昭和・北海道地図資料館

ニューエスト北海道道路地図帖

昭和42年 昭文社

いよいよ冊子型の道路地図の登場である。昭文社は今では道路地図の市場を独占しにかかろうとしている大出版社であるが,このころはまだ会社創立から7年しかたっておらず,地図の中身も発展途上という感じがする。昭文社のウェブサイトによれば,昭文社初の本タイプの道路地図帳は昭和47年のグランプリ地図帳であるとされている。しかしなぜかここに昭和42年刊の冊子型のニューエスト地図帖がある。一方,東京地図出版のウェブサイトにはミリオン道路地図の創刊が昭和41年であるように書かれているが,こちらも少なくとも39年にはミリオン道路地図帖が存在したことが知られている。地図出版社は自社の地図でさえ歴史をおさえていないのであろうか。いずれにしても本地図は冊子型の道路地図帖としてはごく初期のものと思われる。
本地図は祖母からもらったものの一つである。全体図は冊子版の地図帖にしては縮尺が小さめの1/600000だが,市街地詳細図や1/200000の都市周辺図が豊富についており,今の昭文社の地図にはない面白さ,味わい深さがある。現在の地図帳は重厚長大化の傾向があるが,A5版というサイズも今また見直されていいと思う。日常の持ち歩きや汽車旅にはこのサイズが便利なのだ。現在A5版を採用しているのは「ツーリングマップル」が唯一である。
表紙の写真は国道36号の島松付近である。現在は高速道路のような新道ができて見違えるようになっているが,この旧道も残っている。国道36号は昭和28年に道内初のアスファルト舗装が施工され,弾丸道路と称された。


凡例
舗装済,改良済,未改良で表示を区分している。昭和42年の時点で道道・国道の舗装率は約27%,改良率は約42%だった。舗装率はこのあとの5年間で倍増する。


道路標識
見開き2ページに渡って紹介されている。現在のものとおおむね変わらないが,「方面・方向及び距離」の標識が現在のものと違う。このタイプは昭和46年に消滅しているので,現在まれに残っているものは30年以上前に設置されたものということになる。(参考道路標識の変遷


深川付近1/600000
本図の大きな特徴の一つは鉄道の予定線が表記されているということである。大正11年公布の改正「鉄道敷設法」には別表に膨大な数の鉄道予定線が掲載されていたが,そのうち紅葉山線,狩勝線,日勝線,北十勝線,名羽線,興浜線及び岩内線,白糠線,根北線,美幸線の延長区間が本図に掲載されている。上の地図では芦別から深川に至る芦別線が見える。芦別線は実際に工事が一部行われたので,芦別〜石狩新城間は未開業路線として掲載していた地図も多く見られたが,その先深川までの区間も載せている地図は珍しい。
札沼線の新十津川から北の区間は昭和47年6月廃止。深川市の北の多度志町は昭和45年4月1日に深川市と合併した。


江別付近1/200000
札幌近郊にしてはずいぶんと田舎っぽく見えるが,これは地図の描き方の問題もあろう。江別市の人口は昭和42年で約50000人。現在の半数以下だったが,前年比10%増というような急激な人口増加を示していた頃でもある。
国道12号は江別駅前を通っている。北海道で最初に舗装された国道が36号であり,高速道路ができたのも千歳方面が先であるが,北海道の第一の幹線が国道36号かといえばそうではなく,北方警備,食糧・資源の供給という明治以来の北海道の役割を考えれば,やはり国道12号「中央国道」こそが北海道を代表する幹線だと思う。
野幌駅から分岐している夕張鉄道は昭和50年10月1日廃止。現在線路跡がきらら街道という農道になっている。江別市街の南には筋違,トマン別など今の地図にはない地名が見える。
現在は国道12号の裏街道として交通量の多い国道275号はまだ国道に指定されておらず道道11号を名乗っていた。当別以北は大半が未舗装で,通る車は少なかったと思われる。この道路は泥炭地を走るため舗装されてもすぐに路面がぼこぼこになり,快適に走行できるようになったのはつい最近のことである。
南西端に見える「つきさっぷ(月寒)」駅は昭和48年9月に千歳線切替により旅客営業を廃止し,その後貨物駅としてしばらく残ったが,50年10月1日で廃止された。


留萌市街詳細図1/17000
現在は留萌本線の通過点に過ぎないが,この頃はまだ羽幌炭鉱鉄道,天塩炭鉱鉄道,昭和炭鉱留萌鉄道という留萌を拠点とした炭鉱鉄道があり,多数の引込み線があった。副港は現在一部埋め立てられている。


釧路市周辺図1/200000
雄別鉄道,鶴居村営軌道が現役。現在雄別鉄道跡は国道44号,道道113号釧路環状線,道道835号釧路阿寒自転車道線として利用されている。別保駅からは炭鉱への線路が延びている。
釧路と網走を結ぶ現在の国道391号は道道16号を名乗っているが,この道の歴史は古い。この道路開削の過程で置かれたのが釧路集治監網走囚徒外役所,のちの網走刑務所である。遠矢〜達古武の仮監峠は旧道。峠の名は道路開削時にここに仮監獄署が置かれたことによる。
釧路〜鶴居の道道は新釧路川右岸堤防を走っているが,やはり湿原のど真ん中に道路を通すことは技術的にも問題があったようで,現在は西の丘陵上を通り,北斗展望台などから湿原を展望できるようになっている。なおこの地図では新釧路川・釧路川となっているが,この年釧路川が一級河川に指定されたのに伴い新釧路川→釧路川,釧路川→旧釧路川への名称変更が行われた。しかし,旧はマイナスイメージがあることから市民の要望を受け,2001年4月に再び新釧路川・釧路川へと戻された。


余白には簡単な市街地の案内図が掲載されている。上の3つの町はいずれも鉄道がなくなっている。

 
近年まで残っていた北海道の二大渡船。石狩カーフェリーは昭和47年7月石狩河口橋開通に伴い廃止(渡船は昭和53年3月まで運航)。厚岸フェリーも昭和47年の厚岸大橋開通により廃止された。


江部乙町は昭和46年に滝川市と合併。合併当時の人口は7000人以上あり,今も駅前には立派な市街がある。
上富良野町は昭和63年に上富良野バイパスができるまで市街地を国道が通っていた。薬局,酒屋,金物店,呉服店はマルイチ十字街を示しているが,本来は国道の交差点にあり,地図が誤っている。
富良野市街は国道237号の経路が現在とまったく異なっている。国道38号から市役所正面で分岐し,「本通り」に入り旧金市館の角で左折,現在の国道を横断して西中の脇を通り現在の道道奈江富良野線のルートで根室本線の踏み切りを渡り,さらに富良野川を渡ったところで富良野線の踏切を渡り現在の国道に合流するというのが旧ルートである。

昭和・北海道地図資料館