[ 館内ご案内 ] [ 地 図 ] ニニウのこれから 北海観光節

廃屋

戦後日本は所得倍増,高度成長,民族大移動,巨大開発,列島改造,食料自給率低下,円高など激動の時代であった。統計によれば,1960年には3400万人いた日本の農家人口は1995年には1500万人となった。

ただ日本全体でみると,農家戸数の変化はそれほどではない。在家離農,兼業化が主だった。

これが北海道の場合,離農といえばほとんど挙家離農であった。
それでも生産力のある土地では,離農跡地は農業規模拡大の競争の中で生き残った農家に所得されて耕作は続けられた。

ニニウでは…

挙家離農,そして規模拡大して生き残る農家もなく,部落まるごと日本農業の影の中に消えていった。戦後開拓地はそれまでみむきもされなかった条件の悪い土地に農業経験のない人が多く入ったものであるから,部落消滅したところは多い。しかし,ニニウのような古い部落が雲散消滅したのということはまったく悲愴な出来事である。


1998.10撮影

1999.6撮影
ニニウでも最も遅くまで営農が続けられていたと見られる農家。写真は,道路側と畑側から撮影したもの。

●資本主義から阻害されたニニウ

 北海道は日本資本主義の内国殖民地であった。内地でも外地でもないということはそういうことである。したがって開拓政策上農産物は資本主義的商品作物を主体としていた。開拓政策は資本主義を前提としながら,ニニウは資本主義から阻害されていたということに悲劇の一因がある。

○資本主義商品作物を作りながら,交通困難のため流通・市場ルートを持ち得なかった
○ゆえ,商品価値の低い作物,ないしは自給的作物中心となった
○供給農産物の商品価値は低くなる反面,日常品・生産費は逆に高くなる,結果ますます貧困になった

「半農半労」という形態

 こういった状況の中でニニウでの生活を何とか可能にしてくれたのは豊富な森林資源で,「半農半労」という形態が定着していた。一世帯あたりの収入は,農業収入38%,農業外収入62%であった。しかし,この冬山造材による赤字補充の途があるということはさらに何重にもニニウを資本主義から阻害することにもなった。それは,

○主業である農業に熱心になる暇を与えない
○独占資本に直接搾取される労働者として危険な長重労働にもかかわらず低賃金な働かされたこと
○給料から不当に高い飯場代を天引く飯場形式
2階建ての廃屋。戦前の建築と見られるが,造りはしっかりしていて結構立派である。農家の建物でも,石狩平野や上川盆地にある農家の本家などは,今のまちの戸建住宅よりもずっと立派で格式高いものだった(旭川米飯の養蚕民家などを見てほしい)。しかし,ニニウではこんな一軒家も立派に見えてしまう。少なくとも北の国からで五郎さんが最初に住んだ廃屋よりも立派である。

●工業化に翻弄されて

 北海道は明治維新の変換過程における矛盾の緩和,ついで内地共同体から放出された移民のはけ口としての中央的要請,国家政策ないし中央資本の場から開拓が進められる内国殖民地としての役割を担わされてきた。これはまた,中央の必要如何によっては,道民事情や道民の問題とかかわりなしに開拓政策が変更されることを意味する。

 国内の人口問題,食糧問題,エネルギー問題を引き受けた北海道には華やかな面も確かにあった。炭鉱地帯は豊かだったし,都会はハイカラだった。しかし,都市を一歩離れた農村には伝統の恵みがなかった。
 それでも戦後数年には多くの僻地にまで電化は行き渡った。ニニウも多少遅れながら昭和41年には電化している。しかし,それも束の間だった。戦後,開拓入植が奨励され,高く混同農業が奨励されていくばくもなく,農民の3分の2削減・貿易自由化は必然だと政治で打ち出される。

 日本の農業政策は非常にお粗末だといわれるが,何もしないことが政策でもあった。工業化を推し進めるにあたっては大量の労働力が必要となる。労働力は農民から取ってこなければならない。そのためには,まともな政策を立てて農家を豊かにしておいてはいけないのである。ゆえ,農家を続けている限り貧困からは逃れられない。

 3,4年に1回は忘れずに来る冷害,押しよせる大型機械化農業の波,貿易の自由化によって実質的に下落してくる農産物価格,都市との間でますます開いてくる生活格差,ニニウにとって最後の命綱だった林業も輸入材に押されて衰退しているのはご承知のとおりである。農民は借金にあえいだ。

 ニニウの廃屋が貴重なのは,明治の開拓農家の生活様式を今に伝えているからである。ニニウは昭和30年代まで電気もなく,冬季には完全な孤島と化し,保存食が頼りとなる開拓当初の生活が続けられていた。電化など文明化に伴い住様式は変容し,建物のつくりも異なってくるが,ニニウの廃屋は開拓当初の住様式を伝えている。村が廃屋をニニウ自然の国の要素の一つとして認識していたため,保存状態がよいのも特徴である。
 私が現地で確認したのは上の写真にある5棟ですべてである。しかし,まだ他にも残存する気配があるので見つけられた場合には教えてほしい。なお,昭和60年の訪問時と比べて廃屋の件数が減っているのは確かである。また,1993年刊の写真集「占冠の四季」と比較しても,痛みが激しくなっている。早急な保存が必要である。
 歴史的に見ても農家は保存されない。1000年前の社寺は国宝となってたくさんあるが,農家は残っていない。どのようなものであったかもわかっていないありさまである。北海道においても,アイヌのチセ,開拓農家,炭鉱住宅など,消えようとしている庶民の歴史が多くある。北海道には歴史がないといわれるが,ニニウにしても炭鉱にしてもこの100年の栄枯盛衰は立派な歴史である。文化財認定など実際に保護活動にかかわる人は年配者が多く,戦後の物件は彼らにとってまだ新しくありふれものでた,価値を感じないようだが,ニニウの廃屋などは今残さなければ次世代に語り継ぐことができないものである。

 さて,これまでニニウの暗い面ばかり書きすぎてしまった。もしこういう現実だけだとしたらニニウはここまで記録されるものとはならなかったのではないか。少なくとも戦後までニニウには立派な部落の歴史があったのである。

 ニニウの悲劇が中央の政策に翻弄された結果だと見るのはやはり,中央からの見方であって,ニニウの人々はそんなことは考えていなかっただろう。まじめに働けば食べることはできたのである。生活費も安く済む。テレビもラジオも新聞もないから都会との格差をそれほど感じることもなかっただろう。

 太平洋戦争後の労働力不足の時代には1日馬を連れて働くと米1俵買うだけの金がとれた時代もあり,昭和24年ごろまで続いている。その頃は占冠中央市街に行ってもニニウから来たと言えば飲食店でも「もてかた」が違ったという。


 いくら貧しくても,農民にはこの国を支えているのは俺たちだ,という誇りがある。今の都市の人間は自分たちの食料がどこから来ているのか考えてみもしないようだが,ここで都市の生活は農村を基盤として成り立っていることに気付いてほしい。そして,誇りを持って作物を作っている農民に敬意を持ちたい。

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