過去のページetc. 富良野・美瑛特集(廃止)>モデルコース・上級者編
東中市街を過ぎるとまもなく斜線道路の終端に達し,東9線道路に入る。約2km進んで左折,道道ベベルイ中富良野線に入る。正面に富良野岳を見ながら沢を2.5km進み,左折。急坂を登りT字路を右折。すると突然視界が開け,富良野でも屈指の大パノラマが電解する。正面には富良野岳が手の届きそうなところにきれいにそびえ,丘陵の畑には防風林が点々と配置され,絶妙である。
このあたりは本幸(ほんこう)という地区であるが,ビール麦(大麦)が特産品となっている。長く柔らかな毛が特徴で,小麦よりも優雅な感じがする。
本幸の人は「麦=ビール麦」という感覚を持っているようである,中学校1年の遠足のときのこと。オリエンテーリング形式の遠足で,地図を頼りに途中で問題を解きながら進むのだが,江花のほうで畑の作物の名前をあてる問題が出た。私は単純に小麦だと思ったのだが,同じグループに本幸に実家のある人がおり,その人が「ビール麦だ」と主張したので,グループとしての答えはビール麦にした。ところがやはりビール麦は本幸以外では作られておらず,それは小麦だった。他のグループはほとんど正解していたのに,悔しい思いをしたのを憶えている。
道路はベベルイ基線に突き当たる。このあたりに祖母の実家があり,大伯父が農業を営んでいたが,昭和62年に亡くなり,現在は納屋が1棟残るだけになっている。
ベベルイ基線を富良野方面へ進む。山麓の直線道路は新鮮な景色である。左手は自衛隊の演習場である。いったん舗装が切れて,また舗装になった頃,左手に原始の泉があるので寄ってみよう。
2002年頃にできた新しい名水スポットである。山麓のはらっぱに家庭用の流し台がぽつんと置かれ,湧き水が流れ出すままになっているのは奇妙な光景である。このあたりは布礼別川の上流にあたるのだろうが,砂礫層のため川が伏流水になっている。その水が原始の泉の近くで一部地表に現われており,暑い夏には清涼感抜群である。
原始の泉からさらにベベルイ零号線を南に進むと,まもなく左手に原始が原,富良野岳の登山口がある。このあたりが「北の国から」で蛍らがUFOを見たところとされている。連続ドラマの第14回と第18回〜第20回で唐突に登場するこのUFOの話は,ストーリーの流れからしてかなり違和感がある。なぜあそこでUFOを登場させたのだろうか。蛍はUFOを見たことについてTV局の取材を受けるのだが,それがテレビ番組の中で東京の評論家やアナウンサーに作り話だとちゃかされ,涼子先生も非難される。これは,富良野で蛍たちが考えていたこととはまったく違ったことで,作者があそこで表現したかったのは,そうした東京の価値観で一方的に発信する傲慢さに対する批判だったのではないかという考え方が一つある。一方,実際富良野はUFOの目撃が多いところでもあった。近年では1990年の9月〜11月にUFOの目撃が相次いだ。私も友人3人と学校から帰る途中,西の空に光線を放ちながら水平移動するUFOを見たが,そのころは町の人の日常会話の中にもUFOの話がよく登場していた。そのほか富良野の奥地にはニングルという小人が住んでおり,森の中でその歌声を聞いたという人もいる。富良野ではそういう都会の価値観では頭から否定されそうなものが,生活の中に同居しているという風土があり,ドラマではそれを表現したかったのではないかと思ったりもする。
ベベルイ零号線を突き当りまで進み右折する。
このあたりはまったく人が住んでいないが,かつてはやはり開拓の手が入った。明治43年に入植が始まり,最後の農家が離農したのが昭和46年3月である。「北の国から」に石の家が登場するが,それは周辺の畑から掘り出された石を利用して造られたものであることは,ドラマの中で五郎自身が説明している。いま道路のまわりを見ると,あちこちに石の山ができているのが見えるだろう。このベベルイ地区は特に石礫の多いところで昭和40年代の農業機械化の中でトラクターを入れることもできず,それが土地を手放す最大の要因になったのだ。1990年以降,既存農家の耕地拡大のために国営農地開発事業が実施され,機械により石礫が掘り出された。その莫大な量の石礫を積み上げて30haの広大な「石水公園」をつくる計画もあるとのことである。
布礼別の十字街を右折する。
布礼別(ふれべつ)は旧本間牧場の中心地であり,現在でもAコープや小中学校がある。本間牧場は明治34年に浜益の網元であった本間豊七が国有未開地の貸下げを受けたもので,面積4000haに及ぶ道内屈指の大牧場だった(大正9年における1000ha以上の巨大地主は道内でも15のみ)。その区域は布礼別,ベベルイ,富丘,八幡丘から中富良野の本幸,上富良野の倍本の奥にまで及んでいる。
布礼別は小さな集落だが,立派なお寺がある。このお寺は祖母の実家の菩提寺である。嫁ぎ先の私の家にも,年に1度必ずお寺さんがお経を上げに来ていた。最近は自分が仏教徒であることを意識していない日本人が増えているが,開拓時代には仏壇を持って入植した者も少なくなかったというほど,日本人と仏教は深いかかわりを持っていた。神社の場合はその地区ごとに住民が祀っている神社があるが,お寺の場合はちょっと違う。同郷団体など宗派を同じにする人たちがまとまって入植する場合は,お寺も一緒に郷里から連れてくるということもあるが,そうでない場合,入植者たちは相当離れたところまでも自分の信仰する宗派の寺院を求めて行った。したがって富良野沿線には多様な宗派の寺院が散在しているが,その檀家は相当広い範囲に散らばっているのである。そういう意味では富良野盆地の中心に位置する中富良野には立派なお寺が多い。現代の都市では葬儀も特定の宗派によらない斎場で挙げるケースが増えているが,富良野沿線ではまだお寺で挙げるのが普通である。
約500m直進,布礼別小中学校の角で左折する。この角には児童たちがきれいに管理しているトイレがあるので,寄ってみよう。心が和む。まもなくY字路に差し掛かる。右に行けば倉本聰氏主宰の富良野塾があるが,今回は左手に進む。ここからしばらくは尾根道を走り,景色がすばらしい。農作業の邪魔にならないように車を停めて景色を堪能しよう。
このあたりは豆を干すためのニオが秋の風物詩であるが,大正3年〜7年頃,豆ブームというものがあった。これは第一次世界大戦で農耕地が戦場となった欧州に向けて日本が農産物を輸出したことにより起こったもので,青豌豆など豆類が7,8倍の値上がりを見せたのである。「10円札に火をつけて下駄をさがした」「ビールを水がわりに飲んでいる」といったことがまことしやかに噂された。豆景気の恩恵に授かったのは富良野盆地,上川盆地の一部と空知地方であり,今日豆の主産地となっている十勝平野は豆ブームに十分乗れなかった。富良野盆地における豆景気のメッカは,盆地の東部,上富良野の日新から布礼別にかけてであった。「北の国から'83冬」では,笠智衆が豆景気で一儲けした老人,沢田松吉を演じている。
道路をそのまま進むと,やがて砂利道となって沢に入り,T字路にあたる。ここを右折,布礼別川沿いの林道に入る。
布礼別への入植ルートは八幡丘経由の道,あるいはベベルイ零号線が利用されていた。布礼別川に沿うこの道路は布礼別につながる道で最も遅く,昭和8年に開削されている。
清流の布礼別や木のトンネルが美しい道である。両側に切り立った山が迫り,昼間でも薄暗いが,初夏には新緑が,秋には紅葉がすばらしい。8月には道の両脇にオオハンゴンソウが咲き乱れる。オオハンゴンソウは「北の国から'98時代」で正吉が100万本のバラのかわりとして蛍に贈った黄色い花だ。なおこの林道は車1台分の幅しかないため,めったに来ないが対向車には注意が必要だ。
林道を8kmほど走ると急に視界が開けて富良野盆地に出る。道道を左折。ひたすらまっすぐ走ると布部市街に入る。
国道38号は布部以南は空知川左岸を通り,布部以北は右岸を通っている。すなわち布部は空知川の両岸を結ぶ交通の要衝であり,昭和の初めには麓郷への森林軌道も敷設されて活況を呈した。しかし現在はそうした交通上のメリットはまったくなくなり,駅前の商店街は時代に取り残されてしまったかのようである。
「北の国から」の第1回,黒板五郎,純,蛍の父子3人は布部駅で列車から降りる。そこには北村草太が車で迎えに来ていた。布部駅は昭和57年11月に無人駅となったものの,当時の雰囲気を残しており,駅前には倉本聰直筆の「北の国から処に始まる」の看板がある。
布部市街を過ぎると道道は怪しい細道となり,妙な形で根室本線の踏切を2回渡る。ついに舗装は途切れて砂利道となり,木のトンネルに入る。この道がなぜ道道に指定されているのか不思議だが,森はさわやかで,木々の間から見える空知川も美しい。
砂利道はすぐに終わり,再び怪しい舗装道路になる。まわりは何ともいえぬ茫漠とした笹原が広がり振り返ると赤い肌をむき出した山が迫る。鉱山跡独特の風景だ。この鉱山は日本ではここだけという石綿(アスベスト)の鉱山である。昭和12年旭川の軍人がたまたま発見し,昭和17年から本格的な採掘を開始している。戦時中には海軍の軍需物資生産工場に指定され道内各地から勤労報国隊,女子挺身隊が入鉱した。戦後はノザワ鉱山と秩父セメントの山部石綿鉱山が採掘を続けたが昭和44年以降採掘は中止された。今でも鉱山の発破の音や,鉱石の粉が飛んでくるので外に洗濯物を干せなかったという話が富良野の古い人たちの語り草になっている。紀行作家の宮脇俊三氏は昭和17年,この石綿鉱山の視察に来た父に同行して来道し,富良野滞在中に狩勝峠を往復している(富良野8時07分発根室行,新内で引き返す)。
やがて普通の2車線舗装道路に戻り,空知川を渡る。このあたりは空知川の河畔が開けており,堤防から歩いて降りていけば気軽に川の水に触れることができる。左に(株)ノザワのフラノ事業所を見て国道を左折する。
国道に入ると両側に商店街が続く。ここは旧山部町の市街地である。山部は大正4年,下富良野村(現富良野市)から分村して独立の村となった。当時の村域は空知川の東側が東大演習林,西側が北大の学田地で占められており,民有地はほとんどなく,村民の大多数が大学所有地の借地人・小作人であったことから「大学村」と称された。昭和15年には東大演習林側を東山村として分村した。また,前述のとおり昭和13年以降石綿鉱山の開発が始まり,最盛期には数百名の従業員があった。一方で,昭和6年には大本教の北海別院が置かれた。一時は300名もの信者が寄宿舎に泊まって修行に励んでいたという。庭園には空知川から巨石を運び込み,全道一の名園と言われたが,革新的な運動は当局からの弾圧を受け,昭和10年に神殿,拝殿等の建物や庭園の巨石などがダイナマイトで徹底的に破壊された(第2大本事件)。現在は昭和31年に再建された神殿が建っている。このように旧山部村は旧北大農場の学田地,石綿鉱山の城下町,北海別院の門前町という3つの側面からなる地域である。
山部市街を過ぎると右手に,富良野市博物館(生涯学習センター内)があるので入ってみよう。
1999年3月に閉校した富良野農業高校の建物を利用した施設である。現在の富良野市は旧富良野町,旧山部町,旧東山村の区域からなるが,東山村とは昭和28年制定の町村合併促進法のもとで同31年9月30日に合併した。一方,山部村は財政力があったことからそのまま残り,昭和40年には町制を施行しているが,同年制定の合併特例法で41年3月までに申請のあったものに限り人口3万で市として認められることとなったため,富良野町側が市に昇格するために強烈な合併運動を進めた。山部町では合併の賛否で意見が二分され,住民投票に持ち込まれた。結局昭和41年5月1日,両町が合併して富良野市が誕生するのであるが,富良野農業高校は合併の条件の一つとして山部に置かれることになったもので,翌42年4月に開校している。しかし通学するには不便な場所であり生徒数が減少,1999年に工業高校と合併する形で富良野市街の緑峰高校に移ったのである。
残った建物は大きな手を加えられることもなく,そのまま博物館に転用されているのであるが,もともと高校だっただけあって,展示スペースは十分すぎるほどにあり,人口2万数千の市の郷土館としては非常に贅沢な展示空間となっている。
さらに国道38号を帯広方面へ進む。今回の旅で,これほど長い距離国道を走るのは初めてだ。やがて左に大きくカーブを切り森の中に入る。ここはもう東京大学演習林の中である。後ろには切り立った芦別岳がそびえ,5月中旬には桜のトンネルとなる。国道237号との三叉路を過ぎて3.5km走ると東山市街である。
東山が独立村として存在したのは昭和15年に山部村から分村して同31年に富良野町と合併するまでのわずか16年間である。東山市街は東大演習林の保護所があったところで,東山の「東」は東京大学に,「山」は母村の山部に由来する。東大演習林は明治32年設置。面積は23000haで,東京の山手線の内側の約3倍という広大な森である。設置の目的は森林資源を大学の財源に充てることと,林学・林業学の研究を行うことであった。明治43年からドイツをモデルにした林内殖民の制度を取り入れ,小作人を誘致した。小作人は森林の一部を開墾して耕作を行う一方,造材にも従事した。森林内の耕地は火防線の役目もあったという。旧東山の住民の約8割が演習林の小作人だったが,農地は昭和22年及び同39年に解放されて自作農となった。一方,演習林には昭和12年にどろ亀さんとして知られる高橋延清氏が助手として着任,同17年に林長に就任した。森は戦争中の伐採や昭和29年の台風15号の被害で荒れていたが,同33年から有名な林分施業法が実施された。
旧東山村域は東山,西達布,老節布の3地区からなりそれぞれ商店のある市街地を持つ。昭和15年の分村の際には,各区の農事組合に草木の名称がつけられた。これも大学村ならではある。
東山地区は落葉樹名……やなぎ,ならのき,あかしや,しらかば,かつら,かえで,さくら
西達布地区は灌木・草木名……やまゆり,おもと,しらはぎ,たちばな,すみれ,つつじ,あやめ
老節布地区は針葉樹名……いちい,とどまつ,あかまつ,くろまつ,からまつ
東山市街の信号で左折,道道東山富良野停車場線に入る。4kmほどで老節布市街に入り,右手に樹海西小学校が見える。
旧東山村には小学校が2校,中学校が1校ある。老節布に樹海西小,西達布に樹海東小,東山に樹海中があり,これらは昭和56年4月,同時に開校している。学校の名前が「樹海」というのもすごいことである。たとえば東山の人が富良野の高校に進学した場合,「樹海の出身」「樹海からきました」と自己紹介することになる。知らない人が聞けば驚くだろう。私は中学生のとき軟式テニス部だったが,たしか3年生の中体連の会場が樹海中だった。上富良野から役場のバスで1時間以上かけてやってきたのを覚えている。
老節布市街を過ぎてまもなく交差点を直角に曲がる。
直線の道路は林内殖民地の名残だ。道路を走るだけではわからないが,地図を見ると北海道庁の殖民地区画とは異なる地割となっている。殖民地区画の場合は1戸あたりの貸下げ面積は5haだったが,東大演習林の場合は4haだった。この1haの差は,余剰労力を林地の整備・林木の育成に充てるためだった。
山を一つ越えると見晴らしの良いところに出る。波状丘陵が幾重にも連なり,遠く十勝岳連峰を望む。美瑛にも劣らない雄大な眺めだ。
しかしこのように標高が高く,うねりのある地形は農業には本来適さない。ここは平沢という地区で,樺太引揚者や東京の戦災者など緊急開拓入植者が昭和20年から25年にかけて66戸入った。
急カーブでもう一山越えると麓郷の盆地に入る。カーブした橋を下り終えたところで右手の細い舗装道路に入る。通常の観光コースでは,ここまで来て麓郷に立ち寄らないということはありえないが,上級者は心を鬼にして麓郷を去る。
まもなく舗装は途切れる。この林道が西瓜(すいか)峠である。珍名の峠としてテレビで紹介されて事もある。大正10年頃,地引平吉が演習林長川瀬善太郎博士の林内視察の案内をして麓郷に越すとき,残暑厳しい峠で西瓜を割って進上し,感激されたところからこの名称が生まれた。西瓜峠は上富良野から帯広方面への最短経路にあたり,子どものころ家族旅行で何度か通ったことがある。私は砂利道が嫌いだが,この道路だけは嫌いでなかった。崖っぷちを走るわけでもなく,すれ違いにも十分な幅があり,安心して通ることができる。峠の辺りは演習林内で,カラマツ林がとくに11月の紅葉のころには美しい。峠は標高406m。意識していなければ気づかないほどあっけない。
舗装道路に戻り,まわりに農地が開けてきたところは西達布である。西達布市街の外れで国道に出るので左折。