昭和・北海道地図資料館

最新日本交通図

昭和20年 興亜協調会

昭和20年9月10日印刷,9月20日発行と,8月15日の終戦からひと月ほどで出版された地図である。凡例には「要塞地帯」の表示が残っているものの,地図上では消去されており,終戦後すぐに版を改めて印刷されたものと思われる。中身は折りたたみ式の鉄道地図で,内地のほか,樺太,台湾,朝鮮,満州,中華民国の鉄道地図,東京付近の拡大図がついている。地図の内容としては,私鉄線の駅が詳細に掲載されているのが特徴的である。旅行案内や広告の類は一切ない。
奥付
印刷は東京の東方美術印刷。空襲で東京の印刷業界は壊滅的打撃を受け,切手やお札でさえ粗末な平版印刷しかできなかったときに,よくもカラーの地図を印刷できたものである。紙は粗悪な酸性紙で,変色が著しくぼろぼろである。
配給元は戦時下の出版物取り次ぎを一手に担っていた日本出版配給株式会社。定価はマル停2円とある。「マル停」とはインフレ抑制のために昭和14年に公布された価格等統制令による価格停止品を示しており,同年9月18日から価格が上がっていないことを意味している。しかし例えば昭和15年の全国版時刻表は定価30銭で販売されており,この当時で2円というのはあまりにも高すぎるのではないか。

 

表紙
すっかり紙が変色してしまっているものの,表紙は美しい多色刷りである。毒々しい単色刷りに戦意高揚の標語が並んだ戦時中の出版物とは異なって,ふと力の抜けたような雰囲気が漂っている。
日本の交通機関は終戦時にもいちおう秩序だった運行体制が維持されていた。最悪の状態に陥ったのはむしろ敗戦から1〜2年経ってからで,炭鉱の外国人労働者が帰国したことによる石炭不足が大きな要因だった。


凡例


北海道・樺太・千島列島

稚内と大泊(現コルサコフ)を結んだ稚泊連絡船は,8月24日に稚内に着いた宗谷丸が最終便となり,以後樺太との交通は遮断された。千島列島は終戦後もしばらくロシアとの抗争状態が続き,日本が全面降伏したのは9月に入ってからのことである。


函館付近

森〜砂原の渡島海岸鉄道,大沼〜鹿部の大沼電鉄が掲載されているが,終戦直前の昭和20年6月に鹿部,砂原経由で大沼と森を結ぶ国鉄砂原線(通称)が開通している。砂原線は函館本線の複線化を目的として建設されたもので,森〜砂原間は渡島海岸鉄道を昭和20年1月25日に買収,大沼からは電鉄と別ルートで砂原に向けて線路が建設された。大沼電鉄は砂原線開通に伴い営業をとりやめ,戦後一部区間が復活したものの,昭和27年に全線廃止された。

一点鎖線は国境を示している。野田追と山越の間を渡島胆振国境が横切っている。山越は日本最北の関所が置かれた場所として知られているが,まさに国境の町だったのである。もともとは1801年に東蝦夷地が幕領化された際に和人地と蝦夷地の境界として番所が置かれたところで,東蝦夷地への人の出入りを監視していた。明治になって国が定められたときも,このような経緯を考慮して,地形的には半端なところに国境が引かれたのであろう。

函館付近に要塞地帯の表記が残っているが,全国でここだけ残っているので削除漏れと思われる。


苫小牧付近

千歳線と富内線が私鉄線として表記されている。両線とも北海道鉄道株式会社線として敷設されたものであるが,昭和18年8月に戦時下の交通網強化のために超法規的に国に買収されている。この時期,同様に国有化された路線として,前出の渡島海岸鉄道と,伊達紋別〜京極の胆振縦貫鉄道がある。

佐瑠太〜平取の沙流軌道は製紙原木輸送のために敷設された王子製紙の私設軌道で,大正10年開業,昭和27年に廃止されている。佐瑠太は現在の富川駅で,「著名駅」の記号で表記されている。道内で著名駅扱いになっているのは佐瑠太のほか五稜郭,倶知安,小樽築港,岩見沢,深川,新旭川,名寄,南稚内,東釧路,北見,網走,夕張,留萌である。佐瑠太がこれらの駅に匹敵する格を有していたのかどうかはわからないが,現在でも富川は知名度があり,富内線は富川から分岐していたと誤解されるケースが多い(実際は鵡川で分岐していた)。錦多峰(にしたっぷ)は現在の錦岡,波恵(はえ)は豊郷,慶能舞(けのまい)は清畠に改称している。


釧路付近

城山〜東釧路〜入舟町の私鉄線は太平洋炭鉱の石炭を運んだ釧路臨港鉄道である。現在も春採〜知人間4.0kmが貨物専用線として残っており,釧路コールマインで出炭された石炭を港へ運んでいる。

足寄と上利別の間を釧路十勝国境が横切っている。足寄から北は利別川が国境をなしていることから線路が川を渡るたびに両国を行き来することになり,上利別の後,大誉地で十勝に戻り,陸別でまた釧路に入っていた。この当時足寄は利別川を挟んで釧路国足寄郡足寄村と十勝国中川郡西足寄村(昭和25年町制施行)に二分されていたが,昭和30年に合併して足寄郡足寄町が成立している。


根室標津付近

根室標津と斜里の間が計画路線として表記されている。工事は昭和12年に開始されたが,戦争による予算削減でこの当時は工事が中断していた。このうち斜里〜越川間は根北線として昭和32年に開通をみているが,赤字日本一になるなど営業成績が悪化し,昭和45年に廃止されている。また,未開業区間には壮大な10連コンクリートアーチをなす越川橋梁が現在も残っており,国の登録有形文化財に指定されている。

古樋は現在の浜小清水,猿間川は中斜里,上斜里は清里町,札鶴は札弦,上札鶴は緑である。藻琴から山園に延びている線路は北海道殖民軌道藻琴線で,昭和28年に東藻琴村営軌道となった後,同40年に廃止されている。

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