注連寺には約35分間滞在した。10分くらいで拝観できるものなら,先ほど乗ってきたバスの折り返し便に乗って,博物村を見学しようと思っていたが,これはあきらめた。ゆっくり大日坊まで歩こう。
六十里越え街道は平成10年頃から古道の発掘,整備が進められており,各所に案内板や幟が立っていた。
稲荷峠を越え,上道と合流する。鶴岡から十王峠を越えてきた街道は,注連寺の手前で上道と下道に分かれれる。上道は,大日坊が注連寺を通らずに参詣客を導く道だったともいわれる。
出羽三山は古来より八方七口の登拝口があるとされるが,方と口に一つの違いがあるのは,注連寺の七五三掛口と大日坊の大網口で「方」は二つと数えるものの,近接していることから「口」としては一つと数えたためであるという説もある。
両寺院とも,湯殿山登拝口に位置する寺院として重要な役割を果たしてきたが,明治初期の廃仏毀釈の折,他の寺院が神社化する中,真言宗を貫き,それだけに苦難の道を歩んでいる。
静かな旧道を行く。
大網の棚田を見下ろす。大網の地名は,昔,この一帯に大きな網を張り鷹を捕らえたことに由来し,また,朝廷にその羽を献上したことから,お礼として出羽の地名を贈られたという。また,空海が開いた土地として高野山と対をなす聖地ともされる。
聖地ではあるが,人が暮らすのに恵まれた土地であるようには見えない。小説『月山』によれば,昭和20年代半ばには,冬季に乗合バスが通じなくなると,十王峠越えの六十里越街道が復活し,商人の往来があったことから,この地域の人たちにも現金収入を得る手段が残されていたらしい。しかし,その後は経済的に厳しくなる一方だったと思われる。昭和51年度の湯殿山地区自然休養村整備事業で建てられた畜舎も,いまはどのくらい活用されているのだろうか。
住吉神社と中村の庚申塔。1770年の建立という。
舗装道路と別れ,民家の軒先を下っていく。幟が立っていなければ入り口を見落とすところだった。
のどかな田んぼの中を行く。
道はさらに怪しくなるが,きれいに草刈してあるので安心して進む。
やまがたの棚田20選に選定されている大網の棚田。ここもやはり近代の土木工事で強引に造成した感が否めず,歩いていて息苦しさを覚えた。
注連寺からおよそ35分で大日坊に到着。この山の中にしては意外なほど大きなお寺だ。
水子地蔵菩薩と六地蔵尊。
今年は未年のご縁年ということで,注連寺と同じく本堂外の木標から紐が架け渡されていた。
拝観料を支払うと,いま即身仏の説明をしていますからと,ただちに奥の部屋に案内された。手厚く祀られた真如海上人の即身仏を前に,説明が始まっていた。ここも,部屋は明るく,はっきりと拝顔することができた。
説明は30分ほど続いたと思われる。説明の途中にもどんどん参拝客は増えてきて,最終的には50人を超えたと思われる。注連寺よりも参拝客は多いようだ。参拝客といっても,興味本位の観光客が多く,お坊さんが質問してもまったく反応がなかった。
湯殿山が開かれたのが丑年であったことと,月山がその山容から臥牛山と称されることから,丑歳と,迎え干支の未歳がご縁年とされているそうだ。
ご縁年にちなむご本尊の御開帳や,即身仏の衣替えなど,注連寺と大日坊で,やっていることは同じだが,雰囲気はまったく異なっていたのが意外だった。
聞いた話も,注連寺と大日坊で聞いた話は微妙に食い違っていた。詳細は差し控えるが,「語るなかれ」「聞くなかれ」という湯殿山は既にここから始まっているのだと実感した。いまの世の中にも,こういう不思議のままにされていることがまだあるのだ。
説明を聞いているうちに,バスの時間が迫ってきた。石段を駆け下り,県道へ急ぐ。こちらが表参道だったらしい。
参道脇には,稲がきれいにはさ掛けされていた。
山門は火災で焼失した旧境内の仁王門を移設したもので,室町時代以前の建築という。
参拝客は全国各地から来ていた。大網のバス停で降りた女性も日傘をさしてやってきた。さすがに六十里越ではなく県道を歩いてきたらしい。良い旅を。