過去のページetc. 富良野・美瑛特集(廃止)>モデルコース・上級者編
道道美沢美馬牛線に入って1km,道道は右に曲がっていくところを,左の細い道に入り直進。1.5車線のダートを2kmほど進むと道道美沢上富良野線に出るので右折する。まもなく右手に名水スポットがある。
2002年頃に清富老人会が設置した名水。2つの蛇口から十勝岳の湧水が止まることなく流れ出している。
道道美沢上富良野線を上富良野方面に向かう。
まもなく清富の集落に入る。道道沿いには学校と神社と数戸の農家があるだけだが,学校前から南東に分岐する清富開拓の沢川に沿って農地が開けている。さらに奥には戦災者などによる戦後開拓者17戸が入ったが,昭和50年代までに全戸離農している。清富小学校は昭和40年代までは僻地4級に指定されていた。僻地4級というのは道内にいくつもないトップクラスの僻地であるが,これには地区に店がなかったという事情もあるだろう。市街からこれだけ離れたところで学校がありながら店が存在したことのない地区というのも珍しい。
この筋を流れるのはピリカ富良野川であるが,この川には十勝岳の泥流が流れ込む恐れはない。
まもなく左手に日新ダムが見えてくる。ダムサイトの部分に駐車スペースがあるので車をとめよう。
もともと富良野盆地を流れる川は魚もたくさん棲む清らかな水が流れていたが,開拓により流域の森林が減少したことと,大正15年の十勝岳噴火により硫黄を含む泥流が堆積したことで,農業用水には適さない水質になっていた。この酸性鉱毒水対策として,ピリカ富良野川にダムをつくり真水を確保することになった。昭和37年の十勝岳噴火を契機として国の予算がつき,同41年着工,同49年に竣工した。このダムは上富良野〜富良野の水田地帯を潤す非常に重要なダムである。
日新ダムは純粋に農業用のダムなのであるが,中学校のとき授業で,上富良野の電気は日新ダムで発電されていると真面目な顔をして話す先生がいた。その先生に限ったことではないが,小学校から中学校に至るまで教えを受けた先生の中で,自分の町の電気がどこから来ていて,ゴミはどこに運ばれて処理されているかを知っている先生は皆無だったように思う。学校の先生だったらその程度のことは知っておいてほしいものである。
ダムを過ぎて1km,日新神社の角を左折,新井十人牧場道路に入る。
この道路沿いを流れている川が富良野川である。大正15年の十勝岳噴火では泥流がこの沢を時速60kmで流下し,学校や農家を一瞬にして飲み込んでしまった。この日新地区だけで死者・行方不明者65名を出している。この道路沿いには砂防ダムがいくつも建設されている。この道路をそのまま進めばフラヌイ林道を経て中茶屋に抜けることができるが,現在工事車両専用道路になっており,一般車両は通行できない。
日新の分岐から6kmほど遡ったところで右折する。
右折してすぐに富良野川を木橋で渡る。木橋は昭和50年代まではあちこちで見られたが,現在ではめったに見られなくなった。今残っているものの多くは梁を鉄骨で組み,路面だけ木を敷いているものであるが,それでもそうとうに貴重なものである。
ここからの道路は1車線の砂利道で,たまにトラクターも通るので気をつけよう。
カーブをいくつか切って急坂を上ると,十字路に出る。このような山の中で直線道路が交差しているのは新鮮な風景である。
昭和63年頃であったろうか,父と祖母と私の3人でドライブをしたことがある。父のことであるから,道はどこかにつながっているはずだと,日の出ダムの奥を無謀に進んでいった。すると何やら硫黄の臭いが漂ってきた。ここまで来ると十勝岳の噴煙が流れてくるのだろうかと思ったが,今考えてみると63年12月の噴火の直前で,火山活動が活発化していたのかもしれない。そのとき,この十字路を通ったのを印象深く覚えている。
十字路で右折する。
周りは起伏のある小麦畑や牧草地で,景色がすばらしい。特に後方の正面に十勝岳が見えるので,時々振り返って見てみよう。道路は1車線の砂利道である。
農業用のロックフィル式ダムで昭和48年着工,同57年に竣工している。私が最初に日の出ダムを訪れたのは小学3年の遠足のときだった。ダムができてまもなくの頃であり,うちの町にもこんなにきれいなダムがあったのかと新鮮に思った。
富良野盆地を流れる2大河川である富良野川,ヌッカクシフラヌイ川はいずれも"かなけ"があり,魚が棲んでいない。それに道内では最も海から遠い場所であるので,私は魚釣りをしたことがない。しかし一度だけ魚を獲ったことがあるのがこの日の出ダムである。やはり農業用水にするだけあって魚が棲んでいるのだ。小学校5年生のとき友達と3人で自転車に乗って日の出ダムにやってきた。ダムの横に水が流れ出しているところがあり,そこにかごをあてると面白いくらいに魚が獲れるのだ。なんという魚か知らないが,バケツ1杯分くらいはあっという間に獲れた。魚は私は持って帰ってもしょうがないので友達が半分ずつ"かくはたの袋"に入れて持ち帰ったが,そのとき私は「山分け」という言葉の意味を初めて知った。
日の出ダムの下流で富良野平原広域農道に突き当たる。左折し道なりに進む。
ここからの道はまるでジェットコースターのように谷間のスロープを大きな弧を描きつつ進んで十勝岳連峰が見え隠れし,まったく豪快な車窓パノラマが展開する。
東4線の直線に入る直前で左折する。1kmちょっと進んだところで左の細い道に入り,丘を上がる。
かみふらの八景の一つ。八景の中ではもっともわかりづらい場所にあり,標柱が立っているほかはまったく観光化されていない。実際ここに立ってみても,特に景色がよいわけでもない。それでもなぜゆえここが八景に選ばれているのか不思議に思っていたが,実は"やまびこ"の名所なのだそうだ。そう聞いて再訪し,確かめてみると,たしかにやまびこが聞こえる。それはどちらかといえば日光の鳴き竜に似ており,短い反射時間で共鳴するやまびこだった。
先ほどの道に戻る。このあたりの地名を十人牧場という。地名辞書が入っているパソコンなら「じゅうにんぼくじょう」と打てば,一発で漢字変換されるはずだ。小,中学校の同級生に十人牧場から来ている人がおり,かっこいい住所だなあと思っていた。
北海道の地図を見ると○○牧場,○○農場,○○団体という名前が見えるが,これは個人の農家を指すものではなく,それ自体が地名にもなっているのである。ここでそのわけを少し述べてみよう。
北海道の開拓地は明治19年制定の北海道土地払下規則,同30年制定の北海道国有未開地処分法などにより民間に貸し付けられてきたが,その代表的な形態が牧場,農場,団体だったのである。団体は同郷出身者や会社組織による自作農だったが,牧場,農場は華族,資本家を地主とする小作制であった。特に国有未開地処分法では貸し付け面積の上限が大幅に引き上げられたため,大地主が出現した。これにより明治29年に65%だった自作農が大正14年に30%台に減少,北海道のフロンティアにおいても結局,地主対小作人という封建制が出現してしまったのである。
貸下げを受けたものは最長10年間の無償貸与期間を経て付与検査に合格すると,無償で付与された。このため牧場主は畜舎を建て,牧柵を施し,若干の牛馬は飼育するが,合格に必要な頭数を置くことができないので,検査の日には他の牧場から馬を借りて受験したという。この付与検査に合格すると,もうしめたもの。土地が自分のものになれば,樹木も牧場主のもの。その立木を造材して金に換えるのが牧場主の最たる目的だった。
牧場と農場は実質的に同じであるが,牧場は丘陵地,沢の奥地などに,農場は平地に設定された。富良野沿線には上富良野30,中富良野8,富良野2,南富良野19,占冠3の計62箇所の牧場があった。十人牧場もその一つであるが,当初山田牧場として貸し下げられたが未着手だったのを10人が共同で購入したことによる命名である。
旭野やまびこ高地入口から1km進み,右折。高原の畑の中に1直線の細い舗装道路が延び,正面に美瑛岳が見えて絶景。次の分岐を右後方へ曲がり,急坂を下る。この道は白樺林の中を走っていて爽快である。道道吹上上富良野線に突き当たったところが旭野の集落で昭和36年までは小学校もあった。
道道吹上上富良野線を十勝岳温泉方面へ進む。山加農場を過ぎ,これからいよいよ険しい登りにさしかかろうとするところで,左の旧道分岐に入る。
上富良野市街と吹上温泉を結ぶ旧道である。吹上温泉は大正時代からある古い温泉で,戦後は衰退したものの,戦前はスキー客や山岳部の合宿で賑わい,中谷宇吉郎博士の研究の舞台となったことでも知られる。この道路は当時からのもので,昭和3年には早くも上富良野市街と吹上温泉を結ぶバスが運行を開始している。昭和10年地方費道(現在でいうところの道道)に指定,同32年に道道291号吹上上富良野線となった。昭和40年に十勝岳温泉凌雲閣までの道路が開通すると,道道認定を取り消された。
道路は往年のバス路線だけあって幅の広い砂利道で,風格を感じさせる。ただし砂利が十分に入っていないので,雨の日には通行を避けたほうがよい。旧道ではあるが,廃道にはなっておらず,普通乗用車でも走行に問題はない。山肌に素直に沿う道で,大正・昭和戦前期の車道の姿をそのまま現代に伝える貴重な道路である。
吹上旧道で中茶から約350mの高度をかせぎ,道道十勝岳温泉美瑛線に出たところの標高が912mである。
ここまで来たら凌雲閣まで登ってみよう。途中にも吹上温泉,吹上露天の湯,バーデンかみふらの,カミホロ荘がありいずれも日帰入浴可能なので立ち寄ってみるのもよいだろう。十勝岳温泉凌雲閣の標高は1280m。特にバーデンかみふらのから先は14‰の急勾配が連なり,道道としては全道屈指の険路である。
凌雲閣からは約1000mの標高差を約15kmで一気に駆け下りる。車のエンジンを切って惰性だけで上富良野市街まで下ることに挑戦する人もいるようだが,危険なのでやめたほうがよい。
先ほど通った旭野を再度通過し,東4線との交差点の駐車スペースに入る。
駐車スペースから階段を上っていくとかみふらの八景の一つ「和田草原とどんぐりの郷」に出る。ここもなぜ八景なのかやや不思議に思うところであるが,和田さんとは何代か前の町長の名前である。丘の上からは富良野に向かってまっすぐ延びる東4線道路を眺めることができる。
さてここまで来たら東4線を爽快に駆けていきたいところであるが,上級者はそこをぐっとこらえて,上富良野市街に入る。
セブンイレブンの前の交差点を左折する。かつてはここに東明スーパーがあった。まもなく左手に2003年8月に新校舎が完成した上富良野高校が見える。
高校を過ぎるとすぐ左手にホップ畑がある。ホップはビールの原料の一つであるが,大正15年にサッポロビールの作業場が設けられて以来上富良野の特産物となっている。全盛期の昭和30年代には町内のいたるところでホップ畑が見られたが,40年代以降輸入品に押され,現在北海道では上富良野で研究用に栽培しているものが唯一となっている。なおホップ畑は地形図では「果樹園」の記号で表されているが,上富良野町内で果樹園の記号が記されているところはすべてホップ畑であると思ってよい。
大きな十字路の交差点で右折,上富良野中学校の角で左折する。ここから道道上富良野中富良野線を走る。
上富良野から東中に向かって正方区画の田園を斜め45°に道路が突っ切っているが,こうした線形には興味深い歴史的背景がある。この斜め通りは「斜線道路」,また東9線道路を含めて「山手線」とも称しているが,「旧十勝国道」という別称もある。しかし実際にこの道路が国道に指定されていた事実はない。
明治18年,北海道の巡視を終えた金子堅太郎が,復命書の中で流通の未整備が開拓の進展を妨げていると主張し,第一に着手すべきは札幌・根室間の道路だと述べている。そして明治20年,上川開発に熱心だった岩村通俊が,その中でも上川から十勝に抜ける道路をまず開削すべきだと述べている。上川から十勝に抜けるには富良野盆地を通過することとなるが,ここで想定されていたルートが現在の山手線にあたるとされている。しかしながら「札幌・根室間の道路」は明治22年にいたって上川から北見,網走へ抜ける路線に変更となり,のちに「囚人道路」と称されることになる悲惨な工事を経て,現在の国道39号,国道333号になっている。
フラノ原野の殖民地区画は明治29年に設定されたが,同20年の殖民地選定の時点で上のようなルートが想定されれていたため,奇異にも思えるような斜線道路が区画の中に設定されたのである。
明治30年に入植が始まり,翌31年には旭川・下富良野間の道路が斜線道路経由で仮道ながら開通している。斜線道路は明治42年刊の『上富良野志』では「旧十勝国道」と記載され,以来100年近くにわたって旧十勝国道という呼び名は細々と受け継がれているのである。
北海道の開拓はすべて屯田兵により行われたと誤解されることがよくあるが,北海道の開拓史において屯田兵は極めて特殊な制度に過ぎず,実際に内陸部の開拓を進めたのは,明治19年以降北海道庁によって選定された殖民地に入植した一般移住民であった。殖民地選定は明治19年に開始され,地理,面積,土壌,植物,運輸などの項目が調査され,(1)直チニ開墾シ得可キ地,(2)排水後耕耘ニ適スル地,(3)牧畜適地,(4)大改良ヲ要スル地に分類された。昭和21年までの総選定面積は400百万町に及び,これは北海道の面積の約半分にあたる。
貸下げを行う場合には欧米の土地制度を参考にして区画を設けることにした。殖民地区画の測設はまず,区画の基本となる基線の方向を定め,ついでそれに交わる基号線定め,さらにそれらと平行に300間(約545m)ごとに区画道路を設定,この1区画を中画と称した。中画9個で大画とし,中画を6等分し100間×150間としたもの,すなわち5町歩(5ha)を小画とし,これを農家1戸分とした。そして300〜500戸で一村と仮定し,その予定地には道路,排水渠敷地,保存林のほかに市街予定地,学校,病院,神社,寺院,公園,墓地,火葬場などの敷地が設けられた。
殖民地区画の特徴は正方区画ということである。道内で正方形の格子状に道路が引かれてあれば,それは殖民地区画によるものだと思ってよい。逆に長方形だとしたら,そこには他の地域とは違う歴史が秘められているということになる。
旧十勝国道をそのまま進むと,東中の市街に入る。東中は上富良野町内では唯一,農協,郵便局を持つ独立した市街地である。中学校も別にあるので同じ上富良野でありながら,東中以外の上富良野の人と東中の人はほとんど接点がなく,別の町のようでもある。東中に独立の気風が生まれた背景には,鉄道が東中経由で建設されることを見込んで入植したにもかかわらず,実際には東中を経由しなかったことや,先の旧十勝国道にしても,実際に国道となったのは中富良野経由だったこと,それでありながら地味がよかったため,開拓の勢いは衰えず独自に発展したこと,また,大正泥流で被害を受けなかったことが要因として考えられる。
そのような集落であるから,神社もなかなか立派なものである。創設も町内ではもっもと古く,明治32年8月とされている。境内には上富良野町指定文化財「東中奉安殿」が建っている。これは大正4年に天皇陛下の御真影を奉置するために建てられたもので,総イチイ造りの珍しいものである。
東中はラベンダー発祥の地である。日本におけるラベンダーの栽培は昭和12年に曽田香料(株)がフランスから種子を入手したのが始まりで,札幌や発足の農場でラベンダー油の生産が行われた。しかしまもなく戦時中の食料増産政策に対応して廃耕させられた。
戦後まもなく作付けが再開されたラベンダーを「農業朝日」が「香料作物ラベンダーは初夏の傾斜地にうすむらさきの花を開き,なかなか詩情に富んでいる作物」と紹介した。これを見た東中の上田美一氏が昭和22年8月に曽田香料札幌工場を訪れ,翌昭和23年度からの委託栽培の契約が結ばれた。初年度は不慣れのために失敗したが,翌24年度には1haのラベンダーがしっかりと根を下ろした。昭和25年度には早くも蒸留器による採油が行われている。
ラベンダーは一度定植すると10年くらい収穫があること,病虫害がないこと,気候による豊凶の差が少ないこと,痩せた傾斜地の利用ができるなどのことから農家の関心を呼び,昭和36年には上富良野だけで80haの栽培面積となり,全国生産量の80%を占めた。ラベンダーは他の作物に適しない傾斜地に多く植えられたため,丘の斜面の紫の彩が,富良野地方の初夏の風物として楽しまれていた。最盛期は昭和45年で,全道での栽培面積は235haに達していた。
しかし,昭和45年以降輸入品や合成香料におされて減反の一途をたどり,昭和52年度の上富良野における耕作面積は26ha,38戸に減少していた。同年曽田香料がラベンダー油の買取を中止,このときをもって農業作物としての命は尽きた。
折りしも昭和51年,中富良野の富田氏のラベンダー畑が国鉄のカレンダーで全国に紹介された。翌52年には東中の吉河氏のラベンダー畑が北海道新聞に掲載され,観光客が多く訪れるようになった。同年,上富良野町では開基80年の記念事業として日の出山の整備を行い,このとき公共施設としては初めて観光目的のラベンダー2000株が植えられた。翌53年には上富良野で第1回北海ホップ祭りを開催,翌54年にはラベンダーの開花時期に合わせて第2回北海ホップ祭りを開催している。この第2回ホップ祭りをラベンダー祭りの原点として第1回目に位置づけている。翌55年には日の出山に本格的な観光ラベンダー園が造成されたことから北海ラベンダーホップ祭りと名称を改め,翌56年にラベンダーを町花に制定。「北の国から」でブームに火がついた昭和57年には現行の「かみふらのラベンダーまつり(第4回)」となっている。