔しなければならない。

●2001.9.27 占冠駅にて

釧路に住んでから,JRで札幌へ行く途中,占冠駅で下車して一息つくことができるようになった。占冠駅は降りるだけで心が清らかになる駅である。この日も夕方占冠で下車し,占山亭で食事をした。

駅では占冠村の広報紙を見るのも一つの楽しみである。

某月の広報紙では「自然の楽園」という大特集が組まれており,その中でニニウの蛍が紹介されていた。6年前からトマムの宿泊客を対象にしてニニウの蛍鑑賞ツアーを実施しているという。しかし中学生のとき見たほどの蛍の大群は今では見られなくなっているらしい。蛍は大自然というよりも水芭蕉の咲くような湿地に生息する。ニニウでは水田跡の湿地に蛍が生息しているが,それらが自然に還るとともに蛍も少なくなっていくのではないだろうか。

 

 

7月31日〜8月3日,「JAL KIDS スーパーエコロジー計画2001 inシムカップ」がニニウで開催された。これは前年からJALと占冠村が協力して実施している自然体験プログラムで,かつて国鉄が同じくニニウで実施していた「自然の村」を彷彿とさせる企画である。キャンプ場は閉鎖中,林間学校もぼろぼろという惨憺たる状況の中で,占冠村もなかなかしぶとくニニウをPRしているものである。

 

 

この年4月に小泉内閣が誕生したが,道路公団の分割民営化はまだ現実的な話にはなっておらず,高速道路の建設準備は静かに,しかし着々と進められていた。6月には村内各所で設計協議が行われていた。

●2001.9.11 大雨でニニウ孤立

北海道新聞の記事より。

「上川管内占冠村役場に入った連絡によると,同村ニニウ地区に通じる道道が大雨で崩壊。村営サイクリングターミナルの宿泊客ら十三人が孤立した。村は救出のため,ヘリ出動の要請も検討している。
ニニウ地区は鵡川上流の沢筋にあり,占冠と胆振管内穂別町に通じる道道がそれぞれ崩落し孤立した。宿泊客六人と川下りガイド四人,従業員二人がターミナルにいるほか,近くの民家に住民一人がいる。」

 

これでまた当分ニニウには行けなくなりそうである。

●2001.10.6 STVまる見え博覧会2001にてドラマ「鬼峠」放送

STV恒例のイベント「STVまる見え博覧会2001」に田中義剛がゲスト出演した際,ドラマ「鬼峠」のいくつかの場面が1分間ほど放送された。牛の出産シーンがあったために,田中義剛が広役に抜擢されたというエピソードが紹介された。

●2001.10.21 夕張新得線川渡りの実態が明らかになる

道道夕張新得線の狩振国境付近については依然として川渡りがあるとか絶壁を上らなければならないとか噂で伝えられるのみで,実態は誰も知ることがなかった。この日掲示板でにきちさんからあるページを紹介され,伝説の箇所を初めて写真で見ることとなった。

●2001.11 「FIELD BIKERS」誌でニニウが紹介される

 

「FIELD BIKERS」Vol.30の特集「全国いまのうちガイド」でニニウが紹介された。ニニウについてはこれまでもいろいろなサイトで紹介されることがあったものの,正直捉え方がちょっと違うなと感じることが多かった。しかしこの記事では自分の言いたかったことが実に適切にまとめられており嬉しく思った。ちなみに「全国いまのうちガイド」で他に取り上げられていたのは美山湖温泉(青森県),両国公会堂(東京都),長野電鉄木島線(長野県),清水市(静岡県),宇品線廃線跡(広島県),川辺川の「尺鮎」(熊本県)である。


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