増毛山道(2)
岩尾入口~雄冬山~浜益御殿(2019.9.7訪問)
概要
増毛山道は2021年現在、一般開放が行われておらず、山道を歩くにはツアーなどに参加する必要がある。 ここでは、2019年9月7日開催の増毛山道の会主催トレッキング、岩尾発「雄冬山頂絶景パノラマコース」で歩いた区間について記述する。
明治33(1900)年に増毛町が成立するまで、いまの増毛には15の町村が存在していた。そのうちの一つ旧岩尾村の岩老集落と増毛山道本線を結ぶ支線をこのコースの前半で歩く。
幕末に開削された増毛山道であるが、明治20年代になると岩老以南で海寄りを行く雄冬山道が開削された。増毛山道から岩老に出る道は、1893(明治26)~1894(同27)年にかけて工事が行われた。以降、別苅~武好駅逓~岩尾~雄冬のコースが、戦後まで駄馬道として使われた。
岩尾入口から岩尾分岐まで約5km、海べりの集落から標高634mまで一気に上っていく。険しいながらも巧妙に沢を越えていき、人々が行き交った生活道路の雰囲気が残る。
一方、岩尾分岐から南は、大正時代のうちにほとんど廃道化していたというが、道の形はしっかり残り、国境の稜線を行く道は幽玄そのものである。途中雄冬山へは2017年10月に増毛山道からの連絡登山道が開削された。
浜益御殿から約4km下ったところ、標高522mの地点が幌国有林起点で、ここまで車道が到達しており、ツアーはここでゴールとなった。
みどころ
生活道路の面影を残す岩老の道
旧岩尾村は雄冬、岩老、歩古丹(あゆみこたん)の集落を有していた。このうち歩古丹には別苅から別の道が通じており、主に岩老、雄冬方面との往来にこれから歩く道が使われたことになる。海路もあったとはいえ、確実な陸路は住民の生命線だったに違いない。
岩尾温泉の上手が山道の入口。木橋を渡ると小さな畑がある。この先、かなり上のほうまで段々畑の跡が山道脇に続く。いたるところに見られる石垣は畑の土留めだという。海辺の村にとって、このわずかな畑でつくる自給用作物は命をつなぐ貴重な食料だったのだろう。
木橋の石積み遺構とマルヒラ支流渡渉
岩尾入口から2km余り歩いた頃、立派な石積みの遺構が現れる。木橋の橋台だという。いまの道幅からすると大げさにも思える遺構だが、往時はニシン粕を積んだ馬が、列をなして通行したそうだ。同じような遺構が、本線に出るまでに何か所かある。
その中でマルヒラ川支流の橋跡は水量が多く、増毛山道本線を含めて最も通行に注意を要する場所である。それでも流木を伝い、増毛山道の会の方の支えで、足元を濡らすことなく渡渉することができた。
このあとさらに岩尾分岐まで2時間近くをかけて登り詰める。道脇には武好駅逓付近と同様、電信線の遺構が多く残る。頭上まで鬱蒼とした樹木に囲まれた中を、道がトンネルのように続き、いかにも古道の風格が漂う。
いよいよ増毛山道の核心部へ
岩尾分岐で増毛山道の本線に合流し、いよいよ幕末から明治にかけて要人たちが行き交った山岳区間に入る。増毛山道に合流して間もなく車道が通じている避難小屋があり、ツアーではここで増毛特産のプラムやぶどうをご馳走になった。
岩尾分岐から約1.5kmに「仏の台座」がある。旅の安全を願い祈りを捧げた場所だという。仏の台座が標高約700m。ここから山容は険しくなり、山道最高所の標高1066m雄冬山分岐へ向けて上っていく。晴れていれば群別岳の山並みを望むことのできる場所がある。
象の鼻尾根と呼ばれる雄冬山北東尾根の鞍部を越えると、見事に苔むした木の根がまたぎながら進む並木道となる。
夏の雄冬山頂に立つ
従来雄冬山へは夏に歩ける登山道がなかったが、2017年10月、増毛山道と雄冬山山頂を結ぶ連絡登山道(400m)を開削された。2018年には増毛山道開削の祖である2代目伊達林右衛門の功績を讃え、山頂近くの眺望点が「林右衛門の座所」と命名され、 記念の標柱が設置された。
国境の稜線を歩き浜益御殿へ
標高1066mの雄冬山分岐が、増毛山道内の最高地点となる。このあといったん標高800m台まで下り、標高1039mの浜益御殿を目指す。浜益御殿まで、石狩・天塩国境の稜線を行く。かつて山道に沿っていた電信線は、冬季の保守が困難を極めて明治のうちに廃止されており、電信柱はもう残っていないが、ときおり柱の跡と思われる穴が道端に現れる。
雄冬山分岐から2時間近くをかけて浜益御殿に着く。近くに北海道最高所に位置する水準点がある。浜益御殿とは山の名だが、名前の由来はわかっていないという。
浜益御殿から石狩市(旧浜益村)に入り、南西の尾根を下るが、この先のことは幌~浜益御殿のページに書きたい。