結局旭川が道都になることはなかったが,本道陸軍の中枢をなす第7師団は旭川に置かれることになり,明治34年10月に札幌から師団司令部が移駐した。以来,旭川は日本最大の師団を抱える軍都として発展を続けてきた。
ここに昭和11年9月,陸軍特別大演習にあたり昭和天皇が道内を行幸した際の御道筋図がある。昭和11年といえば,開戦前夜で日本の軍隊がもっとも力を蓄えていた時期であり,軍艦比叡で室蘭港に上陸した昭和天皇は,一路旭川に向かい,第7師団関連施設を視察している。
行幸御日程は次のとおりであった。
9月26日 | 14:19 | 旭川駅御着車 |
同 | 14:35〜14:57 | 行在所 |
同 | 15:00〜15:33 | 御親閲場 |
同 | 15:35〜15:55 | 第7師団司令部 |
同 | 16:03〜16:36 | 旭川師範学校 |
同 | 16:45 | 行在所還幸 |
9月27日 | 8:00 | 行在所出門 |
同 | 8:18 | 旭川駅御発車 |
今日はこの地図を片手に,師団界隈を歩いてみたい。
まずは,現在陸上自衛隊の旭川駐屯地となっている旧練兵場の外周部から。
撮影方向Aの4車線道路。旭川市街軌道の路面電車は昭和31年で廃止されている。
撮影方向B。こちらも市内電車が走っていた。
旭川といえばモダ。モダグループの本社はここにあった。
撮影方向C 北海道教育大学附属旭川小学校 |
撮影方向D 北海道教育大学附属旭川中学校 |
ともに歩兵第26連隊跡地に建っている。戦後は兵舎が道学芸大附属旭川中学校に転用され,同校の移転後,兵舎改造校舎を再転用して昭和38年市立北都商業高校が開校。同校が台場に新校舎を建設して移転した後,昭和46年に道教大附属旭川小学校が当地に移転新築され,同50年には再び附属中学校が移転新築したという変遷をたどっている。
両校とも旭川市内では唯一,選考により入学者を決定する小学校・中学校で,エリートを志す子どもたちが多く学んでいる。
撮影方向E。井上靖通りという愛称が付いた無用に広い道路は,歩兵第26連隊と同第27連隊を区画する通りだった。
小説家の井上靖(1907-1991)は,この通りにほど近い師団官舎で,軍医の長男として生まれている。
バスで春光台に向かう。
撮影方向F。師団の背後に要塞のように横たわる春光台。太平洋戦争の末期には第7師団最後の砦として高射砲台や対空銃座が置かれていたという。
撮影方向G,春光台公園入口。
撮影方向H。上の地図では何と書いてあるのか読みとれないが,御親閲場と結ぶ線の終端となっており,何かの会場になったようである。写真右は「寄生木ゆかりの地」の碑。徳冨蘆花の小説『寄生木(やどりぎ)』は第7師団の青年将校がモデルで,蘆花は小説を書くため実際にこの場所を訪れている。
撮影方向I。眼下には見渡す限り陸軍の官舎が建ち並んでいたはずである。正面に小さく見える煙突は日本製紙の旭川工場である。旭川は「パルプの町」とも言われるが,この製紙工場ももとは国策パルプという軍需工場で,昭和15年に創業を開始している。
撮影方向J。江丹別通りを旧練兵場方面に引き返す。練兵場正門と演習場を結ぶ大通りで,現在ではその幅をもてあまして中央分離帯が設けられている。
「御親閲中ノ分列式」 |
撮影方向K,正門。天皇行幸の際にはこの奥に御親閲場が設けられたのである。
右の写真は『昭和11年陸軍特別大演習並地方行幸記念写真帖』(北海道庁,昭和12)からの転載である。(以降に掲載する白黒の写真もこれに同じ)