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富良野美瑛八十八ヶ所巡り (2) 美瑛町

富良野平原広域農道の思い出

いま通っている道は,上富良野〜美瑛の裏道として地元の人達に利用されている道路である。全線舗装になったのは平成になってからだと思う。私は上富良野から旭川の高校に通っていたが,列車の発車時刻は6時24分と早く,恥ずかしながら乗り遅れたことが多々あった。言い訳ではあるが,私はその頃一人で畑を作っており,特に春の苗立ての時期には,朝の天気を見て水加減など調節してやらないと苗が一日で壊滅してしまうのである。列車に乗り遅れた場合,美瑛始発6時59分の2番列車に乗れば間に合うので,親に車で美瑛駅まで送ってもらった。そのときこの富良野平原広域農道を通るのであるが,この道は通るたびごとに表情を変え,何度通っても飽きることがなく,時には雨上がりに朝日が照らされて畑からもうもうと湯気が立ち上るなど,幻想的な光景を目にすることもあった。

直線の坂を登ると高原の十字路があり,左に美馬牛小学校を望む。この十字路を右折する。2km進むと左手に新星館がある。

25.新星館

2001年にできた新しい名所だが,観光コースから外れるため訪れる人は少ない。須田剋太の絵画と人間国宝・島岡達三の陶器を展示。建物は新潟の旧家を移築したもので,建物の立派さは富良野美瑛でも随一。眺めの良い丘にあり,羊蹄山と有珠山の岩が十勝岳に向かってそびえている。こんな一流の美術館がなぜ美瑛にあるのかと思うが,館長が「景色が良いから」という理由だけでここに建ててしまったのだとか。

新星館を過ぎ,次の道路を左折,その次の交差点を右折。道道美沢美馬牛線を快調に進む。4km走って左後方に曲がる。ここからの山越えは1kmほどのダート。2車線幅あって走りやすい。

舗装道路に出たところで左折。周辺にはペンションやカフェがあり,しかも結構繁盛している。みんなよく調べて来るものだ。次の十字路を左折,突き当りを右折。右手に哲学の木が見える。

26.哲学の木

さまざまな名前がつけられた木の中で,最も上級者にふさわしいのはこの哲学の木だろう。木も頭を傾けて何か考え事をしているかのようである。

1.5kmほど道なりに進み,拓真館の喧騒を避けるようにして左折。ここからの道はパノラマーロードと呼ばれる拓真館周辺の一帯の中でも特に景色が良く,歩行者も多いので運転には注意。次の交差点を左折。

27.美瑛万華鏡館華曼陀羅

上級者ならばここに寄らない手はない。廃屋を利用したギャラリーで万華鏡を展示販売。2003年には遊牧民のパオを利用した別棟ができて,中には怪しげな万華鏡もある。

いま来た道をいったん引き返し,しばらく道なりに進む。右へカーブして坂を下ると十字路に出るので左折する。

途中踏切を渡るが,この踏み切りから美馬牛方面を見ると,線路がジェットコースターのように見える。勾配は28.6‰でJR北海道の路線としては最も急な勾配である。この踏切は通称「カムリの踏切」と呼ばれており,ノロッコ号の通過時にはカメラマンが何人も集まるほどの撮影名所である。この線路は高校時代の汽車通学で何百往復もしたが,このあたりは目をつぶっていてもどこを走っているのかわかった。

踏切から1km進んで左折。突き当りを右折。左手にクリスマスツリーの木がある。

28.クリスマスツリーの木

観光コースから外れているため訪れる人は少ないが,夕日の名所であり,日の入り時刻になると続々カメラマンが集結する。

そのまま進むと間もなく国道に出る。ここからは不本意ではあるが,国道をしばらく進む。2km先にルベシベ入口の看板がある。

29.ルベシベ入口

この看板は昔からあった。よくある青看板ではなく,低い位置に独特の看板が掲げられているのだ。私は物心ついたときからずっとこの看板が気になっていた。近年までこの先の道は細い砂利道で,この山を越えたところには何があるのだろうと不思議に思っていた。そしてようやく最近になってルベシベを訪れることができたのである。

しばらく道なりに走る。

30.ルベシベ地区案内板

瑠辺蘂の中心部に集落センターと保育所があり,この看板が建っている。年季が入っていそうに見えるが実は新しく,1998年に製作されたもの。パフィーの木もしっかりと載っている。瑠辺蘂は地図を見ると第一線,第二線・・・,一番通,二番通・・・と独特の区画が敷かれており,集落もルベシベ第1,ルベシベ第2と妙な名付け方がされている。これはこの地がかつて御料地であったことに由来する。大正元年に帝室林野局より貸付を受けて182戸が入植したほか,戦後開拓も行われたようである。

交差点を右折し西美小の横を通って北へ向かう。左手にパフィーの木があるが,この後もう一度瑠辺蘂に戻ってくるので,そのときにじっくり見ることにする。

31.ルベシベ中央農免道路

この道路は農免道路として立派な道に整備されている。尾根を走るので丘の景色が素晴らしい。ところで農免道路とは何なのだろうか。「農業者免許」というものがあって,原則その免許を持っている人しか通ることができない道なのだろうか。あるいは,自動車免許とは別に農家の人なら誰でももらえる「農業用自動車免許」というものがあって,その免許を持っていれば普通自動車免許がなくても通ってよい道なのだろうか。答えはそのどちらでもなくて,"農"業者から揮発油税を"免"除するという意味なのだそうだ。つまり,農業者がスタンドガソリンを入れると一般の人と同じように揮発油税を含めて支払うことになるが,農業者に対してはガソリンは必要経費であるとして揮発油税を免除しているので,浮いたお金で道路を作っているわけだ。

ルベシベ第3から急カーブで坂を下る。道路には蛇行したタイヤの跡が多数ついており,夜は走り屋の溜まり場になっているようだ。

谷底の道を進み,やや開けたところでT字路に出るので左折する。ここから砂利道になる。まもなく道道美馬牛神楽線にあたるので左折,そしてすぐ右前方の舗装道路に入る。再び急カーブ急勾配で坂を登るが,やはり走り屋が多いようだ。坂を登りきると高原の十字路に出る。ここからの眺めは素晴らしい。十字路を直進,国道453号にあたるので左折する。

32.五稜小学校

国道を進むと間もなく左手に五稜小学校が見える。小さな橋を渡って小学校の敷地に入る。美瑛には小学校が14もあるが五稜小はその中でもいちばん奥地にある学校である。しかし明るい雰囲気で,木々に囲まれたグランドは気持ちが良い。平日は授業の邪魔にならないように散策を。

五稜小学校校歌

斧を振って 郷土を拓き 畑を拡げて 酪農すすむ

五稜の峯々 朝日に映える われらの学校 五稜小

国道をさらに奥へと進む。

33.国道終点

2車線の立派な道が続くが,いきなりゲートにぶつかる。国道453号はこの先芦別市を経て夕張市に至る路線であるが,芦別までの区間は地質上の問題があり,開通の見込みは当分ないといわれる。

ゲートで引き返す。左に小公園があるので寄ってみる。

34.五稜神社

朽ちかけた鳥居の先に社殿がある。参道は木のトンネルのようになっており趣深い。神社の下には1996年に建てられた開拓記念碑がある。

 

五稜の戦後開拓について

五稜は明治以来宮内庁所管の御料林であったが,第二次世界大戦末期の東急大空襲の罹災者による拓北農兵隊や終戦後の樺太引揚者・復員軍人による戦後開拓者が入ったところである。昭和20年から29年にかけて東京,名古屋,大阪,満州,樺太などから254戸の入植者があった。
 第一次入植者は東京都南多摩郡の北海道集団帰農団26世帯で,昭和20年8月4日に上野駅を出発した。家財は貨車で先に送ったが,まだ大戦のさなか,途中空襲により灰燼に帰した。美瑛に到着してからそれを知った入植たちはただ茫然とするだけだった。それでも市街地の人たちの温情で食器をもらい,あばら家での暮らしを始めたが,まもなく秋風が吹き始め,子どもが郷里に出す手紙に「北海道は寒くて夜寝られません」と書いているのを見て,親も泣いたという。20日遅れて愛知県からの名古屋団体40世帯が到着,昭和22年春には樺太引揚者が入植した。

五稜のこと

私は子どもの頃,このあたりを通るのが嫌だった。同様に神楽の雨紛というところもどうしようもなく嫌だった。なぜ嫌に思ったのかそのころはわからなかったが,いまあらためて考えてみると両者とも戦後開拓地なのである。戦後開拓が行われた場所というのは同じ畑でも明治に開拓された豊穣な畑とは明らかに違った雰囲気で,何ともいえぬ鬱屈とした感じがある。私が子どもの頃は今より廃屋ももっと多かったはずだ。不幸な人生を送った人も多かったはずで,怨霊のようなものが子ども時代の敏感な感性には感じられたのかもしれない。

五稜神社の角を左に曲がる。

このあたりも往時には開拓農家が至るところに建っていたのだろうが,離農が始まって既に40年ほどたち,もうほとんど廃屋は残っていないのである。その中でも五稜第三部落には数件の廃屋が見られ,さながら廃屋銀座の趣がある。

 

35.五稜スカイロード*

この道をそのまま進むと,丘の上に出てとてつもなく気持ちの良い景色となる。このあたりは標高約350mで美瑛の丘を一望にでき,美瑛市街の向こうに十勝岳連峰を望むことができる。これぐらい引いて眺める連峰も良いものである。

道なりにしばらく走ると国道に出るので左折する。

この国道は美瑛川に沿っている。美瑛川は白金から美瑛市街を経て,こんなところを通って旭川に向かっているのだ。道路沿いには水田も見られるが耕作放棄された農地が目立ち,廃屋が続く。美瑛川を渡って最初の道を右折する。セブンスターの木などパッチワークの丘へはもう一本北側の道が主要アクセス道路となっており,この道は交通量が少ない。ひと気のない暗い谷を行き,気味の悪いところである。

看板にしたがって親子の木のほうへ曲がる。

36.親子の木

セブンスターの木,ケンとメリーの木と並ぶパッチワークの丘の3銘木であるが,こちらは駐車場やお土産屋がないため訪れる人は少ない。

突き当たりのT字路を右折する。このあたりは夕張という地区である。2km走って次の分岐を左折する。丘はところどころに林を残しつつ畑になっており,個性的な景色が続き飽きることがない。2km走って十字路を右折する。ここからしばらくはやや幅の狭い舗装道路となる。突き当りを左折,400m先で右折する。

37.マイルドセブンの丘

丘を上ると標高289.9kmの三角点があり,西側の眺めが良い。このあたりをマイルドセブンの丘というらしい。

三角点の250m先の十字路は右折,道なりに走ると美田川の筋に出る。

38.美田開拓公園

美田(みた)は五稜の入り口にあたり,学校や商店のある小集落である。

 

39.道道美馬牛神楽線

美田からは道道を行く。最初は立派な2車線の舗装道路であるが,やがて砂利道となり。「←美馬牛12km」の標識に従って左折する。この分岐は間違えやすいので注意。道の真ん中には草が生えており,まったく道道とは思えない道だ。そもそもなぜこの道路が道道に指定されているのかが不思議だが,この道路に沿って水準点が置かれているのはなおさら不思議だ。

やがて高原に出て視界が開ける。子どもの頃通ったときには,そんなに景色が良いという印象はなかったのだが,いまあらためて通ってみると素晴らしく景色が良いのである。いつも見ている景色というのは言われなければその良さに気がつかないものである。

周辺は畑だが人家はないのでこの道路は冬季通行止めになる。しかし戦後しばらくまでは開拓農家が多数見られたはずだ。この沿線にも美園小中学校,美開小中学校という2つの学校があったというから信じられない。

やがて道路は再び林の中に入り急カープで瑠辺蘂川の谷へ下っていく。この部分も道路付け替え工事が進められており,近いうちに立派な舗装道路になると思われる。どう見ても必要のない道路工事である。

道道美馬牛神楽線の思い出

この道は子供の頃から何回か通ったことがある。父が国道は飽きたと言ってこの道を好んで通ったのだ。しかし私はこの道がいちばん嫌だった。特に当時,美田から美瑛川の断崖を行く部分はガードレールもなく,対向車が来ればアワヤ崖の下へまっさかさまというような険道で,通るときにはいつも胃がキリキリしたものである。しかしこの箇所は近年立派な舗装道路に切り替えられてした。これはこれで残念である。

瑠辺蘂川を渡って1.5km進み左後方へ曲がる。1km走ると交差線の手前左手に木に囲まれた妙な空間があるのでのぞいてみよう。

40.地神宮

地神というのは土地の神様で,農作物の豊穣を祈願するものであった。もともとは四国の香川,徳島の両県人が郷土の習慣を持ってきたものとされ,北海道では両県人に限らず,農業を営むものは誰でも地神信仰を持ったという。富良野・美瑛は道内でも特に地神信仰が盛んな地域だったようで,美瑛については資料がないが,富良野沿線には100以上の地神があり,集落ごとに地神が見られるといっても過言ではない。しかしただ石が置いてあるだけなので観光的にはまったく地味な存在である。美瑛の丘は畑の中にぽつんと木が立っているのが印象的なのだが,その木は隣地との境界を示す役割を持っている場合もあるし,木の下にこういった地神が潜んでいることもある。

十字路をそのまま進むと右手に小さくパフィーの木が見えてくる。

41.パフィーの木

丘の上に3本の木が見えるが,左の並んで立っている2本の木がパフィーの木とされている。

適当なところで引き返し,先ほどの十字路を東へ曲がる。第5会館を過ぎたところで左折,北斗線を通って一度道道芦別美瑛線に出る。美瑛芦別線を美馬牛方面に500mほど進み左折。

42.ルベシベ街道*

北に向かってほぼまっすぐに延びるルベシベ第2線を行く。道道分岐から1kmほど進むと瑠辺蘂平和という集落に入る。ここは道路沿いに短い間隔で農家が点在しており,さながら街道の趣である。北海道は1戸あたりの農地が大きいので,農家の間隔は数百メートルあいているのが普通なので,このようなところは珍しい。しかし戦後しばらくまではいまよりずっと農家の密度が高かったはずだ。そういう意味でここは往時の農村の面影を残しているように思われる。

さらに1kmほど走ると先ほども通った集落センターの前の交差点に出るので右折。そのまま進むと美馬牛峠の信号で国道と交差するが,そのまま直進。しばらく道道美沢美馬牛線をたどる。美馬牛市街のT字路を左折,踏切を渡りY字路を左へ,道なりに坂を降りる。このあたりは景色がすばらしい。坂を降りたところのT字路を左折。道なりに1.5km走り,次のT字路を右折。500m進んで左折。道なりに1km直進T字路を右折。この先約2kmに渡って尾根道を行き,大パノラマが展開する。左に千代田の丘の展望塔が見えてくるので立ち寄ろう。

43.千代田の丘

1998年に整備された新しい展望台で,紹介しているガイドブックも少ないためあまり混まない。千代田ファームと十勝岳連峰を一望にする。

大きな道路に出て左折,さらにT字路を左折,1km走ると右手に水沢ダムが見えてくる。堰堤の部分に駐車スペースがあるので車を停めよう。

44.水沢ダム

小さなアースタームであるが,晴れた日には正面の十勝岳連峰が湖水に映り,写真家も好んで訪れるところである。もともとこの地区は旭川の第7師団の演習場だったところで,戦後復員軍人や,海外引揚者,戦災疎開者に払い下げられた。しかし土地の条件が悪かったため国営の事業として美瑛川上流から取水して灌漑を行うこととなった。水沢ダムは美瑛川下流域の水量を確保するための補償用として建設されたもので,昭和37年に完成している。

快適な舗装道路をしばらく道なりに走り,美瑛川を渡ったところで右折,次いで右にカーブを切ったところで左折。2km走ると右手に新区画ダムが見えてくる。左手の駐車場に駐車しよう。周りにはパークゴルフ場や美瑛ウェディングパレスがあり,のどかな雰囲気だ。

45.新区画ダム

新区画というのは地名である。ここも湖面に映る山が美しい。ダムは昭和49年に完成し,導水トンネルで山をいくつも越え,西神楽,東神楽地区の水田の灌漑用水に利用されている。

新区画ダムの北を走る道路をさらに直進。小さな十字路で左折する。ここからはダートだが改良工事が進んでいる。

非常に狭い沢に水田が拓かれ,農家が点々と続いている。ちょっと絵になる風景だ。このあたりは沼崎農場と明治農場により大正5年に開拓が始まったところ。

突き当たりを右折。

46.聖台ダム

周辺の農業用水の確保のために昭和12年に竣工している。付近は小公園になっており,美瑛随一の桜の名所としても知られている。

駐車場から北側の丘を登り,辺別川の筋に出る。道道との合流点で左折,美神橋を渡る。ここからわずか3kmではあるが旭川市の区域を走る。横牛橋を渡って美瑛町に戻る。

朗根内市街で道道と分かれて直進。

直線道路の両側に稲作農家が点々と続き,このあたりは比較的明るい農村である。9線橋を渡ると俵真布に入る。しばらく走ると右手に小学校があるので車をとめよう。

47.俵真布小学校

地名はパンケシュムケタロマプ(霧の多い,または霧の深い沢の意)に由来するといわれているが,趣深い響きである。大正2年より帝室林野局の貸下げを受けて入植が始まった。学校のあるあたりは下俵真布で,この先10kmに渡って農地が続いていた。しかし標高500mを越える上俵真布は立地条件が悪く,戦後緊急開拓者の入植をみたが,昭和40年には全戸離農した。

俵真布小学校は美瑛町でも最も豪華な校舎であるが,2003年度から休校している。校庭の片隅には「俵マップ」という子どもたちが描いた地図があり,名前に劣らず中身もなかなかしゃれている。

 

俵真布の思い出

大雪山系から美瑛に向かっては,美瑛川,置杵牛川,宇莫別川,辺別川の4本の川が流れており,それぞれ沢の底に農家が点々の張り付いている。俵真布はそのいちばん北の沢であるが,大叔母が俵真布に住んでいるので何度か来たことがある。私が小学5年のときのこと。たまたまこの大叔母の家を訪れていた大伯父が急に胸の痛みを訴えた。ともかく病院へ連れて行かなければならないが,大伯父は家の車に乗るのを拒み,救急車を呼んでくれと言った。しかしここは美瑛の市街から車で20分もかかるところである。すぐに家の車で病院へ向かえば20分で着くが,救急車は迎えに来るのにまず20分かかるから,病院まで倍の時間を要する。結局救急車で町立病院に着いたが,そのときにはもう手遅れだった。大動脈瘤破裂を起こしており,先生には「あとは祈るだけ」と言われた。大伯父は私の家にも毎週のように来ており,その少し前に「死んだら三途の川を渡って天国に行くとかみんな言うけど,俺は死んだら何もない真っ暗な世界だと思うぞ」と話していたので,印象深く覚えている。

学校から200mほど引き返し,左折する。

砂利道ではあるが,幅が広く大変気持ち良い道である。5kmほど走ると宇莫別の沢に出る。突き当たりを左折。

48.沢の村

このあたりは宇莫別という地区である。道路の両側にはかつて美田が続いていたのだろうが,耕作放棄されているところが多い。農家も点々と続くが,廃屋も多く,中には移住者が廃屋を買い取って住んでいるところもあるようである。近年この一帯を「沢の村」として売り出しており,工芸館や体験農場などがある。それらには黄地の共通したデザインの看板が立っている。

49.藤山

道路はさらに奥へと延びいてるが,ここに小さなロータリーがあって,終着駅のような雰囲気を漂わせるところである。来るべきところまで来たという感じだ。実際,美瑛駅前から出ていた国鉄バス藤山線の終点もここで,現在では美瑛町営バスが路線を引き継ぎ,バスがここで転回を行っている。

藤山のロータリーで右折,藤山橋を渡る。

50.2つの山越え

一つ山越え,もう一つ山を越え,美瑛川の谷に出る。まずは三井山越え。1.5車線〜2車線の幅の広い砂利道で,路面状態良好。ピクニック気分でさわやかなドライブが楽しめる。舗装道路に変わるとまもなく置杵牛川の谷に出る。ここも先ほどの宇莫別と同じような沢沿いに農家が続く集落だ。大きな道路に出たら右折,次の交差点で左折する。この交差点には立派な廃屋が建っている。橋を渡って右折。ここから2つ目の山越えである。先ほどと同様,1.5車線の走りやすいダートである。

道なりに進み,突き当たりを右折,日の出橋を渡って道道十勝岳温泉美瑛線・美沢に出る。

道道を白金温泉方面に曲がり,2.5km直進,右折し美沢美馬牛線に入る。

(3) 上富良野町東部へ