あたりまえのことを言っているようで,これが実はあたりまえではないのです。もちろん東京駅とか札幌駅は通勤通学で列車に乗るために利用している人が多いわけですが,田舎の駅になると違ってくるのです。トイレを借りるために車で立ち寄る人,駅を宿代わりに使っている自転車旅行者,効率を優先させて車で駅をめぐっている駅愛好家,こういった人たちのほうが多かったりします。地元の人もあまり利用しないような駅にはいわゆる「駅ノート」が置かれていて,駅を訪れた人たちが思い出をつづっているのですが,書き込みを見てみれば列車でその駅を訪れている人がいかに少ないかわかるでしょう。
最近駅を紹介するホームページも増えています。その作成者の多くは車を利用して駅を訪れています。小学館の「JR・私鉄全線各駅停車」などの本は効率優先で当然のように車を利用して取材しているのでしょうが,本来効率を優先させる必要のない個人までもが車で駅をつぎつぎと「制覇」するのはいかがなものでしょうか。人の趣味に対してとやかく言ってはいけませんが,列車で駅を訪れることにこだわっているわたしとしては少々さびしく,残念に思っています。
では,なぜ駅は列車で訪れなければならないのでしょうか? それはまず,列車に乗らなければJRがもうからないからです。JRだって民間企業です。列車を利用するわけでもないのに勝手にトイレを借りたりごみを捨てたりして良いのでしょうか。また,普段さんざん車を乗り回しておきながら,いざ鉄道や駅が廃止になると「寂しい」と嘆き,廃止間際になって初めてその路線に乗ったりする。こんな勝手な話はあるでしょうか。
しかしもっと重要なことは,駅は列車で訪れてこそ価値のあるものだということです。列車で訪れる駅と車で訪れる駅は全然違って見えます。よく駅の写真は駅前広場側から撮られますが,これも変な話で,旅人にとっての駅の正面はホーム側であるはずです。駅前風景も列車で訪れるのと車で訪れるのとでは見え方が全然違います。旅とは日常世界から非日常世界に移動することです。非日常世界の中にあっても車の中は日常世界であり,車から降りなければ非日常世界の中には入り込めません。列車であれば旅行している間ずっと非日常世界に浸っていられるのに,車だと車から降りて駅に滞在している間しか非日常世界を味わうことができません。車で駅を訪れることは一見効率的に見えますが,非日常世界を体験するという意味では非常に非効率な方法だといえます。
美しいものには,そのもの自体が美しい場合のほかに,苦労を体験して初めて感じられる美しさがあるといいます。それを美に対して「崇高」といいます。例えば町の中にある庭園の華やかな紅葉よりも,何時間もかけて山道を登って見る1本の木の紅葉のほうが美しく見えることがあるでしょう。鉄道とは本来便利な乗り物だったはずですが,現在では不便な乗り物と言われても仕方がない面があります。特に道内のローカル線では1日に停まる列車が1本しかなく,その駅を訪れるには隣の駅から歩くしかないなど,相当の苦労をしなければ到達できない駅もあります。しかしそうして訪れてこそ得られる感動というものがあります。それこそが北海道の駅の魅力なのだということを知ってほしいと思います。
しかしあまり列車で訪れることにこだわると,誰も駅を訪れられなくなってますます駅が寂れたり,駅ノートにも書き込みがなくなって寂しくなるかもしれません。また近年では駅を列車利用者だけではなく周辺住民の交流の場として計画する場合も増えています。ですから別にどうやって駅を訪れてもいいわけですが,列車に乗って訪れてこそ見えてくるものがあり,わたしはそれにこだわっています。
子どもの頃,列車に乗ったら窓の外を流れる景色を見るのが楽しくてしょうがありませんでした。わたしは今もって車窓風景が楽しくて,いくら列車に乗っていても飽きるということがありません。
ところが車内の様子を観察すると窓の外を見ている人は非常に少ないのです。かなり疲れているのかひたすら眠っている人,難しい本を読んでいる人,漫画を読んでいる人,パソコン広げてカタカタやってる人,耳にヘッドホンを詰めて自分の世界に入っている人,世間話に興じている人,いろいろです。そして窓から陽が差し込むと,9割方の人はカーテン(ブラインド)を閉めます。いつも列車に乗っている通勤通学の人や出張のビジネスマンはともかく,旅の人も車内で取る行動はほとんど同じです。
そういう中にあって,色白の女性が日焼けも気にせず太陽に照らされ窓を全開にして風に吹かれて外を眺めているのを見たり,体を悪くして運転できなくなって何十年ぶりかに列車に乗った老人が車窓の変化にしきりに感動している様子を見ると,わたしは妙に嬉しくなります。
人との出会いも汽車旅の楽しみの一つですから,会話に夢中になって外など見ていられないこともあるでしょう。しかしそうでない場合,少なくとも初めて乗る線では旅人は窓の外を見るべきだと思います。目的地を訪れることが旅のすべてではありません。旅の計画を立てることも大きな楽しみですし,目的地に至るまでの過程も楽しみです。目的地がない旅だってあります。この意味では車の旅も列車の旅も同じことが言えますが,列車の旅は運転する必要がないのが大きなメリットです。車は誰かが運転しなければならず,運転している間は十分に風景を楽しむことができません。だから列車に乗ったなら,風景を見なければ損です。
窓の外を見て何かいいことがあるのでしょうか? 実は汽車旅自体は人間でなくとも犬でもトンボでもできます。人間しかできないのは「観光」です。「観光」とは国の「光」すなわちその土地の風物を「観」ること。それによって人間が成長することが観光の効用です。家がある,畑がある,そこで人が働いている,花が咲いている,鹿の足跡がある,川が流れている,ダムがある,,,人によって見えるもの,感じることはそれぞれでしょうが,日常生活の中にはないものをそこに見て何かを学ぶでしょう。人はいろいろな制約のある日常世界に留まれなくなって旅に出るのです。そして旅から帰ってきたとき,旅で得た発見,経験によって人間的変化を遂げ,日々の生活を以前より豊かなものにすることができるのです。
各駅紹介のページでは,駅の紹介と同じぐらいの重きを置いて,駅の間の車窓案内をしています。しかしこれはあくまでもわたしが観たものに過ぎません。人によって全然別のものが観えるでしょう。どうぞ自分の眼で確かめてください。
列車は前と後ろしかない1次元的な乗り物です。この意味では2次元的に移動可能な車に比べて不利といわざるを得ません。しかしながら列車を降りて一歩外に踏み出せば,その瞬間から世界は1次元から2次元に,そして3次元へと一気に広がります。次の列車まで時間があれば駅前を散策してみましょう。
しかし,鉄道で旅行している人たちを見ると駅前を歩くこともせずに,ひたすら待合室で時間をつぶしている人が多いのです。駅の近くに有名な観光地でもあれば行く気にもなるのでしょうが,特に知られた見どころがなければ「何もない」と判断して駅に留まるようです。
よく誤解されることですが,観光地に行くこと自体が観光ではありません。逆にそこが観光地でなくても,何かその土地の風物を観て学ぶことがあれば観光したことになるのです。このサイトの各駅紹介で見どころが「特になし」になっていても,駅前を歩けば何か発見があるはずです。どんどん駅前を散策しましょう。
町の中を知らない人間がうろうろしていたら不審に思われるかもしれないし,犬にも吠えられるでしょう。しかしわたしの経験から言えば心配することはありません。わたしは家の庭で花壇を作っていたのですが,丹精こめて作った以上はいろいろな人に見てもらいたいと思っていました。祖母が畑で作業していたとき,通りすがりのカメラマンが写真を撮って行って,後日立派な額にして送ってくれたこともありました。祖母は大変喜んでいました。
ただしあまり奇異の目を持って興味本位でうろうろしてまわると,地元の人から変な目で見られるかもしれません。しかしそれも「探検」という一つの観光のスタイルだと思います。いわゆる「秘境駅」探訪はこの探検に分類される観光スタイルといえるでしょう。いっぽう秘境めいた無人駅なんて全然興味がない,むしろ人でごった返している都会の駅こそ魅力的だと感じる人もいるでしょう。駅の好き好きも人それぞれです。どうぞ実際に駅を訪れて,自分の好きな駅を見つけてください。何度も訪れたくなる駅がきっと見つかるでしょう。