過去のページetc. 富良野・美瑛特集(廃止)>モデルコース・上級者編
上級者ならば富良野へのアクセスには当然道道70号芦別美瑛線を使うであろう。道道70号が道道581号留辺蘂上富良野線に合流する地点から旅を始めることにする。
道道交点を上富良野側に曲がる。4km進んで右折。
道道759号奈江富良野線は2003年6月に新道が開通し全線舗装となったが,カラマツ林を行く旧道は大変美しいものであった。
急勾配の砂利道を下りきると新道に合流し,奈江の集落に入る。奈江は四方を険しい山に囲まれた谷底にある畑作地帯である。いまでこそ立派な舗装道路が通じているが,昔は農作物の出荷も容易ではなかっただろう。
奈江では小学校の旧校舎が奥田修一氏の個人美術館「富良野風景画館」になっている。見たことがなければ入館してみよう。
上富良野から札幌方面へは奈江を通るのが近道である。年に1,2回は札幌の方へ行く機会があったから,子どものころから奈江は何度も通った。その昔,私の家のお客さんに奈江の人がおり,なかなかお金を払ってもらえず,祖母は集金のために奈江まで何度も歩いてかよったという。祖母は1990年に亡くなったが,遺品の中に古びたバッグがあり,父らは「このバックを持って奈江まで通ったものだ」と苦労を偲んでいた。
道道759号をそのまま中富良野方面に進む。山を越えて道道851号との交点のT字路を左折する。
4kmほど進むと新田中の部落がある。シブケウシ川の最上流部に位置し,メロンなどが作付けされている畑作地帯である。旧新田中小学校の木造校舎が民宿「いもやらだいこん」になっている。校舎の前には広い駐車場もあるので一息つくのも良いだろう。
道道851号上富良野中富良野線を初めて通ったのは昭和58年,私が小学1年の頃だった思う。その頃はまだ道路が砂利道で,新田中小学校も現役だったのではないかと思う。父が小学校のことを教えてくれたが,私は聞き違えて「ちんたらっか小学校」だと思っていた。
旧新田中小から約700m直進,右折する。道なりに進み直角カーブを右折すると,突如視界が開ける。
上富良野八景の一つ。丘の上から富良野平原へ一直線の道路が延び,正面の十勝岳連峰が絶景である。
さて,絶景を目に焼き付けたら,坂を下ろう。行き着くところまで滑り降りてしまいたいところだが,上級者はそこをぐっとこらえてブレーキを踏み,500m先で左折する。
この辺は私の家からも近いので自転車でよく来ていた。この坂を自転車で下るのは爽快である。一気に下るのはもったいないので,ブレーキを踏み踏み少しずつ降りた。
しばらく道なりに進むと左手に神社が見えてくる。
上富良野の南西部に大きな面積を占める島津農場は北海道の開拓期に全道各地で見られた地主制農場の一つであり,明治31年に創設された。島津というのは旧鹿児島藩主島津家の島津である。神社は明治33年の創祀であるが,昭和58年に道路工事のため移転新築された。心清らかに参拝し,これからの道中安全を祈願しよう。
私が初めて島津神社を訪れたのは昭和59年,小学2年の遠足のときで,自分の町にもこんなにきれいな神社があることを知って驚いた。その後も,妹が保育園児だった頃には自転車の後ろに乗せてこのあたりをよく通った。
道なりに進むと,富良野川にかかる上富良野橋,通称・涙橋のたもとに出る。大正15年の十勝岳噴火は上富良野町内だけで137名の死者行方不明者を出した。涙橋の名は当時の悲しいエピソードに由来するものである。一説に,この橋に引っかかった流木によって泥流がせき止められ,そのためここで死体が多く上がったからだという。現在も当時を偲び,町内のお寺で葬式を挙げた場合には,霊柩車は遠回りになっても必ず涙橋を通って火葬場へ向かって行く。
涙橋は渡らずに,橋の反対側の坂を登る。この道は「北の国から」の一場面に使われたことがある。右前方に観音様が見えてくる。神社にお参りしたので,観音様にもお参りしておこう。国道の交差点を過ぎたところに入り口がある。
芦別のように観音像の中にエレベーターがあって展望台になっているわけではないが,ここからの眺めは大変に素晴らしい。元町長の和田松ヱ門氏が発起人となって建立したもので,特定の宗派に基づくものではない。建てられたのは昭和59年で,ある日の朝,西の山を見ると突然観音像が現われたのには驚いた。夜中にトレーラーで運ばれ,一夜のうちに建てられたという噂である。また,1994年には「観音様を洗ってやってもらえませんか,その足しにしてやってください」というメモとともに賽銭箱に100万円が入っていたこともあった。
さて,ここまで来たらお墓にも寄っておこう。道道にいったん戻り,すぐに右折,次の十字路を左折する。
町内でも最も眺めの良いこのあたりには近年,土の館や富良野ホップストーアスホテルなど観光施設ができたが,昔からあるのはお墓だけである。これだけ良い場所にあればご先祖様も浮かばれると思う。
もう一度,道道581号に戻る。土の館を見たことがなければ入館しても良いだろう。道道を道なりに進むと,エバナマエホロカンベツ川の谷の十字路に出るのでそこを直進。
左手に江花小学校の跡地を見ながら坂をぐいぐいと登る。右にカープを切り,左にカープを切り,切り通しを過ぎたところで右に入る。そしてすぐ左手の砂利道に入る。これが旧千望峠である。今は江花中央道路という町道になっているが,道路沿いには農家があり,旧街道であることを偲ばせる。道の真ん中には草が生えているが,かまわずに進む。かつて道道だっただけあって立派な標識が立っており,頂上には「千望峠」の看板もある。ここはちょうど千望峠パーキングの上にあたり,北海道関連のパンフレットによく登場する有名な景色を望むことができる。
私がこの千望峠旧道を初めて通ったのは中学2年の遠足のときだった。遠足はオリエンテーリング形式で,地図が与えられて途中で問題を解きながら進むものだった。ところがその地図は古いもので千望峠は旧道しか描かれてなかったのだ。そんなことは気にせず素直に新道を通ればよいことはわかっていたが,私はそういう古い地図を精査することなくオリエンテーリングに使用するという先生方の安直な姿勢を不満に思い,私のグループだけは他のグループと分かれて忠実に旧道を通った。しかし,その行動は先生方には理解してもらえなかった。学校の先生たる人がなぜそのようなこともわからなかったのかと,いまでも情けなく思う。
現ルートに合流して1km直進,右に入る。
1.5車線の舗装道路で,ジェットコースターの路ほどではないが,丘の眺めが素晴らしい。
次の十字路を左折,約700m先のY字路を右に進む。
このあたりでちょっと車のエンジンを止めてみよう。鳥や虫の声が聞こえてくるはずだ。まわりは広葉樹が多く,町内でも特に自然度が高い地域である。それでも戦後しばらくまではこのあたりにも何軒もの農家があったというのだから信じられない。
江幌貯水池への道はほとんど廃道である。しかし,多少車の腹や側面に草があたるのを気にしなければまったく問題なく進める。対向車との行き違いは不能だが,対向車が来る可能性は皆無である。この先の行程で,これ以上に険しい道はないので,ここを通過できればあとは楽勝である。
江幌貯水池は大正15年の十勝岳噴火による山麓の保水力低下を補うために建設されてもので,昭和7年に完成した。長い年月を経て周りの自然にもなじみ,鏡のように静かな水面に映る木々が美しい。
知らない道を走る場合「道に草が生えてきたら引き返せ」が鉄則である。しかし私の父は行くところまで行かなければ気がすまない性格のようで,草の生えた道をそのまま進んで,結局,道が消えていたり橋が落ちていたりして引き返すことが多々あった。引き返すのも転回できる場所があればよいが,なければバックで戻ることになる。私は子供のころそれが非常に嫌だった。しかし,道の草がだんだん激しくなってきて,これは絶対通り抜けできないと思っていたのもかかわらず,通り抜けできた例がただ1つあ。それがこの江幌貯水池の道である。小学6年の頃のことだ。
道がだんだん開けてくると,通称プロヴァンスの道にあたる。ここを左折し,200m先で右折する。この道を「養老道路」という。さらにT字路にあたるので左折する。今度の道は北28号から連なる道路で,江幌街道とでもいうべき幹線道路である。右手に江幌神社,江幌小学校をみつつ直進,ジェットコースターの路の谷の部分を突っ切る。ジェットコースターの路の交差点から約2km進んで左折する。
これまでトラシエホロカンベツ川に沿って緩やかな谷をさかのぼってきたわけだが,実は川も道路と一緒に向きを反転させて,開拓川と別名を名乗るようになる。この1km西には二股川が北流しており,したがって3本の平行する川が互い違いの向きに流れていることになる。複雑な丘陵地帯ゆえの珍現象である。エホロカンベツとは「頭が後戻りしている川」という意味だそうだ。
このあたりは静修という地区で,上富良野の最奥部にあたり,東京大空襲の罹災者などによる戦後開拓が行われたところだ。16戸が入植したというが,昭和63年までに全戸が離農して現在は廃屋もなくなり,そのような歴史を偲ばせる何物も残っていない。
川に沿って車を進めていくとどんどん標高を上げていき,さっきはジェットコースターの路の底の部分を通過したのに,いつの間にかいちばん上に出てしまう。まさに天然の大ループである。
開拓川を渡り,ループ線最後の登りにかかる。徐々に道路の先から十勝峰がせり上がり,頂上に至ると急転直下,道路は真っ逆さまに盆地へ向けて落ちて行く。エイヤーと車が転がり落ちるのにまかせてジャンプしてみたいところだが,ここはぐっとこらえて青看板で左折する。
さて,本家ジェットコースターの路である。この道路はフラヌ原野西11線道路で,北28号から国道までの約4kmが激しいアップダウンの繰り返しとなっている。1999年に選定された上富良野八景の一つで,近年になって知られるようになったものだが,現在では観光バスも通る人気道路になっている。たしかに北海道でもこれほど劇的な上り下りがある道路はないだろう。かつてこのあたりはもっと急峻な波状丘陵だったが,表土の流出やトラクターが入れないなどの問題のため農地改良が行われ,いくぶんなだらかになっている。
上富良野,美瑛の波状丘陵が世間に知られるようなったのは,写真家の前田真三氏が昭和62年に拓真館を開設し,人々が丘の美しさに気づいたからであるが,それまで丘が注目されなかったのには道路が悪かったという事情もある。そのころ開拓から80年が経ち,丘陵地帯では頂部の表土が流出して生産力が極端に低下していた。また急な斜面では農作業を機械化することもできなかった。そこで,昭和60年頃から丘をなだらかにして表土を回復させる農地改良事業が盛んに行われてきた。これに伴って,丘陵部にも立派な舗装道路が整備されたのである。一方で,開拓農家の廃屋や,自然のままの丘の景色など失われたものも多く,景色としては改良前ほうが美しかったと思う。
ジェットコースターの路をそのまま進むと国道に出てしまうので,国道の少し手前で右手に見えてくる旧里仁小で折り返そう。
里仁(りじん)というのは変わった響きの地名であるが,上富良野町の北端部に位置し,深山峠やかんのファームなども里仁に含まれる。里仁小は昭和48年3月に閉校したが,旧校舎の一部が地区会館として使われているため周辺はきれいに整備されている。グランドの一角は里仁寿会による「句の里」となっており,休憩のための東屋なども設置されている。
里仁小からジェットコースターの路を700m引き返し,左前方に曲がる。北30号川に沿って緩やかなカーブを描きながら進むこの道は交通量が少なく快走できる。4kmほど走ると国道に出るので,富良野方面に曲がる。
ちょうど深山峠の登り口であるが,祖父は子供の頃この坂でスキーをしたそうである。ストックがピーと鳴くほど勢いが出たという。大正時代末頃の話しである。
今日の旅はなるべく国道を通らないことにしているので,400m走って左折し,北30号道路に入る。
国道から左折するとすぐに踏み切りを渡るが,これが旧国道で,踏切を2回渡らなければならないことから,昭和35年に現路線に切り替えられた。
500m走って右折,西3線に入る。踏み切りの前で車を駐車しよう。左手に富良野平原開拓発祥の地の碑が見えている。
フラヌ原野は北海道でも最も内陸部にあり,交通路が未整備であったため,道庁は殖民地解放を遅らせていたが,道内最後の有望な未開地として期待されるところは大きく,明治30年に出願受付が開始されると2週間で定員に達したという。フラヌ原野への最初の移民は三重団体であり,戸長役場も上富良野に置かれた。開拓の初期において上富良野の開拓が早くに進んだのは,中富良野には泥炭地があり,下富良野は学田地で占められていたからである。
富良野平原開拓発祥の地は三重団体の一行が富良野盆地に分け入って最初に腰を下ろした場所に建っている。
三重県は板垣贇夫を団長として明治20年代後半以降二百数十戸の北海道移民を送りこんでおり,上富良野の三重団体も道内にいくつかある入植地の一つである。上富良野の三重団体のリーダーを務めたのは田中常次郎で,彼は明治29年に家族に無断で渡道し,幌向の板垣団長を訪ねて2戸分の土地をもらうことにして帰国した。ところが帰国後土産話が噂を呼び,我も移住したいと願うものが35戸に及び,再び渡道,道庁から富良野原野の貸付を得たのである。それを帰国報告するとさらに移住希望者が殺到し,3度目の渡道を行って150戸分の貸付を受けたという。この移住希望者の中には私の家も含まれていた。
一行は明治30年3月28日四日市港を出航,途中横浜港で貨物船に乗り換え,4月3日に小樽港に着いた。小樽からは無蓋貨車で歌志内に至り,赤平の平岸に向かった。平岸には明治28年に三重団体が入地しており,ここで雪融けを待ちながら入地の準備をすることにした。その後,4月12日に田中常次郎と7人の組長による調査隊がフラヌ原野に到達した。フラヌ原野はもともとカヤやススキの原野で樹木の少ない土地だったというが,その中に1本の楡の木があり,この木の下で休息をとり将来を誓い合ったのである。これが富良野平原開拓発祥の地である。楡の木はその後枯れてしまったが昭和21年に「憩いの楡記念碑」が建てられた。上富良野町郷土館には憩いの楡の模型が展示してある。
踏切を渡ると信号のある交差点が見えてくる。ここまで1kmほどの区間が旧国道である。信号は渡らずに,上富良野市街方面に進む。右手の一段高くなったところに公共施設があるので,右折して入ってみよう。
昭和63年の十勝岳噴火を契機として建設された避難施設で,平成2年に完成した。防災センターは砂防ダムに溜まった土砂を利用して盛土された上に建てられている。敷地内にはパークゴルフ場とラベンダー畑があり,どこだかの有名な庭園を模したデザインになっているという。訪れる人もまれな寂しい公園だが,一人のお爺さんが開設以来ずっと手入れを行っている。ここのラベンダー畑は開花時期が他のラベンダー畑と若干ずれるようで,ハイヤーの運転手さんなどは穴場のラベンダー園として紹介しているらしい。
今度は国道をはさんで向かい側の開拓記念館に入ってみよう。
上富良野には2度の開拓の歴史があるといわれる。最初は明治30年の三重団体による開拓。しかし,開拓から30年後,大正15年の十勝岳爆発による泥流の直撃を受け,血と汗で切り開いた田畑は壊滅した。ここからが2度目の開拓で,専門家からも上富良野村放棄やむなしとの声があがりながらも三重団体出身の村長吉田貞次郎は復興反対派を押し切り,みごと復興させたのである。開拓記念館は旧吉田貞次郎邸を移築し,1998年に開館した。開拓の歴史や災害の様子がビデオにまとめられているので見てみよう。
大正15年5月24日午後4時17分,十勝岳が噴火した。泥流は河口付近の残雪を融かして,時速60kmで富良野川を流下した。その先端はものすごい高さで,とんぼ返りする流木の上から泥水があふれて,滝のように流下した。驚くほどの大木が,全く草が流れるような状況に見え,泥流の過ぎた沢の上には,折からの雨曇りの空に水蒸気のようなものが立ち昇って,流木の激動がはね飛ばす水,泥しぶきと相まって昼もなお暗いほどだったという。しかもその音響は大地をゆすり,天にとどろくほど。日新の沢を過ぎて盆地に入ると,泥流は扇状に広がり,三重団体の農耕地を一瞬にして壊滅させた。この泥流により,上富良野村では137名の死者・行方不明者を出している。夕刻で人々がまだ外に出て活動している時間だったため,この程度の被害で済んだとも言われる。祖父は丸一山に逃げ込んで難を逃れた。私の家も畑を失い,しばらく上士幌の牧場に仮住まいすることになったのである。
開拓記念館の隣には草分神社があり,境内に泥流地帯の碑が建っている。草分はその名のとおり,開拓発祥の地であり,三重団体の入植地であるとともに,大正泥流の直撃を受けた土地でもあった。三浦綾子の『泥流地帯』は昭和51年以降北海道新聞の日曜版に連載され,昭和52年に『泥流地帯』が,同54年に『続泥流地帯』が新潮社から刊行された。この小説では,なぜ勤勉な農民が災害に遭わなければならないのかということと,吉田村長による反対派を押し切っての復興が大きなテーマとなっており,三重団体ゆかりの草分神社に昭和59年に記念碑が建立された。
上富良野の三重団体のリーダーだった田中常次郎は大正4年に58歳で死去し,翌年田中常次郎頌功碑が建立され。下はそのときの記念写真である。三重団体の開拓一世の人たちが碑の前に並んでおり,私の高祖父(祖父の祖父)も写っている。右の写真は同じ碑の現在の様子だが,泥流に埋まってしまったためか,左の写真よりも碑の高さが低く見える。この碑は泥流地帯の碑の隣に建っている。
再び上富良野市街方面に車を進める。この道路は昭和63年に上富良野バイパスが開通するまでは国道だった道である。まもなく富良野川を渡り,すぐに左折。道道353号美沢上富良野線に入る。道道を2kmほど進むと左手に駐車公園がある。
この駐車公園のトイレの何が謎なのかは実際に訪れて考えてみてほしい。
トイレの横には泥流で流されてきた巨岩が展示されている。下の左の写真は噴火直後のもので,現在は右のように岩の上に碑が建っている。
さらに1km進み「鰍の沢道路」の看板を左折する。
昭和63年の噴火のとき,鰍(かじか)の沢は危ないとか,鱒の沢は大丈夫とかいう話しを聞いた。町内にそういう名前の沢があるということをそのとき初めて知った。鰍の沢は狭い谷底に農家が点々と続き,桃源郷のような美しい農村である。
1km進んで左折し,砂利道に入る。1km先の分岐を左,さらに200m先の分岐を左折すると富良野平原広域農道の直角カーブに出る。
中学生の頃であったろうか,家族で旭川に買物へ行こうとしていたとき,冬道でこのカーブを曲がり切れずに道路脇に転落したことがある。父は運転が無謀なので,旅行中に道にはまってクレーンで引っ張ってもらったことが2回あったが,転落したのはこれが唯一である。このカープは以前は本当に直角だったのだが,その後改良されてゆるいカーブになっている。
美瑛方面に3km走り,左の砂利道に入る。踏切を渡ってすぐの分岐を右折し,急勾配のΩカーブで深山峠へ登る。国道に出る少し手前にノースランドギャラリーがある。
北海道新聞社刊『富良野・美瑛 丘をめぐる旅』の著者である高橋真澄氏のギャラリー。大変眺めの良いところに建っている。写真集や絵葉書も販売しているので,気に入ったものを購入しよう。
国道に出て1kmほど上富良野方面に進むと左手に小公園が見えてくるので,入ってみよう。
国道沿いにありながらほとんど訪れる人のいない霊場である。新四国八十八カ所霊場は明治44年に沿線の真言宗寺院により創設されたもので,第一番の富良野寺から第88番の旭川市金峰寺に至るまで道路沿いに石仏が安置された。巡拝には徒歩で1週間を要したというが,戦後は巡拝者も少なくなり,土地所有者の変更,離農などにより石仏を維持するのが困難になった。そこで昭和48年に深山峠付近の4kmの区間に88体の石仏が集められたのだが,またもや河川改修や観光開発で移転を余儀なくされ,平成3年に当地に集結されたのである。新四国八十八カ所本来の意味は失われてしまったが,誰にも顧みられることなく放置されるよりは,こうして一堂に集められたほうがよいだろうか。石仏は富山県で掘られたもので,案内板には仏様の詳しい由来が書かれている。また敷地内には六角堂があり,お札に祈願を書いて壁に貼り付けることができる。
新四国八十八カ所のあるところはまた深山峠さくら園という名所でもある。規模は大きくないが,桜の木の向こうに残雪の十勝岳連峰を望み,眼下には報徳道路がS字を描いて里へ降りていく。あまり知られていないが,非常に絵になる景色である。
国道を富良野方面に進み,すぐに左折する。
昭和60年に整備され,いまも舗装されることなく,木々の中をカーブを描きながら里に下りていく美しい道である。
草分報徳地区には私の家の分家がある。曽祖父の弟が大正の中頃に独立したもので,この場所は大正泥流の難から逃れた。富良野川に近かった私の家は畑も家屋も壊滅し,その日はこの分家のお世話になり,20人余りが頭を並べて夜を明かしたという。曽祖父の弟は昭和55年まで存命であり,『泥流地帯』執筆の際には三浦綾子氏と書簡を交わしている。それゆえ『泥流地帯』を読むと自分の家の歴史が書かれているように感じるのである。
砂利道を道なりに進み,舗装道路に合流して踏み切りを渡る。すぐに左折しまた砂利道を進む。富良野平原広域農道の合流点で左折。左手には富良野線が並走しておりSLが運転されるときなどには,この道路にカメラマンがずらりと並ぶ。
右に大きくカープを切って坂を上がると美瑛町に入る。