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増毛山道

北海道内随一の長大な山道

増毛山道の歴史

日米和親条約締結による箱館開港を控え、幕府は1854(嘉永7)年箱館奉行(江戸幕府の出先)を設置、翌年蝦夷地を幕領化した。当時、北蝦夷地(樺太)で国境問題が生じており、海岸の警備のためにも蝦夷地の「開拓」が急がれていた。しかし、日本海側に陸路がなかったことから、1856(安政3)年以降、場所請負人*の出資により山道の整備が進められた。増毛山道は、雷電山道、濃昼山道などとともに、この時代に整備された山道の一つである。

*北海道の沿岸部において現在の「郡」に相当するエリアを、当時「場所」といい、場所における交易を商人に請け負わせていた。

ハママシケ、マシケ両場所請負人であった伊達林右衛門は、箱館奉行の命を受けて1857(安政4)年5月に、増毛山道の工事に着手、竣工時期は諸説あるが遅くとも翌年夏には全通を見ている。

全長約30kmに及び、西蝦夷地三険岬の雄冬岬を避けるため、標高1,039mの浜益御殿を越える過酷な山道となっている。開通以来、増毛に陣屋を置いた秋田藩士のほか、松浦武四郎、ライマンなど名だたる要人が通行している。

大正の頃には山道を歩き通す人はほとんどいなくなったというが、別苅から途中分岐して岩老に至る区間は、1981(昭和56)年に海岸線を通る国道が開通するまで、連絡船の運休時や選挙の投票箱輸送で使用された。

1993年以降、地元有志が道跡の調査を重ね、2010年にNPO法人「増毛山道の会」が発足。会員による道跡の伐採が数年にわたり続けられ、2016年全32kmの復元を完了した。2017年2月には国土地理院の電子地形図に山道が復活、2018年濃昼山道とともに北海道遺産に選定された。

増毛山道を歩く

増毛山道は2021年現在、一般開放が行われておらず、山道を歩くにはツアーに参加する必要がある。 以下、ツアーに参加した記録から、3つの区間に分けて紹介する。

(1)循環林道南交点~武好駅逓~避難小屋

(2)岩老入口~雄冬山~浜益御殿

(3)幌~浜益御殿

アクセス

2021年現在一般開放が行われていないが、沿岸バス留萌別苅線の別苅停留所近くに説明板、さらに山側に100mほど歩いた車道の突き当りに、増毛山道の会が建てた詳しい案内板がある。

「別苅」バス停近くにある旧増毛山道入口の標柱
山道入口(別苅口)の案内板

国道231号線について

雄冬は学校もある集落だが、長らく車が到達できる陸路がなく「陸の孤島」と呼ばれていた。ようやく1981(昭和56)年になり国道231号線が開通するも、1か月余りで雄冬岬トンネルの崩落事故が発生、1984(昭和59)年5月再び全通を見た。

この段階では、歩古丹~大別苅間は山肌を縫う九十九折れの道路で冬季は通行止めだった。1992年10月、現在の国道が開通して自動車の通年通行が可能となった。また、同年をもって増毛と岩老、雄冬を結んでいた定期航路は廃止された。

国道231号全通前の道路地図(「ミリオンデラックス道路地図帖1980」)。
雄冬岬にある開通記念碑