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2. 鬼峠情報交換会

2008年2月10日(日)

●富良野駅前12:55発 上双珠別行き占冠村営バス

今年は天気が良くバスが遅れる心配もなさそうだったので,開拓者達の入植ルートをたどって,富良野から石狩金山経由で占冠に入りすることにした。富良野駅前はこの数ヶ月の間に様変わりして,立派なバス乗り場ができた。占冠村営バスは誉れ高い1番乗り場から発車する。

石狩胆振国境の金山峠にさしかかる。この峠は占冠と根室本線の金山駅をつなぐ占冠開拓以来の生活道路で,除雪が開始された昭和30年以前の今時期であれば,馬そりが列をなして行き交っていたはずである。

昨年10月21日に道東道がトマムまで延伸したことにより,交通量が激増した占冠市街。

富良野から約1時間半で双民館に到着。ほほ同時に取材陣も双民館入りし,いきなり物々しい雰囲気になった。

道内外から参加の方も既に到着していた。受付を手伝っていただいた方,お疲れさまでした。

ニニウからやって来た熊さんは今年も健在。

●15:00〜 鬼峠ミーティング開催

まずは,山本さんから開催趣旨説明があった。

今年のテーマは「人と人のつながりを鬼峠やニニウを通じて強くする」ということ。それは,昨年のフォーラムで思いがけず多くの人が集まり,鬼峠やニニウには人を引きつける力があるということを感じたからで,村民と外から来た人が交流し,そこから何かが生まれることを期待しているとのことだった。

●15:10〜 鬼峠情報交換会

最初の1時間は,「鬼峠情報交換会」として,参加者全員が自己紹介をし,ニニウや鬼峠にまつわる思い出を話していった。

人の前で話すのが苦手な人もいるだろうと心配したが,「予定調和ではない,生の感情が触れあえる場を作りたい」という山本さんの意向で,順番に自己紹介をしていく。

結果としては,心配は無用だったようで,みなさん結構熱い思いを語られていた。こういう機会でもなければなかなか聞けない話ばかりで,ニニウや鬼峠についてそれぞれの思いを聞くことができたのは貴重なことだった。

中でも,昭和40年から教育委員会に勤めていたという方の,「ニニウはすごく温かい場所だった」というお話しは印象的だったように思う。

一方,村外からの参加者の,駅前で自転車を借りて何度も回ったという話や,キャンプ場に毎年通っているという話,ドラマ「鬼峠」がきっかけで占冠に来たというような話は,村の人たちに新鮮な驚きを与えたことと思う。

以下,発言順に発言要旨を掲載する。文中に出てくる名前は故人を除きすべてイニシャルとさせていただいた。

1 料理隊長です。本業は占冠村観光協会で,道の駅におります。
だいたいこういうのをやると料理隊長になりまして,それは本人が楽しんでやっているのですが。今回,Y君と話していまして,もっとこぢんまりと何人かでやろうというお話しでしたけれども,だんだん広がってきまして30人近くおられるということですけれども,料理のほうも結構おもしろく,「えっこんなもの食べてたの」というものもあると思いますので,ぜひ楽しんでいってください。よろしくお願いします。
2 今日はKさんの右腕にはなれませんが左腕くらいで,料理の指示を受けつつやっております。
料理は作っている人間が実際に食べたことのないものを作っていますので,昔のニニウの味はよくわかりません。でもこういうものだったのかなと思うものを再現できたと思います。非常に珍しいものなので,一口ずつは必ず食べて帰っていただきたいと思います。
3 今日は料理班の猫の手に採用されまして,隊長の指示のままに動いています。昔ニニウで食べられていたものをさっき味見をしましたが,なかなか懐かしい味というか,こてこてしたものではないのですが,素晴らしいものができあがっていたようなんで,後で食してください。1990年に占冠に来ました。もともと占冠村民の方がもっといらっしゃると良かったと思います。
4 富良野で新聞記事を見て日高町から参加しました。
なぜ鬼峠に関心があったかというと,石勝線工事中に鬼峠という名を聞き,どんなところに鬼という言葉が出たのかと思っていました。日高のHさんという方からニニウで苦労したという話も聞いたことがあります。そんなことから関心を持ち,どんなところなのか知りたくて,今日はお邪魔した次第です。
5 ここを管理しています。よろしくお願いします。
6 愛知県弥富市から来ました。初めて占冠を訪れたのは85年の7月,駅から電車に乗って来ました。それから何度も,通過することの方が多かったのかもしれませんが,昨年は9月に子供を連れて道の駅に寄らせていただいたりしています。今回はいつも通り過ぎるだけの双珠別の学校に入れて大変嬉しいです。
7 旭川市から来ました。Tさんのサイトでニニウの歴史を知りました。
北海道内を趣味で廃校や廃線をまわっていますが,炭鉱など消えてしまった町はたくさんありますが,その中でもニニウはあれだけの峠を越えなければ行けない場所に集落があったということで,大変な場所に住んで方がいたということを知りました。
占冠村は旭川と同じ上川支庁にありますが,寒い場所だというイメージがありまして,テレビで氷点下35度になったのも見たことがありました。去年の鬼峠フォーラムで始めて占冠に来ましたが,ニニウの学校には行ったことがなく,今年こそはどんなことがあっても訪れないと,と思っています。
去年も楽しく参加させていただきました。ただ体力的な自信がないので,鬼峠は越えられないのですが,今日は地元の皆さんと話ができたらと思っています。
8 深川市から来ました。平成2年頃,たまたま女房と一緒に根室まで行った帰りに,夜も遅いので早く帰りたいと思って地図を見るとニニウを通る道があり,どんな道が知らずに通りました。女房は怖い思いをしたみたいですが,私はむしろ楽しくて,夜でしたから昼にどんなところか行ってみたいと思っていたのですが,それ以来なかなか来る機会がありませんでした。
Tさんのホームページを見てこんなに詳しく調べている方もいるのだとびっくりしまして,何度かメールでやりとりをしました。
その後仕事で浦河に行くことになり,ニニウのサイクリングターミナルや湯ノ沢温泉に泊まったこともありました。今日は5年振りくらいで来ましたが,来てみたら相変わらずで良かったです。
去年もお誘いいただいていましたが,調整がつかず参加できませんでした。報告を見ると内容が濃く,今年こそは何とか行きたいと思って参りました。明日は万が一滑落したら迷惑がかかるのでやめておきます。
9 昭和2年生まれ,占冠村に入ったのが昭和10年ですから古株です。
昭和22年の10月に役場に臨時雇いで入り,それから70歳まで役場にお世話になりました。その間はいろいろなことをやりました。やらなかったのは収入役と助役だけという感じでした。
昭和27年くらいから衛生係をやっていましたが,その当時鬼峠を越す以外に道がなかったんです。三里三里といっていましたから12キロですが,非常に厳しい峠でした。
ただ楽しみなのは村内でトマムは別として,歩いて行って1泊できるのはニニウだけだったんですね。そこで蕎麦とか焼酎とかニニウのご馳走を食べながら一晩飲み明かして,仕事に行ったのか飲みに行ったのかわかりませんけれども,また歩いて帰ってきました。とにかく鬼峠を歩く以外になかったのです。
頂上に東屋がありまして,そこでまず一服して,いちばん手前に早見さんという家があったのですが,そこがニニウではいちばん近いところでした。今は逆になりまして,沢沿いに道ができて,学校のところかいちばん近くなりました。
衛生係でしたから予防注射や,映画会などもやりました。映写機やレントゲンなんかも持っていくので大変な苦労をして上って下りて,健康診断なんかをやったことが思い出されてきます。映画会をやりますと,アンコールがかかりまして夜中の2時までやりました。
ニニウの人は苦労したと聞いておりますが,伊藤ハツという婆さんがいまして大正7年にニニウに嫁に来たのですが,汽車がすぐ来ると言われてお嫁に来たそうですが,鉄道が実際に走ったのが昭和56年10月です。「いやだまされた」と言っておられましたが,汽車が走ったのを見てその方は亡くなられました。そう言う逸話もあります。
僕らがいなくなったらニニウのことがわからなくなるのではないかなと思いますので,何か聞きたいことがあったら何でも聞いていただきたいと思います。
今日のフォーラムを開いてくださいました関係者に心から感謝申し上げます。
10 昭和22年生まれで,昭和57年に占冠に来て歯科診療所をやっております。
ニニウは昔,砂利道のときから行っています。
吊り橋の下に深い水たまりがあって,大きなニジマスがいました。僕は釣ったことがないのですが。
札幌に行く途中石勝線でニニウを通ると,高速道路ができて,ニニウがどんどん変わっていきます。昔が懐かしい一面もありますし,道路ができてどう変わっていくかという楽しみな一面もあります。昔の思い出ばかりにも浸っていられないんで,高速ができたらできたなりの効果をアピールすることを考えていってほしいと思います。来年は鬼峠サミットを。
11 地元です。
12 昭和41年生まれです。22歳まで大阪にいまして,高度成長のまっただ中の大阪で育ちました。学校を卒業してトマムへ就職で来ました。それ以来,平成元年からですから,もう20年目です。こう見えても割と長いんです。占冠でしか働いたことがないというのが自慢です。
最初はこんなに長くいようとは思ってもいなく,何となく来たのですが,いるうちにだんだん楽しくなって,トマムをやめるときも,占冠でしか会社をやろうとは思っていませんでした。
いまはデザインを主な仕事としていて,パンフレットやホームページを作っています。できることを何でもやろうと思っているので,例えば北海道新聞の通信員をやったりとか,日高高校の講師をやったりとかいろんなことをしています。
今日はいろいろなところからたくさんの方がいらしていただいているので,非常に嬉しく思っています。
こういうコミュニティは,6月に山菜市というのをやっているのですが,山菜を採ってきて,天ぷらにしたり料理して観光客や通過する方に道の駅で振る舞うというイベントですが,それと同じように,観光協会が主催でやっているとか,役場が開いているとかそういうことではなくて,まったく一般の市民が集まってやるというスタイルを何とか根付かしていきたいと思っているので,またいろいろな機会で参加をいただければと思っています。
13 本別町から来ました。鬼峠に関心を持ったのは,20数年前に「鬼峠」というドラマがありまして,そのドラマに非常に感銘を受けました。鬼峠とはどういうところなのだろうかと,ニニウというところの昔の方々の苦労が偲ばれました。私も田舎の生まれなのでこういう消えていった山村は多いものですから,こういう集いはいいなと思います。語り継いでいくのが我々の使命なのではないかなと思っています。
ちょうど鬼峠やニニウに興味に持ったところで,Tさんのホームページ見て行ってみたいなと思ったところで昨年案内がありまして,参加しました。
14 昭和11年生まれです。占冠に来たのは昭和29年の7月21日でございました。
42年間役場に勤めて,役場では村長と助役と教育委員会以外の仕事はだいたいやりました。
最初は森林組合に入ったのですけれども,ニニウ林道がちょうど工事を始める年で,9月に入札をやりまして,その現場監督をやったわけです。
ニニウ林道の工事はAさんの入り口から,赤岩の岩石を掘り割りして200メートルくらい行ったときに資金がなくて万歳したんです。道の5割補助でやっていたもんですから。
それでその後お偉方が陳情して,赤岩橋を国有林で作って左側に渡ってニニウまで開通したんです。
あの辺は山の木がすごかったものですから,宮下橋から左岸に渡って,赤岩のほうから材を出したものです。
赤岩のほうに行くのには,赤岩から1キロほど上に吊り橋が1本あったのです。ちょうど今でいうとラフティングの船を上げるところです。そこに流送小屋があって,そこまで林道工事をやったんです。金がなくて。
技術屋だったんだけど"サ"技師だったものだから,その後,衛生関係や民生関係をやったんです。
ニニウの鬼峠をキャリアで映画を運んで,結核検診なんかもやって,一晩中映画をやったものです。
今日もこういうことをやるということで,私の写した8ミリがないかなということで探しましたら,こんだけ撮ってあったのですよね。
その中から今日はかいつまんでやるのですが,いろいろなものが入っていますから,それと機械が良いものですから,昔の映画を思い出して,活弁時代よりはちょっと良いかなと思います。活弁時代ってみんな知っていますか。
確かこの中に入っていると思うのですが,37年8月の水害の時に,老人クラブと一緒に登別に旅行していたんです。2日の日に苫小牧で昼ご飯食べたときに,非常に雨が強いから気をつけれと言われて帰ってきて,本当はトマム廻りで帰るはずが危ないものだから中央へ入ってきたのです。年寄り連中に怒られちゃって,嘘言ったって。こちらで用意してもらった別なバスに乗ってトマムに帰ってもらったんです。次の朝は中央市街が埋まってしまいました。
そんなこんなで,こういうものがあるからと言ったら,Yさんが一緒にやるべといって,ひどい目にあっているんです。これほんとは全部見てもらえばいちばんいいんだけども,そうはいかないんで。
15 10年前にトマムのホテルで3年間くらい働いていたんですが。そのときにYさんには,いろいろ遊びに連れて行ってもらいました。今日は鹿肉が食べれるということでそれだけで来たんですが,そうそうたる参加者で。勉強して帰ります。
16 この村に住んでいます。自然の動物とかを撮る仕事をしています。
今もニニウは自然の写真を撮るフィールドとして関わっていますが,この村に来た12年前は仕事場として行っていました。村の牧場に住み込みで働いていたのですが,その牧場の草地がニニウにあって,そこで牧草を刈ったりとか,そういう仕事を1年間やりました。今も昔もニニウは仕事場になっています。
17 札幌市厚別区から来ました。占冠に始めて来たのは今から10年前で,そのときは中学3年だったと思いますが,富良野駅前から占冠の村営バスに乗って駅まで来て。そのときは物産館だけちらっと見て帰ったのですが,結構風景とかが印象的で,高校1年の時にまた列車で占冠に来て,そのときは自転車を借りて村内をぐるっと回りました。
またそれで気に入って,高校2年の時にまた来て,そのときは遊季館で入浴して,またぐるっと回って。短大2年の時に友人と来て,また自転車で回って,鵡川で遊んだりして楽しい思い出ばかりです。毎回列車で来たのですが,わざわざ列車で来るかいのある場所だなって思います。社会人になって初めて車で来ました。
ニニウは1回しか行ったことがなく,去年行ったのですが,ニニウ自体は中学2,3年の時から知っていて,観光パンフレットも持っていて行ってみたいなと思いつつ10年くらいたってしまいました。キャンプ場が再開したらぜひ泊まってみたいなと思っています。
18 もともと東京の生まれで,大学がこっちのほうで,すっかり北海道が気に入ってしまって今は札幌に住んでいます。
非常に占冠村が大好きでありまして,どういう意味で好きになったのかといいますと,林道とか砂利道を走るのが好きなんですね。今は通れないかもしれませんが,昔上トマムから双珠別に抜ける林道がありまして,そこを一度通って感動したり,ニニウも10年くらい前に通ったことがあって,ニニウという場所はそれで知っていたんです。
Tさんのホームページを見て,ニニウにはこんなに歴史があってすごいところだったんだと知って,その後もニニウに足を運んだりして,いろいろ発見がありました。
去年のフォーラムにも参加させていただいて,村の方とも知り合いになれて,非常に楽しかったです。
今年も春の山菜市ですとか秋のもみじまつりですとかに参加させていただきました。今後もお祭りがありましたら,ぜひ遊びに来たいと思います。
19 教育委員会に勤めています。去年も鬼峠越えに挑戦したのですけれども,明日も厳しいかなと思いますが,同行させていただきます。ここの卒業です。
20 ようこそ占冠村にいらっしゃいました。
占冠村ホームページの前々担当ということで,1996年から占冠村の風景をデジカメで撮って気温をつけて日記で流すということを始めたのが最初の仕事でした。
当時予算が35万だったんですけど,パソコンの購入費が33万で,ホームページを作る予算は2万円しかついていなかったんです。何かというとホームページ作成ソフト「ホタル」というのが当時あって,それで作れと言われたんで,えらい苦労した記憶があります。おかげさまでスキルアップにつながりましたんで,当時のK村長にはこの場を借りましてお礼申し上げます。
ニニウという土地は,私は観光をずっと担当していましたので,本州の皆さんにも営業をしまして,自閉症のお子さんもツアーで来たりして泊まり込みでニニウの地でキャンプファイヤーを囲んで夜な夜なすごしたのも今思い出しています。
とっても良いところで,最近キャンプ場が使えないのが残念なのですが,また今年の夏久しぶりに行ってみようかと思っています。
せっかくいらしたんで十分に楽しんでいってください。
21 昭和59年にトマムに仕事で入りまして3年ぐらいいたのですが,そのあと札幌ですとか東京方面に仕事で行って,平成3年にKさんにニニウで働けと言われて,平成9年までサイクリングターミナルでお世話になっていました。平成8年にニニウに家を建ててしまいまして,現在ニニウに住民票があるのは私のところの夫婦だけだと思います。
いちばんの思い出というか,おもしろくないのは,選挙の案内が来るとき「字中央」で来るんですね。私はそれを棒を引きまして,ニニウに書き換えて送ってやるという無駄な努力をしています。
鬼峠はスノーモービルで何回か行ったことがあります。4年くらい前から高速道路の工事も始まりまして,大型車両もいっぱい走っていまして寂しくないなと。おかげで熊もなかなか出てきてくれなくなりまして,前は夕張太郎というでっかい熊がいたのですけれども,彼も姿を見せませんので。その代わり鹿が多いので誰か撃ってください。
去年から畑の作業もやめまして,作れば作っただけ鹿に食べられるので,買った方が安いんじゃないかという話で。まあ,家がありますので死ぬまでいるしかないかなと。
去年サイクリングターミナルと林間学校を札幌の不動産屋に売却したという話ですが,何もやっていないみたいで心配していますけれども,うまいことやってくれればいいなと思っています。
22 付いてきただけです。
23 札幌から来ました。もう4か月連続で占冠に来ています。占冠のファンになってしまいました。
10日ほど前に今日の話を聞いて,私は鬼峠の話にすごく興味を持ちまして,Tさんのホームページの去年のページを全部プリントアウトしたら結構な厚さになりました。この学校にもすごく興味があります。
東京で10年ほどサラリーマンをしているときに,北海道の自然が実はすごく貴重なのだということに気づいて北海道に戻ってきて,それ以来会社経営をしながら,地域のいろんなお手伝いをしています。
この5,6年は会社よりも地域のお手伝いのほうが本業になりそうなくらい,いろいろいなところでいろいろなことをやっておりますけれども,石狩川と天塩川をテーマに,150年前に松浦武四郎さんが書かれた日誌に基づいて,70代,80代,90代の方と地域のことを語り継いでいくお手伝いをやっております。そんなことで鬼峠の話に大変興味を持っております。
24 高校3年の時,昭和58年ですが,当時自転車で道内を旅行していたのですけれども,高校3年で道内旅行の集大成ということで北海道を半周してやろうということになりまして,足寄から札幌に向かう経路として占冠を通りました。
当時日勝峠は非常に険しいので無理だろうということで落合からトマムに入り,それで占冠を抜けて日高まで行きました。
当時のトマムの道路は地元の方は当然ご存じだと思いますが,いまからは想像できないくらいものすごい道で,これはちょっと失敗したかなと思うくらい,帰れないんじゃないかと思うくらいすごい道でした。
そのとき駐在所の前の原商店で買い物をして,占冠の駅前で飯を食って,そのまま日高に抜けてしまいました。
翌昭和59年,ドラマ「鬼峠」を見てニニウという土地を初めて知りまして,翌60年の9月に行ってみようということで,車で行きました。ドラマのトンネルが本当にあるんだと思っていまして,林道鬼峠線の入り口を左に曲がって赤岩を抜けて,この道を走っていたらトンネルがあるんだなと思っているとニニウに着いてしまいまして。その当時はドラマに出ていた鈴木さんの家と,小橋鉄夫さんの家が実在していまして,煙突からは煙が上がっておりました。畑もありまして,何名かの方が住んでいるのだなと思いました。
そのときは,サイクリングターミナルの前を通ってキャンプ場を見て帰りました。帰り道,やはり道が悪かったんですね。家に帰ったらフォグランプが1個とれていまして,あの山の中にフォグランプ1個置いてきちゃったなと思いました。
それから何回かニニウに行ったんですが,行けた年と,道路が通行止めで行けない年がありまして,トンネルは結局見つけられませんでした。その後,Tさんのホームページでトンネルは実在しないことがわかりまして,残念だったなと。
ドラマですが昭和60年の12月31日に再放送されたのをビデオに持っていまして,それが縁になってTさんと知り合いになったということで,当時「鬼峠」というドラマを知っているのは道内で占冠の方とおそらく俺だけかなと思っていたのですが,ニニウのことを詳しく知っている方がいて大変嬉しく思います。
25 札幌手稲区から来ました。去年に引き続いて2回目です。
92年に,たまたま前の年にうちのかみさんがバイクの免許を取りまして,自分はずっと持っていたんですが。札幌から近場で2時間くらいのところでキャンプツーリングをしようかということになりまして,キャンプ場ガイドを見ながら探していたんですけれども,ちょうど穂別のキャンプ場が良いかなという感じで,そちらに向かっていたのですが,いざキャンプ場に着いてみますと,えらい人だったのですね
もともとそういう人混みは好きではないものですから,ほかに行ってみようということで改めてキャンプ場ガイドを見ていましたら,ニニウキャンプ場が載っていまして,近くて良いから行ってみようという軽い気持ちで,福山のほうに曲がりました。走り出したらいきなり砂利道で,うちのかみさんも素人でしたが何とかキャンプ場に着きました。着いたところがすごく良くて,人も少なくて,ほとんど自分たちだけのような状況でした。
それからファンになりまして,毎年1回か2回は訪れていたと思います。道路が通行止めになって行けなかった年もありましたが,かみさんが臨月の時もキャンプ場に行ったり,子供も生まれて半年くらいの時から行っていましたので,それくらいファンであります。一昨年,吊り橋の袂のあたりでホタルがいて,車のウインカーをつけて見ていましたら,ぱーっとホタルが飛んできて手の平を広げるとホタルがのってきてその中で光るという経験もしまして,子供達も感動していました。
去年,山菜市とふるさとまつりのとき2回ここに泊まらしてもらいまして。キャンプ場が休業なのでこちらを利用させてもらっています。すっかりニニウ通い,占冠通いをしています。またこれからもずっと通っていきたいと思っています。
26 昭和21年に占冠の字中央で誕生しました。ずっと占冠に住んでおります。
昭和40年に高校を卒業して役場に就職し,最初教育委員会に6年間勤めさせていただきました。年に1,2回学校訪問がありまして,先生を連れて健康診断などに行きました。
今は3校しかありませんが,当時は8校ありました。ホロカ分校,下トマム小中学校,トマム,双珠別,占冠,中央,そしてニニウの小中学校がありまして,そのニニウ小中学校に行くのがとても楽しみでした。なぜかというと,こども達も先生方も,すごく私たちを待っていてくださるんですよね。あまり人が行かないところなものですから。すごく温かく迎えてくれました。ですからニニウはすごく温かいというふうに私の中では思っています。
鬼峠ですけれども,私が小学校3年生の時に遠足がありまして,すごく厳しい担任の先生だったのですけれども,鬼峠に登ったことがあります。そのときはつらくてつらくて,今になってみれば懐かしく,よく登ったなと思います。
今日は占冠村の30年以上前の8ミリがあるということで,今は高齢者大学の職員をやっているので,高齢者の方にもこういうことを伝えたいなと思って来ました。
27 札幌から来ました。
28 札幌から来ました。まさか今年またこういう機会があるとは思っていなかったのですが,またご縁がありこういうことになりました。本来話すのが苦手ですので,こういう形で皆さんのお話を聞かせていただいて,大変勉強になって,こういうのがいちばん良いなと思っています。
今回のメインは8ミリで,先週に火曜日に役場にうかがいまして,HさんとYさんと膨大なフィルムのごく一部を見たのですが,本当によく撮っていただいていたなと思います。非常に鮮明な映像で残っています。
残念ながら私は占冠生まれの占冠育ちではないので,どなたがどなたかというのはわからないのですが,おそらく占冠生まれの方なら懐かしくて涙が出てくるのではないかと思いますので,みなさん休み時間にはハンカチの用意をしておいた方がよいかと思います。
以下は,交流会からの参加者
29 トマムの氷の街からやって来ました。今アイスビレッジをやっていて,氷の教会とか氷のホテルとかをやっています。明日なんですが,飲み過ぎないように。隊長自ら気をつけます。
30 占冠の高台のほうに住んでいます。
31 トマムに勤めています。なかなか普段皆さんとお顔を会わせる機会がないんですけれども,占冠に移り住んで13年目になります。埼玉県出身です。北海道のいろいろ良いものを見て,ますますここが好きになっている今日この頃です。
明日一緒に鬼峠に行きたいなと思いながら,残念ながら仕事があって参加できないんですが,今日は皆さんのお話をお聞きしたいなと思い,この時間からですが参加させていただきます。

 


3. 8ミリフィルム上映会