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富良野美瑛八十八ヶ所巡り (5) 南富良野町・占冠村

国道38号は樹海峠を越えて南富良野町へ向かう。

山部から幾寅にかけては国道と鉄道がまったく別のルートを通っている。空知川の流れに沿う鉄道ルートのほうが自然に見えるが,国道がわざわざ峠越えで幾寅に向かっていのには東大の力を背景とした東山の住民の誘致運動があったという。東山の人口は昭和6年以降山部地区を上回っており,このころは小作料も安く安定した収入があり,住民も比較的裕福であったといわれる。そして昭和15年東山村として独立する。しかし昭和30年ごろのピーク時に6000人を超えていた人口が,現在は1000人台まで減少している。

71.樹海峠

標高476.1m。地図には樹海峠と記載されているが,富良野側では三の山峠と呼ばれ,幾寅では幾寅峠とも呼ばれている。富良野市と南富良野町の市町界にあたるが,富良野市側は全部東大演習林で,一面樹海が広がっている。右手に広い駐車場があるので入ってみよう。一角に幾寅峠ハチ公之碑があり,今も水やお菓子が供えられ続けている。碑文には心打たれる。すぐ上に樹海展望台があるが,腰の高さ以上ある笹をこいで行かなければならない。

  

72.北落合

左に道の駅を見て次の信号を左折,1km先のT字路を左折。あとは道なりにしばらく走る。立派な2車線舗装道路で快走できるが,最初しばらくは切り立った谷間で眺望はきかない。それが一気に開けると北落合である。北落合は明治33年に区画測設が行われたが,気候冷涼のため戦前は開拓が進まず,戦後開拓によって入植者が120戸に達した。左手に神社と学校が見えると北落合の中心部。広々とした丘陵地は人参畑で,ところどころにある防風林がアクセントを添えている。

  

T字路を右折。あとは落合まで1本道である。道路沿いの白樺並木が見事だ。戦前には落合からシーソラプチ川の上流27km地点まで森林鉄道が達しており,今通っている道路はその跡につくられたものである。シーソラプチ川は空知川の本流にあたり,河畔には狭いながらも平地が続いているが,人家は皆無である。しかし大きな木は生えておらず,離農跡特有の光景である。結局,このあたりは林業が主で,昭和30年代までに木を切り尽くすと,みな出て行ったのだろう。

久しぶりに人家が見えてくると落合である。落合は空知川の本流シーソラプチ川とルーオマンソラプチ川が合流する地点なので落合という名がついた。十勝線(現根室本線)の落合駅が明治34年に開業し,同40年に狩勝トンネルが開通するまで鉄道の終点だったので市街が発達した。大正以降は北落合やトマム方面の木材の集積地として賑わい,現在も小学校,中学校,郵便局などのある大きな市街地を持っている。

落合では国道38号を横断し,トマム方面の道道に入る。人家はまもなく途絶え,車窓には根室本線が寄り添う。線路が2回頭上を横切ると,左手に新狩勝トンネル入口が見える。根室本線と石勝線はこのトンネルの中にある上落合信号場で合流しているが,トンネルの入口は各々50mも離れておらず,道路からも両線が吸い寄せられるようにしてトンネルの中にもぐっていくのがわかる。

今度は石勝線が道路に寄り添い,頭上を3度交差すると,左手に道道136号夕張新得線が分かれていく。この奥には富良野広域串内牧場がある。続いて右手には石勝線の串内信号場が過ぎていく。この信号場は石勝線の建設基地になったところで,ゆったりとした敷地に列車の交換・退避のため3本の線路が敷かれている。石勝線はこのあと延長4225m第2串内トンネルでまっすぐトマムリゾートを目指すが,道路は開拓ルートに従い上トマムに向かう。

狭い谷間を脱出し,高原に出たところに「南トマム」のバス停がある。

なぜ南トマムというのであろうか。位置的には北トマムと名づけるべきである。ここは南富良野町であるから,占冠のトマムに対して南富良野のトマムのことを略して南トマムと言ったものだろうか。

バス停があるだけあって,周辺は小集落の趣があるが,すべて廃屋である。かつての森本農場であるが,落合とも離れており,南富良野の村域でありながら,ほとんど占冠のトマムと一体的な経済圏をなしていたという。

 

73.国境

南トマムからまもなくのところに上トマム駅逓跡の碑がある。周辺には商店もあったというが,いまは記念碑以外に何も残っていない。そしてここは石狩と胆振の国境である。だから開拓者は言った。

「畑を焼く煙が目に入って涙が流れると,右の目の涙は日本海へ,左の目の涙は太平洋へ行く」
と。なだらかに見えるが,海抜約570mで,金山峠よりも標高が高い。昔はここに国標があったという。

 

駅逓について

駅逓というのは明治33年制定の駅逓規則により設置された北海道独特の施設で,宿泊,人馬継ぎ立て,荷物・郵便物の逓送などの役割を持っていた。主に鉄道の通っていない開拓前線に置かれ,地域によっては昭和22年まで官設の駅逓が存続した。

74.上トマム

駅逓の角を左へ曲がる。白樺並木の間を弱弱しい舗装道路がまっすぐに延びる。この道路は明治35年に設定されたトマム原野殖民区画の東2号。100年以上前の原始の樹海にこの直線を引いたわけだ。そしてこの線が石狩と胆振の国境にもなっている。さらにこの南東約5kmには石狩,胆振,日高,十勝の4国が国境をなしている。

これから先は上トマムの農業地帯を走るが,道路沿いには廃屋が多い。私の知る限り,富良野・美瑛では最も廃屋が多く残るエリアであるが,近々ここを通過する高速道路の工事が始まり,この寂しい風景もまもなく見納めになるだろう。

この地区の開拓は大正6年の佐賀団体,岩手団体の入植に始まる。入植以来「半農半労」の暮らしで,畑作物は作っても出荷するすべがないので自給的なものにとどまり,現金収入は造材によって得ていた。昭和初期の凶作により戸数が激減したが,終戦後の緊急開拓で再び農家が増えた。現在残っている廃屋は戦後開拓者たちのものであろう。

道路は弧を描いて向きを90度変え,24線に入る。殖民区画は碁盤の目に引かれるはずだが,ここまでくるとかなり地形に妥協した形となっている。24線道路は標高650mの等高線にほぼ並行しており,周辺は北海道でも最も高所にある農地の一つだと思う。農家は大半離農し,畑は森に戻りつつあるが,まだ数戸が営農しており,狭い道路にトラクターが通行することがあるので気をつけよう。

T字路で右折。ここから砂利道になるが,これが基線である。

舗装道路に戻ると,左にトマムコミュニティーセンターが過ぎ,信号のある十字路に出る。

上トマムは小学校,中学校,役場の支所があり,占冠本村に匹敵する商店街を持っている。上トマムは下トマム,落合,双珠別方面に通じる拠点に位置し,もともとトマムの中では最も発達した市街地を持っていたが,トマムリゾートができてからは,ペンションや居酒屋などが増えている。

トマムと占冠の間には鵡川の峡谷があり,開拓以来長く直接行き来することは困難だった。一方,国違いの落合には,先ほどのなだらかな国境を見てもわかるように,さほど険しい箇所はなく,落合に出れば汽車に乗ることができた。したがってトマムと占冠本村の交流は当初ほとんどなかったのである。トマムの開拓が始まった大正の中ごろ,占冠村は南富良野村と組合役場を設置しており,トマムの人は幾寅の役場で用を足すことができた。それが昭和7年組合を解消して独立村となったとき,トマムの人は落合に出て汽車で金山に至り金山峠を越すという方法をとらなければならなくなり,役場に死亡届を出すにも3日かかるようになった。当然組合解消の際にはトマム住民が反対し,トマム地区は占冠から分村して南富良野に吸収させるという話にもなったのであるが,結局石狩国と胆振国の厳然たる境界が引かれている以上,その勇払郡の占冠村を二分したくないという理論を前に合併に納得した。合併の際に住民がつけた条件は

1 トマムに役場出張所をつくること。

2 本村への道路を開削すること

支所の設立が実現したのは昭和23年のこと,本村までトラックの通れる道路が開通したのは同34年のことだった。

上トマムの十字街は直進し,トマムリゾート方面に向かう。

2kmほど進むと正面にトマム山と高層のホテルが4棟見えてくる。これがトマムリゾートで,国鉄石勝線開通の2年後,昭和58年12月にスキー場がオープンしている。1998年に経営主体が変わり,現在も金銭面の問題を抱えているが,リゾート自体の魅力はあることから,道外客を中心に堅調な集客を見せている。

トマムリゾートのあたりは中トマムという地区で,もともとあまり拓けてはいなかった。

トマム駅の150m空中通路をくぐると道路は狭い川筋に入っていく。この川は鵡川である。トマムは漢字で苫鵡と書くが,苫小牧から鵡川をさかのぼったところにあるという意味を連想させ,当て字として秀逸だと思う。

道路は気持ちよいぐらいまっすぐに原野を突っ切っているが,これも100年以上前に設定されたトマム原野殖民区画の基線である。

75.下トマム

石勝線が頭上を横切り,約1km。ここに下苫鵡小学校があった。へき地級は5級。へき地5級というのは離島クラスであり,陸の孤島の中の孤島と称されるにふさわしい格付けである。昭和23年に当時の校長が学校を去るときに残した「下トマム校教育の振興を念じて私見を述ぶ」という文章に当時の状況がよく表現されている。

1 文化地帯から隔絶している(僻地である)

2 無燈火地帯である(夜本が読めない)

3 戸口が少ないので開発が進まない(文化施設がない)

4 学校は単級(児童も教師もやりにくい)

5 上級学校に進学できない(義務教育の新制中学も不就学に近い出席状況)

6 学校に教材教具が不備である(教師も生徒も不幸)

7 僻地の教員は時代の進展に遅れる(郷土に愛情を持って永く住む場合)

8 教職員の安住の地ではなかった(1年以内で転退したものが半数)

9 児童の学用品の不足(教師のポケットマネーでは救いきれない)

10 生活環境が非文化(汽車,海,汽船,電車,映画,ラジオを知らない子が多い)

11 校下父兄の教育水準が他に比べて低い(不就学だった者の率が高い)

12 本村地区から地理的事情で離れているので,村理事者の関心が少ない。

下苫鵡小学校校歌

一,鵡川の清いせせらぎを ききつつ学ぶ吾々の 瞳は希望に燃えるのだ

ああ吾等がかざす校訓は 明るくやさしくつつましく

二,トマムの山を日もすがら 仰ぎて学ぶ吾々の 心は明日に続くのだ

ああ吾等が謳う校訓は 明るくやさしくたくましく

三,高く眉あげ胸張って たゆまず学ぶ吾々の 理想に花が開くのだ

ああ吾等が誓う校訓は 明るくやさしくたくましく

学校は昭和50年に廃校となった。しかし驚くべきことは下苫鵡小学校のさらに奥にホロカ分校があったことである。戦後開拓者のために昭和30年1月に開校したのであるが,同45年に廃校になった。ホロカトマムの沢も現在人家は1軒もない。

このあたりは京都農場という地名がついている。京都の政治家が大面積貸下げを受けたことによるもので,京都の人々の団体入植があったわけではない。

学校の脇からは通称三線沢が北へ延びている。この上流には大正7年に青森団体の入植があった。しかし入植後数年にしてほとんどの者が退散した。現在人家はなく,一部が牧草地として開拓の名残をとどめているのみである。

再び石勝線が頭上を横切る。道路からは見えにくいがすぐ右手にはホロカ信号場がある。ここは当初下トマム駅として計画されていたが,過疎化のため昭和56年の石勝線開業時には旅客を扱わない信号場となった。また,この付近には開拓診療所と簡易郵便局があった。いずれも戦後に設置されたものであるが,今では人家もほとんど残っておらず,ここにそのような施設があったとは信じ難い。

上トマムには大正期の同郷団体による開拓と,戦後開拓の2度の開拓の歴史があると書いたが,下トマムも同様である。ただ下トマムにはこれとまったく別の流れに属するもう一つの歴史がある。それは砂金である。ホロカトマム川は十梨別川と並ぶ砂金の産地で,明治の末以来,何度か盛衰を繰り返しつつ第2次世界大戦中まで砂金掘か活躍していた。

 

ホロカトマムの砂金掘り風景(明治時代)

道道の直線区間が終わり左にカーブへ切っていくところで,右に分岐する道道1030号石勝高原幾寅線に入る。

この分起点に下トマムの駅逓があった。

76.幾寅峠

石勝高原幾寅線は一線沢に沿う。この沢には大正7年頃秋田団体が入ったが転出するものが多く,太平洋戦争後には樺太引揚者が入植したものの,やはり現在人家は1軒も残っていない。ただ沢のかなり奥,標高600m付近まで現在も牧草地として利用されている。

牧草地が途絶えると,道路も砂利道となる。石勝高原幾寅線は現在では数少なくなった峠越えの砂利道である。この道の歴史は古く,大正11年11月に駄馬道のレベルだとは思われるが,いちおうの開通を見ている。峠は幾寅峠と称し,標高約740m。等高線に素直に沿った線形であり,硬く踏み固められた砂利道は貫禄を感じさせる。これぞ本物の道といった趣で,新緑や紅葉の季節には特に素晴らしい。しかしこの道路も立派な舗装道路への路線切り替え工事が進んでいるようだ。何もこのようなところまで工事をしなくても良いと思う。長大な橋梁を架けたり大規模な盛土や切土を施した現代の道よりも,地形に随順な開拓時代の道のほうが長い目で見たときには長持ちするはずだ。

幾寅峠で国境を越え,再び石狩国に戻る。やがて山肌の水を集めて,道の右に一筋の沢が生まれる。これをユクトラシュベツという。幾寅の語源となる川であり,「鹿が越える大きな川」という意味だという。

幾寅市街に入ると踏み切りの前で左折。根室本線に沿ってかなやま湖畔を西へ進む。

右手にかなやま湖が見えるが,このあたりはダムのかなり上流に位置するので,満水時には湖になるが,通常は干上がっていることが多い。

77.東鹿越

左に東鹿越駅が過ぎていく。駅前はまったく寂しいが,駅を過ぎて1kmほど進んだところに東鹿越の市街がある。ただ遠目には市街地に見えるのであるが,こちらも商店は廃業し,官舎のような建物もすべて廃墟である。東鹿越小学校は2000年3月廃校,東鹿越簡易郵便局は2002年5月に閉鎖。

東鹿越は鉱山町である。明治41年に王子製紙が石灰岩の採掘に着手し,昭和18年に日鉄鉱業が引き継いで,室蘭の製鉄所の需要に応えた。また製糖工場の需要もあり,1997年3月までホクレン中斜里製糖工場への石灰搬出のため,東鹿越駅から釧網本線の中斜里行きという貨物列車が運行されていた。

東鹿越市街

湖の南岸道路はさらに根室本線の鹿越信号場跡付近まで延びているが,我々は鹿越大橋で対岸に渡る。

鹿越大橋

金山ダムについて

金山ダムが計画されたのは昭和27年。南富良野の開拓の礎である伊勢団体が水没することになったため,猛烈な反対運動が巻き起こった。上富良野の開拓の祖である三重団体は十勝岳の泥流で壊滅し小説にもなったが,ここでもまた開拓の功労団体に災難が襲った。しかし金山ダムは北海道総合開発計画の主力事業であり,田呂善作道議の「全国どこのダムを視察しても,反対によって中止になった例はない。ダムの闘争は結局補償を有利にして,多数の福祉のために少数の特定の不幸なものを出さないことにする」という言葉の影響もあって,住民の関心は次第に補償問題に移っていった。補償は駅までの距離によって差が出るので,鹿越大橋の架橋位置についてはかなりもめたという。ここまでくると逆にダムはできてもらわなければ困るのであるが,住民の要望が厳しすぎることや,農業が曲がり角に来ている中,農業水利目的のダムには予算をつけないという時勢の変化もあり,なかなか予算がつかなかったが,昭和36年秋の水害を契機に予算がつき,同37年3月10日に開発局とダム対策委員会の調印式が行われた。同年6月22日,伊勢団体が解散式を挙行。ダムは昭和38年に着工し,同41年に完成した。昭和42年3月3日湛水開始。同年6月8日に竣工式がとりおこなわれ,全道に散った旧住民(268戸)のほとんどが鹿越大橋の上に集まって,住み慣れた土地に最後の別れを告げた。

金山ダム竣工式の日。鹿越大橋にて。

北岸道路に出て左折。ここからは道道金山幾寅停車場線を走る。途中,何箇所か駐車スペースがあるので車を停めてみよう。対岸には先ほどの東鹿越鉱山の全貌が見える。

まもなくかなやま湖のリゾート地区を通過する。近年オートキャンプ場やラベンダー園が整備され,カヌーなどアウトドアスポーツの拠点として人気が高まっている。

さらに湖岸を延々と走る。かなやま湖は深い緑色をしているが,これは石灰分の影響もあるだろう。道は湖の縁を通り,急カーブを繰り返す。場所によっては30km/h制限となっており,スピードの出し過ぎには注意が必要だ。

湖が視界から消えた頃,かなやま湖展望台入口の看板があるので入ってみる。

78.かなやま湖展望台

少し上ると駐車場がある。周辺は街灯やベンチがきれいに整備されていて,ダムの堤体を見ることができる。金山ダムは中空式の重力ダムで,堤高57m,堤頂長297.5m,洪水調節,灌漑,上水道,発電のための多目的ダムである。

 

ところがこの展望台にはさらに上があるのである。

駐車場脇の階段を上ると東屋があるのだが,これがすごい。屋根はぼろぼろで鉄筋がむき出しになっており,壁には落書きが見られる。落書きの古いものは20年以上前のもので,よく今まで残っていたものである。

  

散策路はさらに上へと延び,その石段は千年の歴史がある古寺のように苔がむしている。標高450mの山頂に展望台がある。コンクリートを打った展望スペースに「展望台」の古めかしい看板が立つのみである。

 

展望台を去り,再び道道を金山方面へ向かう。やがて金山市街に入り,国道237号に出る。

金山は幾寅,落合,東鹿越,下金山と並ぶ南富良野町の市街地の一つで,小学校,中学校,郵便局がある。明治33年に官設鉄道十勝線(根室本線)の金山駅が設置されたことにより開拓が始まり,同40年に富士製紙のパルプ工場が設置されてからは木材の集積地として発展した。また,国境を越えた占冠への入口でもあり,さらにもう一つ分水嶺を越えた右左布(日高町)も金山駅の駅勢圏にあり,往時は旅館が何軒も並んでいたという。

国道は右折,富良野方面へ500m進んだところで左折。トナシベツ方面に入る。

79.十梨別

まもなく左手に金山営林署の跡が見えてくる。無尽蔵の森林資源を有するといわれた金山や占冠(トマムを除く)を管轄した天下の金山営林署であったが,2001年8月,ついに閉鎖された。

しばらく道なりに進む。はじめは農地が開けており,農家が点々と続く。寂れてはいるが,下トマムのような閉塞感はない。金山市街から4kmほど走ると谷間は急に狭まり,砂利道となる。脇を流れる川はトナシベツ川。かつてゴールドラッシュに沸いた川である。

砂金掘りについて

砂金掘りが最初に入ったのは明治26年頃。一般の入植者がこの地方に到達する前である。砂金掘りは山師とも呼ばれ,流れ者のため記録には残り難いが,探検者を除けばこのあたりに最初に入った日本人は砂金掘りである。その頃には佐藤清吉配下の砂金採取団も入り,脇とよ著『砂金掘り物語』の舞台になっている。明治33年に駅ができた時にはアイヌ語地名のトナシベツではなく金山という駅名がついたほどに金に沸いていた。砂金掘りの最盛期は明治42〜45年頃で,その後何度か盛衰を繰り返し,昭和10年頃砂白金(イリジウム)で再度ゴールドラッシュとなったが,昭和20年には終末を迎えた。現在でも砂金はあるが,商売として成り立つ量はもう採れないという。

林道の途中には森林鉄道の遺構と思われる橋脚がある。

林道には危ういコンクリート橋が架かっているが,これらは昭和31年から32年に建設されたもう50年近く前の橋である。

造材について

金山には砂金のほかにもう一つ,造材の歴史がある。これにもいくつかのブームがあった。
1.開拓時代
最初の入植者が入ったときには,すべてが手つかずの原生林だった。木は余るだけあったが,売るところもないので,樹齢何百年の大木を惜しげもなく焼いて農地を開墾していった。道内の郷土館ではどこでも必ず開拓時代の大きな木挽き鋸が展示してある。明治の末になると北海道に製紙会社が進出し,パルプの原料となる木材の伐採が進んだ。冬に馬と橇で土場に原木を集め,夏に流送によって下流に運んだ。原木の販売を目的に農場や牧場の貸下げを受けた地主も多かったが,伐採が終わると退散した入植者も多い。
2.森林鉄道の時代
国有林では大正8年から,御料林では昭和4年から官行斫伐を開始し,このために森林鉄道を敷設した。道内で建設された森林鉄道は延べ1800kmを超え,ピークは昭和28年だった。トナシベツ川沿いの金山森林鉄道は昭和3年に敷設工事開始,昭和26年には延長12.3kmに達していた。
3.トラックの時代
昭和29年,洞爺丸台風が北海道に上陸し,莫大な風倒木が発生した。この風倒木処理を契機としてトラックへの切り替えが進み,森林鉄道に代わって林道が整備された。道内の主要な林道はこの時代(昭和30年代前半)に整備されたものである。トナシベツ川沿いの林道も昭和31年から32年にかけて建設されている。

祖父とトラック

私の祖父は戦後のトラックブームに乗って運送業を営んだ人だった。詳しい話は聞いたことがないが,金山や双珠別に来ていたというから,トナシベツにも入ったことだろう。中学の部活の試合で東山に来たとき,私の名札を見ておじいさんが話しかけてきた。昔,山で世話になった者だと言った。当時はたくさんの人夫を雇って木を運び出していたらしい。そのころは自動車自体が珍しい時代だったので,遠足の児童を荷台に乗せて運ぶという現在の貸し切りバスのような仕事もあったというし,冬になれば道路の除雪をしてみなに喜ばれたという。私の家にとっては古きよき時代であった。

林道を進んで3km。トナシベツ川にかかる羽衣橋が現われる。ここがいわゆるトナシベツ渓谷で,橋を渡ったところに駐車スペースがある。この先さらに数km奥まで林道が延びているが,ゲートがあって許可のない車は進入できない。

  

今来た道を引き返す。国道まで6.3km。国道を左折,さらに橋を渡ってすぐ左折する。

80.自由ヶ丘

道路はまもなく砂利道となるが,しばらく道なりに進む。急坂を登ると見晴らしの良い丘に出る。このあたりの地名を自由ヶ丘といい,戦後緊急開拓者20数戸が入ったところである。道路沿いには板張りの廃屋がいくつかある。おそらく離農から20年,30年はたっているだろうが,かつての庭には水仙が咲き乱れていた。

  

やや長い直線区間を経て,下金山の平和地区に入る。ここも戦後開拓地で,樺太引揚者など11戸が入植している。北海道ではこのような奥地でも人が住まなくなってから立派な舗装道路が整備される場合が多いのだが,ここは何か取り残されてしまったかのようである。砂利は堅く踏み固められており,舗装道路にはない風格を感じる。沢沿いには石積みの擁壁が築かれているが,これも戦後まもなく道路ができたときのままだろう。

  

再び人家が現われると下金山である。根室本線の西側に沿う下金山幹線道路を走る。気持ちの良い直線道路で,道路と線路の間に用水路が走っている。この水路は山部幹線水路といい,空知川の下金山頭首工から取水し,トンネルを経て山部のほぼ全域の水田を潤しているもので,昭和45年に完成している。

やがて右手に下金山市街と下金山駅が見える。駅は大正2年に設置。大正9年に東大演習林の森林軌道が西達布まで敷設され,木材や農産物の集積地なった。いまも広々とした構内に木造の危険品庫や貨物ホームが残り,往時の繁栄を偲ばせている。

駅を過ぎてまもなく踏み切りを渡って,国道を左折。150m進んで右の道に入る。

81.大橋

この道は国道237号の旧道である。空知川を渡ってT字路を左折。ここから砂利道となるが,やはり旧道独特の貫禄を感じる。現在国道38号と国道237号は東山やなぎの立派な三叉路で分岐しているが,かつてはいま走っている道の少し先,空知川と西達布川の合流点付近にあったようだ。したがってこの道路は途中から国道38号の旧道を走ることになる。東大演習林を抜けると,正面に車が往来する国道38号が見えてくるが,その手前に古い橋が架かっている。橋の名を「大橋」といい,昭和9年12月20日竣工とある。道路橋で戦前竣工というのものは非常に貴重である。

国道38号の富良野から東山に至る区間は昭和7年に着工され同9年に開通している。つまりこの橋は道路開通当初のものということになる。戦前は木橋が当たり前の時代で,国道38号にも昭和30年代まで木橋が残っていた。そのような時代にコンクリートで橋を造ったのも驚きだが,よく今まで流されることなく残っていたものだ。

橋の東側にコンクリートの橋脚が見えるが,これは森林軌道のものだろう。

 

南富良野と占冠の気質

富良野沿線とは上富良野町,中富良野町,富良野市,南富良野町,占冠村の1市3町1村を指す。しかしこれとは別に上富良野町,中富良野町,富良野市のみを指す三富良野という言葉があるように,富良野市以北の市町と南富良野・占冠はどこか気質が違っているように思うのである。
 それは富良野沿線の北側の市町は地味・気候が比較的恵まれており農業を基幹産業としているのに対し,南富良野・占冠は農業よりも山仕事が主であったことによると思う。古くは砂金が採れたし,農家も冬に造材作業に従事したり動物の毛皮を売って現金に換えたりしていた。この地方ではそのようにして,苦労して土地を耕さなくても,山でとれたもので暮らしていけた時代の名残をいまだにひきずっているような気がするのである。

(6) 富良野市西部へ