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8. 「金山」と「鬼」峠越えの意味

●明日のニニウ

ニニウ神社が,元住民の方々の手により蘇った。

ニニウキャンプ場が8年ぶりに営業を再開するらしい。

不動産業者の手に渡っていたニニウサイクリングターミナルほか一連の施設群は,村との間で和解がなされ,近日再び村に戻るという。

何か,ニニウの明るい未来を感じさせるフォーラムだった。もちろん,関係するすべての人たちにとって良い結果だったのかどうかはわからないが,一つの大きな段階を乗り越えた気がする。

思えば,第1回の鬼峠フォーラムが開催された2007年は,高速道路の工事が本格化し,村がニニウの施設群を売却した年であり,以来の6年間というのは,ニニウの歴史の中でも,最も暗い時代だったのではないかという気がする。そんな中で,年に1度の鬼峠フォーラムを通じて,かろうじてニニウへの思いをつないできたのだ。

しかし,これからはまたニニウに新しい時代が来るのではないか,そう確信させるフォーラムであった。

●金山〜占冠〜日高の交通路

今回,金山がテーマになったのは,上富良野出身の私にとって,素直にうれしいことであった。流域という観点から,占冠は鵡川下流域との繋がりを強めつつあるが,もともとは富良野とのつながりが強かった。互いに親元の支庁から厄介者にされて,上川支庁に編入された者同士,運命共同体のようなものだったのである。

しかし,意外だったのは,金山が占冠のみならず,日高との強いつながりを持っていたことだった。大きく分けて,金山〜占冠〜右左府(日高)と,落合〜トマム〜双珠別〜千露呂(千栄)という2本の南北を貫くラインがあり,アイヌの時代から砂金掘りの時代には,それぞれの拠点をつなぐように網の目状に道があったのである。

『南富良野町史下巻』(1991)

上の地図にはそうした道のいくつかが書かれているが,金山からユウベの沢でトマム川に出て,占冠を通らずに双珠別や千露呂に至るルートも存在したようである。

金山がこの地域の中心だった時代は戦後まで続いたが,1964(昭和39)年に日高に鉄道が到達すると,経済の中心が日高に移り,占冠から日高に買い物に行くことも増えたという。そして,1981(昭和56)年,石勝線が開業すると一時期占冠が活況を呈し,1991(平成3)年に石勝樹海ロードが開通すると再び日高に活気が移った。いまはまた,道東道の開通により,占冠がいちばん元気に見える。

このように住んでいる人の意志には関わりなく,経済状況が何度も大きく変わってきたのが,この地域の特色のように思われるが,それだけに経済に流されず,100年,200年後を見ていこうという思いも,このフォーラムに参加して強く感じることである。

こうして,金山,占冠,日高を結ぶ濃密な関わりが見えてくる中で,まったく蚊帳の外に置かれているのが,ニニウだった。それは,鬼峠が存在したからにほかならないが,今回会田さんからニニウと旧穂別町福山の密接なつながりを聞いた。

●占冠に鉄道がなぜ来なかったか

金山峠を越えての感想として,ある参加者が,

「明治33年に既に金山まで鉄道が来たわけでしょ。別にトンネルを掘るという技術がなかったわけではないと思うんだよね。それが,なんで(占冠に鉄道が来るまで)80年かかったのかという疑問があるんです。狩勝峠に行くほうがよっぽど工事は大変だったのではないかと」

と言った。この後,村の人たちの間で次のような問答があった。

「それは必要度合いじゃないですか。やっぱり十勝に行くほうが……」

「それじゃあ,占冠はどうでもよかったという」

「あっちにもこっちにもじゃまにされて残ったとこだから」

「占冠は木材の輸送は流送していたから,わざわざ鉄道で運ばなくてもよかったのでは」

「まあ,物資ぐらいだからね」

私は占冠に鉄道が来るのが遅れたのは自明のことと思っていたが,会話を聞くうち,いま改めてこのことを問うのは,重要なことなのではないかと思うようになった。

占冠には下の地図のように,東西と南北に鉄道が通る計画があった。金山から日高への鉄道も現に計画されており,鉄道の開通は開拓以来の悲願であった。

『ニューエスト北海道道路地図帖』(昭文社,1967)

しかし,鉄道がなくても80年の間,何とかなったというのも事実である。木材は鵡川の流送で,いまトラックで搬出している何倍もの原木を送っていた。物資を受け入れる唯一の道が金山峠だったが,金山峠を通して運ばれてくるもので人々の記憶に残っているものは,ニシンと石炭ぐらいで,それも人力で貨車どりをして間に合う程度のものだった。

いま,世界中で再生可能エネルギーが注目され,家電や冷暖房用のエネルギーで自給率100%を達成した地域もいくつか出てきている。しかし,現状石油に頼らざるを得ない輸送用のエネルギーを含めてすべて再生可能エネルギーで賄っている事例はないと言われる。

ところが,占冠では,今から40年少し前まで,生活に必要な物資を,石油や石炭に頼らず馬で運んでいた時代があったのである。これは注目すべきことではないだろうか。

●新か旧か

鬼峠には,新と旧,2つのまったく異なるルートがある。今回の開催案内においては,このどちらを越えるのかが明記されていなかった。ただ,旧を越えるのではないかということは聞いていた。

しかしながら,私は,議論なしに旧を越えるということについて,やや疑問があった。たしかに,旧のほうが,大木や,ニニウの眺めなど見どころは多いし,道は険しいものの距離は短い。森林管理署への申請の都合もあったのかもしれない。しかし,今回の参加メンバーを見たときに,やはり私は新を越えたいという思いがあった。旧は昨年越えており,今年また旧を越えるという必然性もないように思われた。

交流会の終わりのほうで,私は決定権のある2人に改めて問いかけたのであるが,結局は旧を越えることとなった。結果的に,旧でまったく問題はなく,充実した峠越えにはなった。

しかし,なぜ旧を越えたのか。その意味は,3月の鬼峠フォーラムから半年ほどたったいま,ようやく理解できたきたような気がする。

4月のスローフードしむかっぷ設立総会のプレゼンテーションで,山本さんは「死者との対話」という言葉で鬼峠フォーラムを表現されていた。その「死者との対話」は,旧の鬼峠でなければ成り立たなかったということなのではないだろうか。

それでは,この地に住む人たちにとって,「死者との対話」とは何を意味するのだろうか。このことについては,更に考えてみたいと思う。

いずれにしても,新の鬼峠も,細谷隊長が「すべてが違う」とおっしゃっているように,まだまだ解明できていない部分が多いので,もっとじっくりと歩いてみる必要があると思う。今回歩いた金山峠も,細谷隊長によれば,正確には違うのだという。歩く道,馬車の道,自動車の道それぞれが違うのだという。これは,GPSと地図を照らし合わせて結論の出ることではない。永遠に答えの出ない問題であろう。永遠に答えの出ないことに,毎年挑戦できるというのは,何とも贅沢なことであろうか。


鬼峠フォーラム2013開催報告 完