山間に入るにしたがって,雪はさらに深くなってきた。沿道では夜明け前から雪かきをする人たちの姿がたくさん見えた。
盛岡駅から約45分で区界峠を通過。
やまびこ産直館で5分ほどの小休止。箱石で休憩をとっていた盛岡行きの便も,2009年からやまびこ産直館に乗り入れており,上下の106急行が並んだ。
駐車場では,職員が総出で雪かきをしていた。東北の山間ならではの美しい風景だ。
川内付近。はっとするほど,美しい日本の山村の風景が続く。
川井市街通過。北上山地の中心部に広大な面積を占める川井村であったが,2010年1月1日付けで宮古市と合併した。
定刻より若干遅れて,8時34分,茂市で下車。
ここからは宮古まで鉄道の便がある。もちろん山田線は盛岡から通じているのだが,始発に乗っても宮古に着くのが午後になるので,まずはバスでここまで来たのである。せめて最後だけでも鉄道で宮古入りしたい。
茂市駅構内を見下ろす。山間の急行停車駅といった趣だ。
茂市の市街を歩く。茂市はかつての新里村の役場所在地であるが,川井村に先駆けて2005年に宮古市と合併している。
駅前の店はやっているのかどうかわからない。旅館は廃業したようである。過疎化は確実に進んでいる。
そんな中でも,茂市駅は変わらない姿で建っていた。
JR東日本のホームページによると2011年度の1日の乗降客数が28人という小さな駅であるが,運転扱いのため駅員が常駐している。
待合室にはストーブがともり,暖かな雰囲気だった。
いろいろな展示物も増えていた。茂市駅から分岐している岩泉線は,2010年7月31日の土砂崩れによる脱線事故で,全線運休が続いている。既に,JR東日本は岩泉線を廃止し,バス転換を行う方針を発表しており,もう列車が走ることはないと思われる。
茂市駅ではきっぷを買う必要があった。今日は三陸鉄道経由で青森まで行くので,「宮古経由で青森までお願いします」と頼んでみた。
たぶん買えないだろうとは思ったが,どういうことになるのか試してみたのである。茂市から宮古経由で青森というのは,別に非常識な経路ではないと思う。
駅員さんはまず,三陸鉄道経由という売り方をしたことがないと言い,さらに一部区間バス代行しているので,どういうことになるのかわからないとのことだった。バス代行でなければ出せそうな気もするし,時間があれば調べるが,5分前には列車扱いで窓口を閉めないといけないという。
5分前には列車扱いで,という言葉に,映画やドラマでしか知らない世界ではあるが,非常な懐かしみを感じた。山田線はいまだに閉塞が自動化されておらず,駅員が手動で信号の取り扱いをしているのである。山田線はタブレットを必要としない連鎖閉塞式という特殊なケースではあるが,列車進入の前後の信号扱いは,どこの駅でも普通にみられる光景だった。古い駅舎とともに,こういうシステムそのものが国鉄時代のまま残っている駅というのは,全国でもほかにないだろう。
きっぷのほうは,素直にあきらめ,宮古までの乗車券を出してもらった。「ティッシュをお持ちください」とポケットティッシュを1つもらった。親切な応対に感謝である。
急行列車が似合いそうな2,3番ホーム。いまは,それぞれ1日に6本の列車が止まるのみ。
山田線の列車は,2007年に従来のキハ52,58形気動車からキハ110形気動車に置き換えられている。
ただし,ワンマンではなく車掌さんが乗務していた。
宮古行きの乗車券は,たとえ短区間でも,ふるさと行きの乗車券という実感が沸く。正月1日,2日を休んで,明日からはまたUターン客向けの「快速ふるさと宮古号」が山田線を走る。
花原市駅の向かいに「ぢゃや」というコンビニがあったのだが,なんと合掌堂という仏壇屋さんに変わっていた。時代の流れとはいえ,寂しいことである。
そして,いよいよ宮古へ。ラサの煙突は健在だ。
宮古駅の出場専用の改札口も健在。
立ち食い蕎麦も健在。
駅前には震災前とほとんど変わらない風景があった。
宮古に始めて来たのは,1998年の12月である。それから何度来たのか覚えていないが,10回ぐらいは来たのではないかと思う。直近で来たのは2009年8月,その時は仕事だった。観光で来たのは2007年の元旦以来になるので少し間が空いてしまった。
なぜこの宮古という街にこれほど惹かれたのかと問われても,明確に答えることができない。しかし,震災があってから,両親が新婚旅行で最初に宿をとったのが宮古だったということを知り,これはやはり何か運命づけられたものがあったのではないかと思っている。