ニニウのこれから > 鬼峠ミーティング開催報告 > 3. 8ミリフィルム上映会

3. 8ミリフィルム上映会

この日上映した8ミリフィルム映画は長谷川耿聰さんが役場職員時代に撮影したものである。撮影年代は昭和35年頃から同50年頃にかけてである。当時フィルムや機材は役場から支給され,何か行事があるといえば通常業務に優先して撮影に行かせたもらえたそうである。フィルムは長らく役場に死蔵されていたが,長谷川さんからフィルムの存在を聞かされた山本さんの発意で今回上映してみようということになり,古いものでは約半世紀ぶりに映像が蘇ることとなった。このようなフィルムはたとえ残っていたとしても,撮影者の技量が未熟で鑑賞に堪え難いことも多いが,これらのフィルムは非常に安定した構図が記録映画としての価値を生んでおり,1巻5分程度のフィルムに収められた映像が,無編集にもかかわらずストーリーのある映画のように構成されていたのは,NHKのカメラマンさんも驚いていた。

2月5日に試写を行った際,石勝線の建設工事に関わるフィルムが多いことに気がついた。特に昭和41年には石勝線に関わる様々な出来事があり,ニニウでも鬼峠トンネルの着工に関連して電気が導入され,占冠・穂別間林道の全通を見たが,これらの様子がフィルムに収められていた。

占冠村では一昨年,『占冠村百年史』が刊行された。やっと鉄道建設工事着手の目処がついた昭和38年に『占冠村史』は刊行されているが,『占冠村百年史』はいきなり昭和56年の石勝線開通から歴史が始まっており,建設工事で賑わった時代については一切触れられていない。それは占冠村にとって振り返りたくない忌まわしい歴史だったのかといえばそんなことないはずで,単に筆を惜しんだだけだと思われる。

今は人口1300強の占冠村だが,石勝線の建設が決定した昭和35年には4700人もの人口があった。当時の映像を見て,自信を取り戻してもらえばと思い,石勝線に関わる6巻のフィルムをまず上映することを私から提案させていただいた。参加者には建設に沸いたあの頃という鑑賞資料を作成して配布した。

映画には音がないので,すべて長谷川さんの解説付きで上映された。人の名前の記憶力は抜群で,次から次に映し出される人をフルネームで紹介していくのは圧巻だった。

熱心に映像に見入る参加者。懐かしい映像に,村の人たちからは悲鳴にも近い歓声が上がっていた。

以下,映像の写真とともに解説を掲載する。映像に歪みがあるのはもともとのフィルムの問題ではなく,私の写真撮影技術に難があるためである。

Film(1) 石狩十勝連絡線建設線決定祝賀会(昭和35年1月20日)

明治の開拓時代以来,鉄道の開通は村民の悲願だった。昭和26年,沿線16ケ市町村による石勝線新設促進期成連合会が発足,度重なる陳情の末,同32年4月「石狩・十勝連絡線」として調査線となり,同34年11月工事線に昇格した。占冠村では開基58年にしてようやく鉄道の建設が決まった喜びに沸き,音楽行進に旗行列,提灯行列,打ち上げ花火と,全村が祝賀ムードに包まれた。祝賀会の冒頭では,ひたすら鉄道建設を夢見て物故された先覚者に対する黙祷が捧げられ,村長の式辞に出席者達は感無量の面もちで頷いたという。

Film(2) 紅葉山線起工式・祝賀会(昭和41年7月29日)

石狩十勝連絡線のうち夕張線紅葉山駅(現・新夕張)と占冠を結ぶ紅葉山線は,昭和41年7月18日に工事実施計画が認可になり,日本鉄道建設公団により工事が開始された。夕張市民会館(夕張鉄道夕張本町駅と合築)で行われた式典には,占冠関係者も多く出席した。写真・右には「北海道の新幹線・石勝線」の垂れ幕が見える。

Film(3) ニニウ地区電気導入事業竣工式(昭和41年8月14日)

占冠村では昭和25年に村営発電所ができて,トマムとニニウ地区を除いて電気が通じた。最後まで無電灯地区として残ったニニウ地区も,鉄道の工事着工と機を同じくして,昭和41年に電気が導入された。同年11月,「占冠ホテル」と呼ばれた鉄道建設所がニニウに設置され,ニニウの学校には作業員たちの子弟が転校してきて賑わった。また,この年の冬からニニウ〜占冠間の林道の除雪も開始され,保存食に頼る暮らしから解放された。

写真・中央は新入小学校の前庭にあった噴水,写真・右は新入小学校講堂で盛大に行われた祝賀会の様子。手前の男性は,ドラマ「鬼峠」に「鈴木の爺さん」として登場した方。

Film(4) 穂別占冠林道開通式・祝賀会(昭和41年8月31日)

ニニウと占冠本村との間には鬼峠が立ちはだかっていたが,鵡川の下流側はそれにも増して険しい断崖が続いていた。それゆえ,占冠の開拓者たちは鵡川をさかのぼらずに,下富良野から国境の金山峠を越えてやって来たのである。鵡川沿いの林道は占冠村森林組合と営林署により昭和29年から開削が始まり,同35年にニニウまで開通,これによって鬼峠は半世紀に及ぶ生活道路としての役目を終えた。林道はその後昭和41年に福山に通じ,鵡川沿いの車道が全通した。

この年は7月から半月おきに祝賀会をやっているわけで,まったく忙しい。これは「やらなければいけなかったのだ」と長谷川さんはおっしゃっていた。

写真・左は昭和24年に落成した役場旧庁舎。この建物はその後日高町に移築され,三朝観光センターとして現存している。写真・右に写っている村章は139点の応募作の中から長谷川さんのデザインが選ばれたもので,長谷川さん27歳のときの作品である。

Film(5) 狩勝線・落合線開通記念列車・祝賀会(昭和41年9月30日頃)

(このフィルムは当日所在不明になり映写できなかった) 石狩十勝連絡線の中で最も早くに着工したのは狩勝線(上落合〜新得)と落合線(落合〜上落合)だった。この区間は将来の石勝線のルートになるとともに,既設の根室本線の難所・狩勝峠の勾配を緩和する目的も兼ねて建設された。新狩勝トンネルはトンネル内の上落合信号場で根室本線と石勝線が合流する構造で,占冠側にもトンネルの入口が設けられたことから,このトンネルの完成は占冠への鉄道の到来を実感させる出来事になった。

開通記念列車は新得・落合間を往復し,その後新得の学校で行われた祝賀会では地元婦人部の奥様方がステージ上で舞踊を披露するなど,大変な賑わいだった。

Film(6) 鬼峠トンネル工事状況(昭和42年4月頃)

鬼峠トンネル(延長3,765m)は昭和41年11月に着工,メタンガスの爆発で8名の死傷者を出すなど,石勝線の工事の中で最も難航を極めた工区だった。掘れども掘れども進まない。作業員達は「畜生,鬼め」とうめいたという。このトンネル工事での教訓は,現在の北海道横断自動車道占冠トンネルの工事で生かされている。なお,本フィルムには小瀧猛村長(在任期間:昭和30年5月〜昭和42年4月)の退任式の模様も収録されている。(写真・右)

この後リクエストに応じて「役場宴会」,「役場旅行(阿寒湖,帯広駅)」,「和牛セリ市」の巻を上映した。

「役場宴会」は試写の際,長谷川さんから映写を禁じられていたが,最も印象に残ったフィルムだったので,無理にお願いして映写させてもらった。「役場旅行(阿寒湖,帯広駅)」は阿寒湖の遊覧船や,帯広駅前の賑わいが印象的だった。「和牛セリ市」は昭和34年よりトマム地区に導入された和牛のセリ市の様子が収められており,場所はトマムのヘリポートの付近だという。これはNHKからリクエストがあった。

このほか,フィルムの不調で映写できなかったものに,「千歳橋水泳」のフィルムがあった。これは山本さんがぜひ映写したいと言っていたフィルムだった。千歳橋は中央市街の北を流れる鵡川にかかる橋だが,現在の鵡川は水泳ができるほどの水量はない。鵡川は国内でも数少ないダムのない川だが,それでも水量は昔に比べて著しく減っているのである。原因は森林の伐採である。


昨年私は,高速道路の建設が進む現在は,昭和56年に石勝線が開通したときと似た状況にあるのではないかと話したが,石勝線の建設工事で活気に沸いていた時代と現在を比べてみるのも意味あることだと思った。石勝線の建設は,村民の誰もが手放しで望んでいたことだろう。工事することそのものが目的になってしまった現代とは違って,社会資本の整備が真に望まれていた時代だった。一方,高速道路の建設計画は,自らの意志に関わりなのないところで決定され,必ずしもすべての村民が高速道路の開通を待ち望んでいるわけではないように思われる。道央と道東をつなぐ幹線交通路の工事という点では共通しているが,村民との関わりという点ではずいぶんと違いがあるように思われた。

そんなことも考えながら見てもらえばいいなと思っていたが,上映会を終えてみて,少し内容が堅かったかなと反省した。もっと運動会や村民スキー大会など生活に密着したフィルムを見てもらったほうが良かったのかもしれない。それにしても,長谷川さんに当時のことを実に生き生きと解説していただけたのは何よりだった。

思えば長谷川さんを初めて知ったのは4年前のことだったと思う。たまたま上富良野のレストランで食事をしたときに居合わせ,そこのマスターと観光について熱く語っていたのを,私は黙って聞いていたのである。話の内容は革新的で的を射ており,私は大変感銘を受けた。その長谷川さんとこうして一緒に仕事ができたことは感慨深い。

この日映写した7巻のフィルム。


4. ニニウ食