帰りは東旭川駅まで歩いて行く。
いまだ渋滞止まず。この人たちは今日中に入園できるのだろうか。
バス停「上兵村」。東旭川は全道に37箇所あった屯田兵村の一つ。いまだに地名に「兵村」の名が残り,独特の地割をなしていることから,中学校の地図帳などに掲載されることが多い。
30年以上前に廃止された「電車」の文字がまだ残っている骨董品の待合所。ちなみに電車時代の停車場の名前は「役場前」といった。東旭川は明治31年永山村から分離して東旭川村として成立。明治42年一級町村となり,昭和34年町制施行。昭和38年に旭川市と合併した。屯田兵村ということで地域の人も誇りを持っているのか,いまでもしっかりとした市街地が残っている。
旭川神社の境内にある記念館で,昭和36年会館,同55年に現在の建物ができた。屯田兵関係の展示施設としては道内でもっとも充実していると思われ,今日は日清戦争関係の特別展を行っていた。
旭川市立旭川中学校は東旭川にある。
旭川神社の大鳥居から駅前通を見る。突き当たりに東旭川駅があるのだが,駅舎は微妙にずれた位置に建っており,ここからは見えない。やはり正面に堂々とした駅舎がほしいところだ。北海道の農村の場合,たいてい入植前に市街地の位置や駅の位置が定められているので,きれいな駅前通が形成されているところが多いが,ここの場合,駅ができたのが入植から30年後なのでこのような変な位置関係になったのだろう。
東旭川15時41分発の普通列車で旭川へ戻る。来たときに比べてかなり乗客は少ない。特急オホーツクは下りしか停車しないので,ツアーで来た人はバスで旭川駅に向かったのかもしれない。
旭川四条駅は東川・旭山公園方面に延びていた旭川電気軌道の起点だったが,昭和47年12月31日限りで軌道廃止。翌48年9月に国鉄線が高架化された。2003年3月,旭川駅−北旭川貨物駅間が電化,同年9月1日に旭川運転所が北旭川貨物駅に移転した。
ここから旭川の中心街を散策しながら旭川駅へ向かおうと思う。
旭川四条駅前後の高架下に約600mに渡って続く下駄履き店舗群である。四条駅は病院通いのお年寄りが多く,これらの店もお年寄りの買い物客で繁盛していたのだが,近年は汽車で病院通いをする人も少なくなり,店を閉めるところが増えているようだ。
4条15丁目。軟派な名前の古本屋だが,中身はかなり硬派で,札幌や神田の古書店を2,3軒合わせたぐらいの内容である。旭川は地震,水害などの災害がないせいか物持ちのよい町で,骨董品屋など古いものを売る店が多くある。
もともとこのあたりは戦後の混乱期に「やみ市」が置かれた場所だというが,銀座デパート,銀ビル,第一市場など30年以上前の写真と比較してもまったく変わっていない(右の写真は『旭川80年の歩み』(1970)より)。一時寂れかかったが,1999年ころから都市計画の専門家が加わって商店街再生に取り組み,七福神をシンボルした仲見世通りとしてリニューアルし,鳥居や神社が設けられた。
1999年にNHKのETV特集「にっぽんを歩く(3)病院銀座であいましょう」という番組で全国に紹介された。JR旭川駅と旭川四条駅の間に位置し,4条通(国道39号)の両側に個人病院が延々といくつも連なっている。私の祖父母も毎週のように旭川へ汽車やバスで通い,内科,眼科,歯科など病院をいくつも行脚するのを半ば楽しみのようにしていた。
しかしお年寄りいえども自家用車で通院するようになり,近年は病院銀座にも活気がなくなってきたように思われる。四条駅高架下の17丁目オール商店街,銀座通り商店街,それにこのあたりにいくつもあった私設の「市場」。こうした戦後の一時代を象徴する旭川の風景が今後急速に失われていくような気がしてならない。
わたしの出身高校である。校舎はわたしが入学する前年に竣工したばかりだったので,変わっていない。
今年4月,ひと回り下の妹がこの高校に入学した。生徒会誌を見せてもらったら,知っている先生がまだ10人くらいいた。特に,あの当時の年齢からしてもう絶対定年になっているはずの先生がおり,驚いた。同姓ではないかと疑ったが,黒板に数字を6から書き始めるというので間違いなくその先生である。わたしが高校時代最も尊敬した先生だったが,妹はその先生の良さをまったく理解していないようだった。最近わたしが知っている旭川がどんどん変わっていき寂しく感じているが,高校にまだ知っている先生が残っていて無性に嬉しかった。
6条通から駅方面を見る。かつて師団通と呼ばれたこの通りは第七師団から旭橋を介して駅とつながり,明治以来約半世紀にわたって将兵たちがこの通りを行進して戦場に向かっていった。正面には旭川駅の電光時計が輝いて見えていたのだが,最近取り払われて寂しくなってしまった。
建物の老朽化により3月末で営業を終了した旭川の老舗ホテル。ホテルの設立は昭和26年で,同46年に現在地に移転。昭和57年に5丁目側に増築を行い,現在の形となった。見てのとおり,これほど風格のあるホテルは全国でもめったになく,閉鎖を惜しむ市民は多い。建物は解体されるという。
小説『氷点』にも登場した古めかしい地下食堂であるが,ここも3月30日で惜しまれつつ閉店した。看板はそのままだった。
戦後の復興を象徴する駅地下のデパートだったが,経営難から2日前に閉店。シャッターが閉ざされていた。
国内に現存する最後の大型扇形庫といわれる。蒸気機関車時代の遺産であるが,旭川運転所の移転により近いうちに取り壊されるであろう。
長年変化を拒んできたように見えた旭川だが,最近,わたしが子どものころから当たり前のようにあった風景が,ガタガタと音を立てて崩れていくかのように思える。ふるさとはいつ帰っても同じ姿であってほしいが,それはかなわぬ願いであろうか。