昭和・北海道地図資料館

日石 ROAD MAP HOKKAIDO

昭和36年 武揚堂

いよいよ「道路地図」の登場である。「地図=道路地図」と思いがちだが,道路地図は地図の一つの種類でしかない。老舗の地図出版社・武揚堂が道路地図の出版を開始したのが昭和32年であるから,本図は草創期の道路地図として興味深い。
昭和30年代に入るとオート三輪が大衆向けの貨物自動車として人気を呼ぶなど,自動車が急速に普及していった。日本の自動車保有台数は,昭和31年に100万台,35年に200万台,36年には300万台を突破した。しかし,そのうち乗用車は1/5程度と推定されるから,マイカーを持っている家は50軒に1軒ぐらいだったと思われる。仮に車があったとしても,乗用車が走れるのは町の中だけ。少し郊外に出れば国道とて馬車道同然の泥道で,ぬかれば自分で積んできた丸太を敷いて脱出しなければならないこともたびたびあったという。橋もコンクリートの永久橋は珍しく,幹線国道でさえ数年に一度は流されてしまう木橋が多く残されていた。
本図は祖母からもらったもののひとつである。この頃祖父が運送会社をやっていたので手に入ったのだろう。かなり使い込まれておりぼろぼろである。


ドライブ前の点検事項
整備の基本は今も昔も変わらない。昔は自動車免許の取得時に整備士並みの技術を習得させられたという。車の故障が多いうえ,自動車修理工場が少なく,自分で車を修理できなければ運転できなかった時代である。


亀田半島
函館の近くに見える亀田村は翌37年に町となり,46年には市になっている。銭亀沢村は41年に函館市と合併。国道は色の濃い部分が舗装を示していると思われ,舗装は函館近郊のごく一部に限られていたことがわかる。また函館〜七飯,函館〜大野など横線の網が入っている部分は改良済区間を示していると思われる。この区間は今日でいう砂利道の形態をなしていたと思われるが,それ以外の部分は馬車道同然の泥道で,あっちこっちぬかりながらよれよれと進んでいかねばならない険路であったと思われる。KAMEDA-HANTO PENINSULA,CAPE SHIOKUBI-MISAKI,HAKODATE-WAN-BAYなど英語表記が粋である。


大沼付近拡大
文字は手書きのようだ。こんな小さな文字を明朝体で書くとはまさに職人技だ。


古い割にしゃれた道路地図であるが,大変残念なことに破損により北海道の南側1/4しか残っていない。

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