北海観光節旅行記東日本縦断旅行

足尾製錬所

旧役場庁舎から10分足らずで足尾駅に着いた。駅構内の雰囲気は国鉄時代そのもので,時間が止まったかのようだった。しばらく駅に佇んでいると,たまたま列車がやってきた。

レンガの建物の奥に見えるのが,古河掛水倶楽部。足尾銅山の迎賓館で,いまも現役で使用されている。平成13年から有料で一般公開されているが,今日は閉館のため見学できなかった。

日光への国道122号と別れ,さらに渡良瀬川沿いの道を遡る。

「研究課」「分析」と呼ばれるこの建物では,かつて鉱石や排煙,排水の化学分析を行っていた。建物は大正の半ばの竣工と古い。

 

足尾駅から20分ほどで,わたらせ渓谷鉄道の終点・間藤駅に到着した。

間藤駅は宮脇俊三著『時刻表2万キロ』の中で,最後に降り立った駅として登場しており,駅舎はちょっとした資料館のようになっていた。

 

間藤駅の近くから急坂を登ったところにあったのは,上の平集落。ここも足尾銅山の社宅群があったという。

上の平から上間藤地区を望む。

銅山観光を出たときはまだ11時過ぎだったので,市街に何軒かあった食堂は準備中だった。観光パンフレットに載っていた,北部地区唯一のこの食堂に期待していたのだが,あいにく休業日だった。今日もまた飢餓旅行になりそうな予感がした。

三養会深沢売店。

廃止となった間藤駅〜足尾本山駅間には,腕木式の信号機がそのまま残っていた。

 

足尾町北部の中心商業地である赤倉では,呉服店や洋品店が細々と営業を続けていた。

 

足尾銅山盆踊り「直利音頭」発祥の広場。本山坑への道路が分岐するところに広場はあった。直利とは銅鉱を多量に含んだ良質の鉱脈のことをいう。

広場のベンチで小休止し,朝に続いて非常用のカロリーメイトを口にした。道中でカロリーメイトに手をつけなければならないというのは,いままであまりなかったことである。

龍蔵寺の境内から製錬所を見る。明治17年,大鉱脈に当たったのを機に建設され,往時は東洋一の大銅山と称された。明治中期から大正前期まで,全生産量の80%が輸出され,日本はアメリカ,チリ,ドイツに次ぐ世界有数の銅産出国であった。

一方,亜硫酸ガスの排出による煙害問題を引き起こし,明治以来何度も脱硫装置の改良を試みるも効果がなく,ガスの完全回収に成功したのは昭和31年のことだった。煙害で周辺の山はばけ山になったが,近年になってようやく緑が復活してきたという。

境内には,旧松木村の無縁石塔があった。松木村は渡良瀬川上流の農村だったが,明治30年の鉱毒防止予防命令により製錬所に設置した脱硫塔の排煙を集中的に浴びることになり,廃村に至ったのである。

銅を製錬するときに出るカラミ(不純物)を固めた煉瓦でできた防火壁。長屋はなくなり,防火壁だけが点々と残っていた。

 

三養会の愛宕下売店。共同浴場も残っていた。愛宕下地区の人口は昭和31年819人,昭和48年の閉山時377人,昭和62年127人,平成9年27人と激減している。

愛宕下の集落を過ぎると,いよいよ人家もなくなり,「カモシカの見える道」がひっそりと旧松木村に向かって延びていた。時間の許す限り,あと少しだけ北に向かってみる。

 

銅山観光から歩くこと2時間,大畑沢緑の砂防ゾーンに到着した。標高は700メートルを超えたところにある。煙害で丸裸になった大畑沢では昭和63年に国土交通省による砂防事業が開始され,いまも毎年ボランティアの人たちが植樹を続けている。

緑の砂防ゾーンから足尾ダム方面を見る。足尾ダムは昭和30年竣工で,当時日本最大の砂防ダムだった。目的は煙害で荒廃した山からの土砂をくい止めることだったが,既にダムの上は埋め尽くされて,草原になっているという。

時間の関係もありここで道を引き返すことにした。

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