北海道の音頭

ここでは民踊に使われる楽曲に着目し,作詞者,作曲者,歌唱者の観点から概観してみたい。対象となる楽曲の多くは「○○音頭」と名がつくので,以下「音頭」と称する。なお,音頭は制作者が明らかにされていないものも多く,限られた情報に基づく記述になることをご了承願いたい。

歌唱者

音頭は作詞,作曲,歌をすべて地元の人が担っているものから,流行歌に見劣りしない豪華な顔ぶれで制作されているものまで様々である。必ずしも著名な制作者に依頼することが良いことではないが,まず歌唱者が全国的に名が知られた人であれば,総じて楽曲としての完成度も高いものが多いように思われる。この場合も歌詞は公募などにより地元で作られることが少なくないものの,作曲や編曲は歌手に応じてそれなりの作曲家が担当することとなり,レコード会社に所属する歌手であれば,必然的に一定の演奏の質や録音環境が確保されるという事情もあるだろう。

大御所

三波春夫(1923-2001)

日本の歌謡史上,名実ともに最も大きな存在だった歌手は美空ひばりであろうが,地方の音頭は基本的に吹き込まない人だった。音頭の神様といえば,美空ひばりと紅白史上最多4度のトリ対決を演じた三波春夫である。浪曲出身で,男性の流行歌手としては初めて着物姿でステージに立った三波は,デビュー当初から各地方の音頭を依頼盤として積極的に吹き込んでいる。1963年,各レコード会社の競作で制作された「東京五輪音頭」は,三波の唄うテイチク盤が群を抜いてヒットし,イベントを盛り上げる音楽として音頭が国民音楽化する転機となった。三波が歌う北海道の音頭は「おたる潮音頭」と釧路市の「新港まつり音頭」の2曲である。前者は1967年,後者は1969年の制作であり,「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは(1970年大阪万博のテーマソング)」で三波が国家的行事の歌による意識高揚を一手に担った絶頂期における依頼盤である。小樽,釧路が日本を代表する港町として当時いかに力を持っていたかがわかる。ただ現在,両者で三波の扱いが対象的である。「おたる潮音頭」を三波が歌った経緯はいまも様々な場面で語り継がれ,メディアで紹介されるときも「故三波春夫さんが歌う」と必ず枕詞が添えられるのに対し,「新港まつり音頭」は歌唱者の名が出ることがないのが残念である。

依頼盤ではないが浜中町で踊られている「ルパン音頭」は三波の歌唱である。これはルパン三世の劇場用アニメ第1作「ルパン三世 ルパンVS複製人間」(1978年公開)の主題歌として,作詞・モンキー・パンチ,補作詞・中山大三郎,作編曲・大野雄二という豪華布陣により制作されたもの。三波の音頭の中でも屈指の名作と言えるだろう。浜中町が「ルパン三世」の作者であるモンキー・パンチの出身地である縁から,近年独自の振付けをし,霧多布神社例大祭などで披露されている。

何はともあれ人を明るくする三波の音頭の背景にはシベリア抑留体験がある。三波が歌に込めた思いとともに,北海道に残されたこれらの音頭を大事にしていきたいものである。

三橋美智也(1930-1996)

民謡出身の三橋美智也も全国各地の音頭を吹き込んでいる。道南の北斗市(旧上磯町)出身であり,大御所の割には北海道のローカルな音頭を多く歌っている。把握しているものを挙げれば「札幌音頭」「滝川音頭」「ピヤシリ音頭(名寄市)」「厚岸音頭」「新根室音頭」がある。地元の「上磯音頭」もあるが,これは北海盆唄そのものである。独特の哀愁を帯びた歌声は,特に女性の心を慰めたと言われ,その神髄は「ピヤシリ音頭」であろう。しかし2006年をもってピヤシリ音頭が踊られた「なよろのおどり」が中止になったことは惜しまれる。

都はるみ(1948-)

あまり知られていないが都はるみも全国各地の音頭を相当に歌っている。北海道でも,いちばん多くの音頭を歌っている歌手は都であろう。わかるものをざっと掲げてみても「白石音頭(札幌市白石区)」「当別音頭」「厚田音頭」「岩見沢観光音頭」「新美唄音頭」「栗山音頭」「伊達音頭」「とうや音頭」「川湯音頭(弟子屈町)」「紋別音頭」がある。伊達市に至っては,旧「伊達町音頭」と市制施行を記念した「伊達音頭」の両方を都が手掛けており,それだけ不動の支持があるということだ。

歌のうまさは美空ひばりと双璧と言われ,美空ひばりが何を歌ってもひばり風になるのに対し,都には職人的な巧みさを感じる。演歌歌手だが基礎が浪曲と民謡にあるので音頭では演歌調を封印しており,素直に歌詞が耳に入ってくる。それが音頭の唄い手として好まれる理由だろう。そうした中でも「はるみ節」が炸裂するのは「栗山音頭」である。各地の音頭を軒並み手掛ける唄い手は都のあと出ておらず,恐らく音頭の大御所としては最後の人になりそうである。

島倉千代子(1938-2013)

歌はうまければよいというものでないことは島倉千代子の歌を聴けばわかる。技巧的にはともかく生涯清潔を保った歌声を支持する意見がいかに多かったかは,紅白歌合戦の最多出場記録を長年保持していたことからもわかる。全国各地の音頭も比較的多く吹き込んでおり,北海道で現在使用されている音源としては「音更音頭」がある。これは村田英雄とのデュエットで作曲は古関裕而という,全国でもまれにみる豪華な顔ぶれで制作されている。当初島倉が歌っていた網走市の「流氷音頭」は,現在地元出身の走裕介歌唱の音源に置き換わっている。やむを得ない事情とはいえ寂しく思っていたが,島倉が亡くなった翌2014年の流氷おどりでは追悼として島倉盤の音源が使用された。

紅白歌合戦出場歌手

音頭は演歌とまったく別ものであり,民謡とも異なる。音頭が演歌のようにあとから追いかけていくような歌い方では踊れたものではないし,現代の商業化された民謡そのものになってしまえば生硬で面白みがなくなる。したがって,音頭の唄い手は三波,三橋,都といった名人にある程度限定されていく傾向があるように思うが,意外な人が音頭を歌っていることも多い。ここではNHKの紅白歌合戦出場経験のある歌手が北海道の音頭を歌っている例を見ていきたい。

道内ゆかりの歌手

浪曲調の歌唱スタイルで3度紅白に出場した畠山みどり(1939-)は稚内生まれの士別育ち。ゆかりの地それぞれで「南極音頭(稚内市)」「士別音頭」という踊り唄を歌っている。稚内ではしばしば南極まつりに本人が訪れ,パレードで「南極音頭」を生歌唱している。「士別音頭」もスケールの大きい名作である。一度の紅白出場ながら「花街の母」で鮮烈な印象を残した金田たつえ(1948-,砂川市出身)は「キラリ音頭(標津町)」を歌う。元来民謡歌手で良い形で演歌調の味付けがなされた傑作だ。演歌の大御所北島三郎(1936-,知内町出身)には「室蘭ばやし」「洞爺湖音頭」「函館音頭」「噴火湾網おこし(鹿部町)」がある。苫小牧市出身の伊藤多喜雄(1950-)はくせのある曲が多く,赤平市の「火噸節」のように市民パレードなのに踊れる人が限られてしまうのはいかがなものかと思うが,2016年に伊藤が手を入れてカバーしたふかがわ夏まつりの踊り曲「きなんせ節」「ふかがわシャンシャン」は,民謡の原点に立ち返った快作だ。

演歌系歌手

現在は別の歌手が歌った音源に置き換わっているが,「弟子屈音頭」は1956年に当時人気絶頂だった若山彰(1927-1998)と初代コロムビア・ローズ(1933-)が吹き込んでいる。町村レベルで流行歌手に歌を依頼した音頭としてはかなり早い時期のもので,弟子屈町文化協会が30万円の借金をしてレコードを制作し,返済に5年かかったとの逸話が残る。1931年制作と道内でも指折りの歴史を持つ「阿寒小唄」は,戦後藤本二三代(1937-2001)がレコードに吹き込んでいる。芸者出身の流行歌手の祖である藤本二三吉を義理の母に持つ紅白4回出場の実力者であり,往時の小唄の雰囲気のままに現役の踊り唄として使われている貴重な音源である。これらの音頭・小唄は1934年に阿寒・摩周が道内初の国立公園に指定され,小説「挽歌」や「阿寒に果つ」の舞台となったころの活気を今に伝えている。

「釧路の駅でさようなら」のヒット曲を持つ三浦洸一(1928-)は「釧路港まつり音頭」(1965年制作)を歌っているものの,その後1969年に三波春夫の「新港まつり音頭」ができており,短期間しか使用されなかったものと思われる。

三沢あけみ(1945-)が「定山渓温泉かっぱ音頭(札幌市)」「すずらん踊り(恵庭市)」「釧路魚河岸音頭」と比較的多くの音頭を吹き込んでいる。東京音頭で日本の音頭の礎を築いた小唄勝太郎を慕っていたというだけあって,音頭は堂に入っている。特に,「釧路魚河岸音頭」は三沢の代表曲「島のブルース」にも通じる独特の曲調を持つ傑作である。1965年制作の「中標津音頭」を歌う若原一郎(1931-1990)・大月みやこ(1946-)は両者とも紅白出場経験を持つが,若原は制作当時既に5回出場歴があったのに対し大月はデビューしてまだ間もなく,紅白出場にその後21年を要している。当時の大月は楷書的な歌い方であり,50余年を経て円熟味を増した本人によるリメイクを期待したい。

変わったところでは吉幾三(1952-)が歌手デビューした1973年に「歌登音頭」を旧芸名の山岡英二名義で吹き込んでいる。近年まで吉幾三と同じ人物であることが地元でも知られておらず,事実がわかった際には話題となった。

昭和の終わりころに始まる音頭のサンバ化は,道民の踊り離れを招いたが,長山洋子(1968-)の「とまこまいサンバ(1998年制作)」は,希望団体のみ踊る形に変更されながらも,とまこまい港まつりのパレード曲として現在も使用されている。

民謡歌手

民謡歌手の紅白出場事例は意外と少ない。1979年,当時23年ぶりに民謡歌手として紅白に出場した金沢明子(1954-)は「ゆうばり囃子阿呆おどり」「つべつ音頭」を歌っている。正統派の民謡歌手でありながら「イエロー・サブマリン音頭」のように民謡の枠を超えて音頭を歌える貴重な存在であり,まだまだ活躍してほしいところである。 「千恵っ子よされ」で一世を風靡し紅白にも出場した踊る民謡歌手・岸千恵子(1942-2011)は「黒松内音頭」がある。もはや新作を聴けないのは残念だがスケールの大きな名作を北海道に残してくれたことに感謝しなければならない。歌手ではないが三味線奏者として紅白出場歴を有する三味線豊吉(1905-1964)は三味線の五線譜演奏でオーケストラ伴奏に参加し,音頭の大衆化にも絶大な貢献をした人だった。名前が確認できるものとして「新根室音頭」の演奏がある。

その他紅白出場歌手

少し系統の違う歌手としては,加藤登紀子(1943-)の「大門音頭(函館市)」,デューク・エイセスの「江別市民音頭」,コミックバンドながら紅白に3回出場している殿さまキングスの「花のまち音頭 (東神楽町)」がある。いずれもなかなかにいい味を出している。

日本調歌手

1928年に電気吹き込み式のレコードが導入化されていわゆる流行歌のジャンルが確立したとき,男性歌手は東海林太郎や藤山一郎のようにもっぱら洋装であり,日本調の歌を担ったのは市丸小唄勝太郎といった芸者出身の歌手であった。そこに新民謡運動の旗手となる作曲家・中山晋平が登場し,新作のご当地音頭を次々にレコード化していく。はじめは「三朝小唄(鳥取県)」「十日町小唄(新潟県)」など小唄が主だったが,1932年に東京は日比谷,丸の内の商店主の依頼で「丸の内音頭」を制作,翌年「東京音頭」として小唄勝太郎・三島一声の唄で改作盤が発表され大ヒットとなった。これが現在のご当地音頭の祖となっている。「ハアー」で始まる歌い出しは「東京音頭」で定着したもので「ハア小唄」とも呼ばれ,以降に制作された音頭は大半が「ハアー」で始まっている。

この時代,藤本二三吉(1897-1976)や赤坂小梅(1906-1992)の「北海音頭(1935年制作)」,市丸(1906-1997)の「釧路新小唄(1932~1933頃制作)」,音丸(1906-1976)・伊藤久男(1910-1983)の「北海博をどり(1937年制作)」,美ち奴(1917-1996)の「根室音頭(1934年制作)」など相当数の音頭が吹き込まれているものの,そのままの形で現在も踊り唄として使用されている例は把握していない。

この当時の音頭を現在まで唯一踊り継いでいるのが「函館港おどり」で,1935年第1回函館港まつりの際に中山晋平が作曲,小唄勝太郎が唄ったものである。曲間に「祝え祝え祝えやな」と祝詞が挿入される異色の構成で,オリジナル音源は伴奏を含めて格調高い仕上がりだが,現在は1958年開港100年の際のカバー盤が使用されている。「情けの勝太郎,智の市丸」として勝太郎とともに市勝時代を築いた市丸が歌った音頭には1950年制作の「千歳音頭」がある。これも現在,別歌手のカバー盤に置き換えられており市丸の美声を現地で聞くことはかなわない。幸いYouTubeでこれらのオリジナル音源を聞くことができ,圧倒的にオリジナルのほうが歌に華や艶があり,演奏も豪華であることが確認できる。SPレコードは摩耗など技術的な問題があって後年改盤に置き換えられたのだろうが,いまその問題はないはずで,何とかイベントでオリジナル音源を復活させてもらえないものか。なお,1958年制作で市丸が歌った「函館五稜郭音頭」は,市丸歌唱のまま一部復活している事例もあるようである。

小唄,端唄の厳しい鍛錬に基礎を置く日本調歌手は,戦後神楽坂はん子(1931-1995)などの登場によって演歌との境があいまいとなり,現在は風前の灯火であるが,日本調歌謡の伝統を継ぐ恐らく最後の人が下谷二三子(1938-)である。志村けんのアレンジで有名になった「東村山音頭(1963年制作)」を三橋美智也とともに唄った人で,いま市丸,音丸ら日本調歌手の歌を,往時の情緒そのままにカバーできるのはこの人しかいないと言われる。この下谷二三子の美声を北海道で聴くことができるのが「丹頂鶴音頭(1967年制作)」で,鍛錬に裏打ちされた余裕ある歌唱を堪能することができる。ほかにかつて芦別市の千人おどりで使用された「芦別音頭(1970年制作)」が下谷二三子の歌唱である。

作詞者

音頭の詞は,公募などにより地元の人の作品から選ばれることも多いが,ここではある程度名の通った作詞者の作品を概観してみたい。

大御所

星野哲郎(1925-2010)の「噴火湾網おこし」「函館音頭(補作詩)」,阿久悠(1937-2007)の「とまこまいサンバ」,石本美由起(1924-2009)の「小樽音頭」「しらおい元気まち音頭」など名だたる作詞家が手掛けた音頭が存在する。

北海道出身の作詞家

利尻島出身の時雨音羽(1899-1980)は代表作「出船の港」のほか,藤原義江や二村定一が唄う流行歌に多くの詩を提供している。音頭の作詞も地元「沓形水産音頭」のほか,「声問音頭」「枝幸音頭」「留辺蘂音頭」「温根湯音頭」「置戸音頭」「洞爺湖畔音頭」など,道北,オホーツク方面を中心に数多い。この中で現在もイベントで使用されている音頭としては「枝幸音頭」や「置戸音頭」がある。

高橋掬太郎(1901-1970)は根室出身で函館日日新聞勤務の経験があり,1931年に「酒は涙か溜息か」で作詞家デビューした。北海道関連の楽曲も多数作詞を行っており「北海盆唄」で必ず歌われる「北海名物 数々あれど おらが国さの 盆踊り」は高橋の作詞である。ほか,「札幌音頭」「湯の川音頭」「道南観光音頭」などの作品がある。特に出身地の根室に多くの作品を残しており,「根室音頭(1934年制作)」は補筆の扱いだが,高橋の縁で上京したばかりの服部良一(1907-1993)が作曲を担当している。

「島のブルース」などで知られる吉川静夫(1907-1999)は帯広市出身で,本別町で小学校の教諭を務めた縁から「本別小唄」を作詞している。

道内在住の作詞家

北海道ローカルの作詞家としては池田町の小原四郎(おばらしろう)が道内各地の音頭に多くの詩を提供している。地元の「池田音頭」「いけだ音頭」「ワインまつり」「あきあじ音頭」「ぶどう仕込み唄」「十勝しゃんしゃん傘踊り」「池田しゃんしゃら」のほか,十勝管内の「更別音頭」「忠類音頭」「大樹音頭」「陸別音頭」「浦幌音頭」,さらに「旭川観光音頭」「網走音頭」「様似音頭」も手掛けている。

「原野の詩人」と呼ばれた弟子屈町出身の更科源蔵(1904-1985)は道内の校歌の作詞を多く手掛けており,音頭では「美唄音頭」「厚真音頭」「津別音頭」「穂別音頭」「鵡川音頭」の作品がある。詩人で放送作家の佐々木逸郎(1927-1992)は「赤井川音頭」「カルデラ慕情」「つべつ音頭」を作詞している。北海へそ祭りの創設者の一人として知られる富良野の菓子店主操上秀峰は,「北海へそ音頭」のほか「中富良野音頭」「湖水音頭(南富良野町)」「旭川観光おどり」といった近郊の音頭の作詞を手掛けている。

作曲者

大御所

第2次世界大戦前から活躍している作曲家では先述の中山晋平(1887-1952)の「函館港おどり」,古関裕而(1909-1989)の「狸小路ばやし「音更音頭」,米山正夫(1912-1985)の「函館音頭」「歌登音頭」が挙げられる。戦後派では,都はるみの一連のヒット曲を手掛けた市川昭介(1933-2006)の「厚田音頭」「南極音頭(稚内市)」「黒松内音頭」「鹿追音頭」,いずみたく(1930-1992)の「定山渓かっぱ音頭」「江別市民音頭(編曲)」,羽田健太郎(1949-2007)の「とまこまいサンバ」が挙げられる。シベリア抑留中に作曲した「異国の丘」が詠み人しらずのままNHKののど自慢で歌われ,復員後に作曲者と判明した吉田正(1921-1998)は日本ビクターに専属作曲家として入社した早々の1951年に「本別小唄」を作曲している。まだヒット曲が出る前で長らく作曲者不明とされてきたが,近年になって吉田の作曲であることが判明して話題となった。

北海道出身の作曲家

美空ひばりの初期のヒット曲を作曲した万城目正(1905-1968)は幕別町の出身で晩年に「幕別音頭」を作曲している。根室出身の飯田三郎(1912-2003)は岡晴夫の「啼くな小鳩よ」など流行歌のほか,クラシック作品も多く手掛け,音頭では根室近郊を中心に「花咲音頭(根室市)」「新根室音頭」「丹頂鶴音頭(釧路市)」「厚岸音頭」「浜中音頭」など,格調の高い作品を多く残している。「あざみの歌」など叙情歌で知られる真狩村出身の八洲秀章(1915-1985)は「マッカリ音頭(真狩村)」「ニセコ観光音頭」「観光旭川音頭」「層雲峡峡谷火まつり音頭」「初山別音頭」などを作曲しているが,「観光旭川音頭」は本来の曲調から改変されてしまったのが惜しまれる。「東京アンナ」の釧路市出身小町昭(1931-)は名作「蕗まつり音頭」のほか「苫小牧港ばやし」の作品がある。

道内在住の作曲家

桑山真弓(1930-2001)は北海道放送(HBC)専属バンドのリーダーを務め,1965年独立。北海道の歌を650曲以上作曲したとされる。現在踊られている音頭には「登別地獄ばやし」「朱鞠内湖音頭(幌加内町)」「上富良野音頭」「湖水音頭(南富良野町)」「つべつ音頭」などがある。池田町出身の渋谷みのるは歌手としての経歴もあり,「いけだ音頭」「あきあじ音頭(池田町)」などおばらしろうとのコンビで十勝管内の数多くの踊り歌を作曲し,自ら歌唱しているものも多い。高校の音楽教諭だった山口祐功は「流氷音頭(網走市)」「神恵内音頭」の傑作を残している。