滝川からは特別急行列車で旭川へ。
旭川駅は電光式の大きなデジタル時計が取り去られ,札幌駅を真似た丸時計が取り付けられていた。これはあまり評判が良くない。かつての電光式の時計は買物公園のいちばん奥,6条通,7条通のあたりからもよく見えたのだが,この時計だと近くまで来なければ見えず,駅の存在感が薄れてしまった。
さて,旭川駅を訪れたのはエキチカこと,ステーションデパートに別れを告げるためである。
旭川ステーションデパートは昭和35年6月,現駅舎の竣工と同時にオープン。昭和44年7月10日の全焼,JR移行時の改装を経て形を変えてはいるが,戦後の復興を象徴する貴重な商業施設である。しかし近年は売り上げの落ち込みが続き,この4月には道内最大級の商業施設であるイオン旭川西ショッピングセンターが郊外にオープンすることから駅周辺の買い物客が減少することは確実と見られ,ステーションデパートは44年の歴史に見切りをつけて閉店することとなった。旭川駅自体移転新築となるので近い将来このときが来るとは思っていたが,移転を前に閉店しなければならなくなったのは大変残念なことである。
ステーションデパートへ降りる階段は駅舎内に2か所ある。
一部の店舗では閉店セールを実施していた。
年月の経過を感じさせる手すり。昔は黒く塗られていてもっと太かったと思うが気のせいだろうか。
重厚なドア。
ステーションデパートには「まごころタウン」という愛称がついている。この平面図では左が東,右が西。
西階段下から改札口方面を見る。 | 改札口から東方を見る。 |
手前右手は薬屋。その奥にはガラス屋があるが,わたしが高校生の頃はたしか「花いちもんめ」というよくわからない雑貨屋があった。左手にはお土産屋が3店舗並んでいる。正面奥のお土産屋では旭川名物のジュンドックを売っている。 | 右手は旭豆のあさおか。旭川といえば旭豆といわれるくらいに名の知られた銘菓だったが,近年はすっかり影が薄くなってしまった。左手の北倶楽部はわたしが高校のときにできた新しい店で,このステーションデパートには似つかわしくないモダンな雰囲気である。 |
東階段下から西階段方面を見る。 | 東階段下から改札口方面を見る。 |
通路を挟んで両側とも文具・書籍の中央堂である。 | シューズショップ・ヨネザワでは5割引の閉店セールを実施。 |
東階段下の飲食店街。今日は蜂屋でラーメンを食べる。右手に少し写っているファミリーレストランは既に閉店していたが,営業していたときの印象があまりない。
横丁のような居酒屋街。ステーションデパートにこんなところがあったのかと,今日はじめて気がついた。改めて旭川駅の奥深さを知った。
明治31年開業当時の写真が掲げられたトイレ。このトイレはたしか昭和62年ごろの改装で設けられたものである。
字体からして国鉄時代そのままの発車時刻表。近年は経費削減のためか上から紙を張って時刻を修正していた。
JR(国鉄)のOBのおじさんが座っている改札口。この改札口はステーションデパートができて2年後の昭和37年12月に設置されている。42年の間に何人がここに座ったか。わたしが高校生の頃には4人のおじさんが交代で座っていた。いまでもはっきりと顔を覚えている。
44年のうち,わたしもかれこれその半分以上を知っていることになる。4,5歳のころから今日に至るまで,たぶん1000回くらいこの地下改札を通っているだろう。子供の頃は休みになると祖母の病院通いについて旭川に来ていた。高校の3年間はほとんど毎日,帰りの列車に乗るために地下改札を通った。
ここに昭和52年の旅客交通量のデータがある。午後の下り列車は軒並み効率100%を超えている。特に15時47分発の富良野行き普通列車は定員380人,ということは5両編成であるが,それでも立ち客が出ているのだ。富良野線は平日に乗ったことのない人は知らないだろうが,道内屈指の混雑路線である。今はこの頃に比べて客は減ったが,車両も減らされたので混雑具合は今も昔も変わらない。
改札口から富良野線のホームまでは約150m離れており,このことがまた熾烈な争いを生んでいた。かつて旭川駅では厳格な列車別改札を行っていたので,改札の案内があるまでは改札を通ることができない。富良野線のホームへは地下改札口のほうが近いので,みな地下に並んだ。少しでも早く改札を出られるよう,あらかじめ切符に鋏を入れてもらうのが常套手段だった。
改札が始まると,100人,200人という数の人が改札口に向かっていっせいに力ずくで前の人を押す。子供の頃,こうやって押されるのがいやで,幼稚園の年長だったか小学校1年だったか,改札を出たところで泣いて立ち止まってしまったことがあった。それは押されて痛かったからではなく,たかが列車の席に座りたいということだけのために,大人たちが鬼のような形相をして押し合いへし合いをしなければならないことに何ともいえぬ悲しさを感じたのである。
改札を抜けるとみな全速でホームへ向かう。祖母は生涯和服で通した人で,旭川へも足袋に草履で来ていたが,歩くのは早かった。さすがに走る高校生にはかなわなかったが,他の大人にはひけを取らぬ速さで歩いたのを覚えている。小学校1年のとき祖母に早歩きの方法を教えてもらい,以来,早歩きはわたしの特技となった。
1992年,もう12年前のことであるが,旭川の高校に通うことになり,帰りの汽車に乗るために毎日地下改札を利用することになった。帰りの汽車は16時56分。高校が15時過ぎに終わっても,汽車がその時間までないのだ。改札が始まるのは16時37分ごろ。その時間に行っても既に改札の前に多くの人が並んでいるので,16時20分頃には改札の前に並んだ。
高校生だから座らなくてもよいじゃないかと思われるかもしれないが,遠距離通学生にとっては汽車の中が唯一の勉強時間だったから,何としても座りたかった。「放送,地下さん富良野行き改札します」と電話で連絡を受けると「只今の改札」のところに富良野行の札がかけられ,ドアが開く。改札を出ると全力疾走。他の人に抜かされないようジグザグに蛇行して走ったり,ひものついたカバンを振り回しながら走るなど奇策も考え出す人もいた。わたしは体育が全般に苦手だったが,短距離走だけは上位だった。それはこの地下通路での熾烈な競争の産物だったのではないかと思ったりする。
思い出が尽きない地下改札であるが,もう二度と通ることはできない。
さようならステーションデパートさん。ありがとう地下改札さん。