2003年12月,神田の秦川堂書店で購入。1000円。昭和4年初版で本図は同8年発行の第50版である。広げると幅3メートル以上になる折りたたみ式の地図で,将棋盤が付いているのがユニーク(見開き2ページに桝目が引かれている)。昭和8年といえば市丸が「天龍下れば」で,小唄勝太郎が「島の娘」で,赤坂小梅が「ほんとにそうなら」でヒットし歌謡界に新風を巻き起こした年。地図からもそうした時代の勢いが伝わってくる。
深川周辺
大正時代までに幹線の鉄道はおおむね完成し,このころは支線がどんどん建設されていった時代。深名線は昭和7年10月に朱鞠内まで開通しているが,全通は同16年のことである。羽幌線も全通は昭和33年のこと。札沼線は札沼北線として沼田側のほうが早く昭和6年10月に中徳富(現新十津川)まで開業している。昭和9年には札幌側も石狩当別まで開業し,翌10年全通。
旭川に見える「○に★印」の記号は師団司令部所在地を示す。旭川は昔も今も軍都である。
根室付近
根室からさらに東に根室拓殖軌道が延びている。昭和4年全通。当初蒸気機関車が走ったが,昭和7年からはガソリンカーが導入された。「銀龍号」で現在でも鉄道ファンによく知られる存在である。
厚床から標津までの鉄道が描かれているが,この地図の刊行時点で標津線は開業していなかったはずである。開業を見越して記載したものか。あるいは殖民軌道根室線を示しているとも考えられるが,他の殖民軌道が掲載されていないのに根室線だけ載っているというのも妙である。
落石岬に見える「○にW」の記号は無線通信局を示している。落石無線局は明治41年日本が国際無線通信を開始するにあたって設置されたもので,昭和4年ツェッペリン号,同6年リンドバーグ号と交信を行ったことでも知られる。昭和38年に廃止されたが現在も岬にコンクリートの廃墟が残る。
帯広付近
この年4月1日,帯広町が全国220番目の市に昇格した。当時の人口32000。
大正8年4月に地方鉄道法交付。以後国の補助を受けながら急速に民営の地方鉄道が敷設されていった。河西鉄道や北海道拓殖鉄道はそうした地方鉄道である。河西鉄道は甜菜の輸送を目的とし,清水−鹿追間と北熊牛,南熊牛,上幌内への支線を合わせて約40kmの路線を有していた。戦後十勝鉄道と合併したが昭和26年廃止。
北海道拓殖鉄道は昭和6年までに新得−上士幌間が開通。計画ではさらに足寄へ延伸し,網走への短絡線となる予定だったが,昭和4年に石北線が開通したことから上士幌以東は建設されなかった。昭和43年8月までに全線廃止された。
根室本線新内−落合間にトンネルの記号が見える。蒸気機関車での峠越えは列車の乗客にとっても大変なことであったろうから,このようにわざわざトンネルの位置が示されているのだろう。
胆振線
明治43年,より安上がりに鉄道を建設するため,線形や車両の基準を緩和した軽便鉄道法が成立した。民間では定山渓鉄道も軽便鉄道の免許を得て開業した鉄道の一つであるが,官設でも湧別軽便線,萬字軽便線などその後の国鉄線の前身として軽便線で開業した路線がある。地図に見える京極線は脇方の鉄鉱石を搬出することを目的に官設軽便線として建設されたもので,大正8年に京極軽便線として京極まで開業,翌年脇方まで延伸した。大正11年9月,京極線と改称。
よく知られているように倶知安経由の函館本線に比べて,内浦湾沿いの室蘭本線の歴史はかなり浅い。北海道の交通体系を激変されるがゆえ政治的駆け引きもあって建設が遅れ,全通は昭和3年9月である。長万部−東室蘭間は当初長輪線として開業し,昭和6年に室蘭本線に改められた。本図ではまだ長輪線の文字が残っている。駅名も小鉾岸(おふけし,現大岸),辨邊(べんべ,現豊浦),虻田(現洞爺),長流(おさる,現長和),黄金蘂(おこんしべ,現黄金)と現在とは異なる文字が見える。
京極と伊達紋別を結ぶ旧胆振線ルートは改正鉄道敷設法に掲げられていたが,国の建設を待たずに私設の地方鉄道として京極−喜茂別の胆振鉄道が昭和3年に開業した。同じく喜茂別−伊達紋別間も地方鉄道の胆振縦貫鉄道として昭和16年に開通する。京極−伊達紋別間は昭和19年7月に国有化され,京極線とあわせて胆振線となった。
これらの鉄道の大きな目的のひとつは脇方の鉄鉱石を室蘭へ輸送することだったが,はじめは倶知安,小樽,岩見沢経由の大回り経路だったのが,次に長輪線経由となり,大戦開戦後にようやく胆振線が開通したのである。
登別温泉軌道は大正4年12月,馬鉄で営業開始。大正7年に蒸気軌道,同14年に軌間1067mmの電気軌道となり,道内では札幌,函館の路面電車に次ぐ電化路線となった。しかしバス転換により早くも昭和8年10月廃止される。
洞爺湖電気軌道は地方鉄道の一つとして昭和4年1月開業。洞爺湖温泉への行楽客のほか,洞爺鉱山の鉱石を輸送する予定だったが,電鉄の開業後まもなく鉱山が閉山し,そのため経営は振るわず昭和16年5月に廃止された。
東札幌付近
千歳線が地方鉄道の北海道鉄道株式会社の路線だった時代。函館本線の苗穂駅で国鉄線に接続している。現在函館本線と千歳線の分岐駅が白石駅であるにもかかわらず千歳線の起点が苗穂となっているのはこの当時の名残である。
一方,定山渓鉄道は白石駅が起点であり,東札幌で両線が交差していた。定山渓鉄道は昭和4年10月電化。また北海道鉄道は昭和6年7月に東札幌−苗穂間を電化し,定山渓鉄道の電車が北海道鉄道経由で苗穂まで乗り入れた。定山渓鉄道の東札幌−白石間は終戦前の昭和20年3月に廃止される。
樺太・満州・朝鮮・台湾
外地についても内地と同格の鉄道地図が掲載されている。
十和田湖
観光地についてはきれいな鳥瞰図がついている。残念ながら北海道の観光地は取り上げられていない。
宗谷線路線案内
裏面は路線別名所案内となっている。碧水峡とは現在の層雲峡のことであろう。一名雙雲峡と記されている。層雲峡とは大正10年に大町桂月が訪れて命名したものだが,このころはまだ一般に普及した名前ではなかったのだろうか。
途中下車の取り扱い
鉄道の規則関係もひととおり掲載されている。途中下車の回数制限の規定が設けられたのは大正5年で,昭和7年に回数制限は撤廃されている。本図ではまだ新情報に訂正されていないようである。