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6. 鬼峠の記憶

初代の鬼峠が生活道路として使われたのは恐らく昭和4年頃までで,人々の記憶からもほとんど消えかかっている。ここでは資料に基づいて,改めて鬼峠について整理してみたい。

鬼峠の変遷


●国土地理院地形図

鬼峠が含まれている国土地理院(戦前は陸地測量部)発行の1/50000地形図の図歴は下表のとおりである。

図名 図  歴発行年月日
右左府 29 製版 発行年月日記載なし
右左府 8測図T10/01/30
右左府 8測図S21/08/25
右左府 8測図S21/08/30
右左府 8測図S25/01/30
日高 33測量S37/01/30
日高 42資料修正S43/09/30
日高 51編集S52/12/28
日高 59修正測量S61/03/30
日高 3修正測量H05/06/01
日高 3修正測量H05/06/01

大正10年版には既に鬼峠のルートが掲載され,その最高地点に「鬼峠」と記されている。以下に述べるように初代鬼峠の開削時期ははっきりしていないが,ここに掲載されたルートは初代鬼峠であると考えられ,遅くとも測量が行われた大正8年には道が存在していたということになる。また,ルート上の鬼峠の北方約500mにあるピークに三等三角点「新入峠」が置かれ,この標高697mを鬼峠の標高としている文献もあるが,ルート上の最高地点もやはり標高695m前後であったと推測される(当時の地形図では標高670m前後だが,現在の地形図に重ね合わせると690mの等高線を越えている)。以降,昭和25年まで版を改めずに発行が続けられた。

昭和37年版は鵡川沿いの林道が開通した後の発行だが,測量が昭和33年だったため,2代目のルートが占冠本村とニニウを結ぶ唯一の道として掲載され,「鬼峠」の文字も新しいルート上に移っている。当時の地形図では「自動車道」に満たない規格の道として「小型自動車道(1.6m以上)」「荷車道(1.0m以上)」「小径(1.0m未満)」の3区分で表記されているが,鬼峠はもっとも細い「小径」として描かれている。峠のピークは標高640m付近まで下がった。現在の地形図ではそのニニウ側のルートが削除されているが,「鬼峠」の文字はまだ残っている。


●「鬼峠」と「旧道」

現在の占冠の人たちは,2代目の道を「鬼峠」とよんでいるが,古い文献ではあくまでも初代の道が「鬼峠」であり,2代目の道は「ニニウ道路」,あるいは鵡川沿いの林道が開通してからは「旧道」と称している。

流送人夫は丸太と共に川筋に工作して通行はしたが最も条件のよい季節に丸太を利用したので普段通行できないから右側の小沢をのぼり,本流を離れて峯に出た。ところがここに鬼峠と名がついている様に生やさしい道ではなかったのである。歩く,そして実際に見て書くという主義で貫いている筆者もこの頂上にだけは立って見ることが出来なかった。

この鬼峠を避けるために工夫されたのが弓立の沢,クラウンナイ,ソウウンナイの方からペンケニニウ川上流に出て本流に降って行く旧道で,このコースは渡舟場よりもっとおそく,つい数年前林道が川筋に開削されるまで続いたのである。

『占冠村史』,占冠村役場,1968,p.877

「筆者」というのは中富良野の歌人で郷土史家の岸本翠月氏であるが,岸本氏は初代の道を「鬼峠」,2代目の道を「旧道」と認識している。


鬼峠の登り口はトンネルのすぐかたわらであった。流れる小沢の右岸にあった昔の小道は跡形もなく,旧道とよばれる狭い車道が残っている。

第一アートセンター編:『日本の湖沼と渓谷1,摩周・サロマ湖と日高の渓谷』,ぎょうせい,1987

これは北大山岳部OBで当時同大名誉教授だった橋本誠二氏による「秘められた峡谷のおもかげ―ニニウ渓谷赤岩青巌峡」という随筆の一部で,文中には新旧の鬼峠ルートを描いた地図が挿入されている。恐らく村史を参考にしたのだろうが,2代目の道を「旧道」と称している点では,村史と同じ認識である。なお,初代の登り口は「小沢の右岸」にあったとしているが,これは鵡川沿いで沢を渡ってから登ったということを意味している。


●初代鬼峠の開削時期

ニニウ発展の最大の障碍になった市街地との交通路は,開拓当初は中央市街より鵡川沿いに南下するが,あとは西へ鬼峠を越えて部落中央部へ抜ける殆んど全行程踏み分けの山道であった。古老談によると,経木を中央の工場へ出すために道路工事が必要となったが,労力奉仕では誰もやらぬ,それで中央の経木経営者が一人一升ずつの米を出すことによってようやく働いたという。明治44年頃の話である。

昭和4年になって村費補助のもとに大きく迂回して部落の北端に出て,ペンケニニウ沿いに約4キロメートルで,部落中心に出る道路が開削された

榎本守恵:『近代僻地教育の研究』,同成社,1990

昭和32年7月,まだ鬼峠を越していた頃に,旭川青年会議所の企画でニニウに調査に入った学芸大の榎本守恵氏が著した論文の一部である。これを一応信用すれば,初代の道は明治44年頃の開削,2代目の道は昭和4年の開削ということになる。ニニウに最初の入植者があったのは明治41年で,同43年に王子製紙の鵡川造材計画で急激な人口の増加を見ており,明治44年というと学校や神社ができた年にあたる。


ニニウ部落は中央市街を去る二里,その間は実に不便な鬼峠とよぶ険悪な道で,これは20年前長瀬清兵衛の造材駄送道であったのを利用していたものである。

冬期間は通行は壮絶の有様で,物資の運搬は人が背負ってやっていたが,上川土木事務所から古尾谷技手を依頼して測量をし,王子製紙会社や高谷木材部,村有志の寄附により,北条氏外2名の請負で開通,初めて冬期間の馬橇の運行を見る事になった。昭和3年の事で旧道の工事である。

某新聞記事(『占冠村史』pp.512-513に引用)

村史の中で引用されている新聞記事である。新聞名,日付など不明だが,明治44年を「20年前」として逆算すれば,昭和6年の記事ということになり,内容に矛盾は生じない。


鬼峠という名は誰がつけたかわからないが,この山にふさわしいもので,一番初めはこの付近を通って駅逓のところに降ったのである。

長瀬清兵衛が二線沢の下流で水車で経木工場をつくったときに今旧道と言っている道が出来,初めて馬車が越せる様になった。しかし荷物は一俵までで,馬が谷底に落ち熊に持って行かれたこともあった。

『占冠村史』,p.511

ここでは,これまでの引用文と矛盾が生じている。

2通りの解釈が可能だが,一つは前段が初代鬼峠,後段が2代目の道を指しており,「長瀬清兵衛が二線沢の下流で水車で経木工場をつくったときに」の記述を初代鬼峠と取り違えたとする解釈。

もう一つは,前段は初代鬼峠よりも前の開拓草創期の道で,後段が初代鬼峠であるという解釈。この場合,初代鬼峠は馬車が通れたということになるが,他の文献を参照する限り初代鬼峠を馬車が通れたとは思えない。


それでは長瀬清兵衛がニニウに経木工場を作ったのはいつかということになると,次のような記述が見つかる。

1919 大8 長瀬清兵衛ニニウに経木工場を開く

『占冠村史』,P.930

ニニウでは長瀬清兵衛の経木工場が工場の元祖で,大正8年,9年,10年とつづいている。事業の鬼で次から次へと仕事をした長瀬は村内に更に幾つかの経木工場をつくった様で,今年65才の老人が16才の時運転していたというからニニウの工場の初めは大正の初期である。

『占冠村史』,P.737

前段は村史年表内の記述で大正8年の工場開設とあるが,後段の「今年(昭和37年または昭和38年)65才の老人が16才の時」という記述から追うと大正2年頃まで遡ることが可能で,前述の明治44年にかなり近づく。 


●2代目鬼峠の開削

2代目の道は,前掲の文献により昭和3年から昭和4年にかけての開削と考えて間違いなさそうである。この工事に関連して,村史に次のような記述がある。

交通不便で有名な本村も駄馬輸送が初まりなところが多いのに,もう一歩原始的な人の背による輸送から初まつたのがニニウの部落である。鬼峠のことは他に幾度も書いたが次の段階の駄送道路の開さくに力を入れて王子製紙と高谷木材から寄附をもらい,自らこの難工事を引受けて赤字となり,私財を投じて完成させたのが長淵九助だった。

『占冠村史』,p.520

2代目の道の工事には村費の補助も入ったが,長淵九助の個人的な尽力も大きかったということなのだろう。


さて,道路は簡単につくわけがない。その頃は問題の鬼峠が難関である。請願,また請願,大正5年初めて現在使用していない旧道のつく見込みがたったのである。

『占冠村史』,p.882

「その頃」というのは前後の文脈から大正3年〜大正4年頃と判断される。「請願」したということから「現在使用していない旧道」は村費の補助が入った2代目鬼峠と解釈するのが妥当かと思うが,だとしたら昭和3年までの12年程のブランクは何なのかという疑問が残る。


●まとめ

以上見てきたように,ニニウと占冠本村を結ぶルートの変遷には若干不明な点もあるが,おおむね次のように整理される。

(1) 草分けの道: 明治41年から初代鬼峠開削まで

(2) 初代鬼峠: 明治44年〜大正初期の開削

(3) 2代目鬼峠: 昭和3年〜昭和4年の開削

(4) 鵡川沿いの林道: 昭和29年から開削,昭和35年開通


初代鬼峠にまつわるエピソード

初代鬼峠が現役の生活道路として使われたのは,長く見積もっても20年足らずであるが,その間に鬼峠を越えた先人達のエピソードには次のようなものがある。


●「ニニウの花嫁」 M.Hさん 大正8年の話

 Mさんは十勝国新得の娘であった。大正8年に16歳になった時,嫁に行く様にすすめられた。14歳で結婚した者もあるのだから16歳にもなれば嫁に行かなければならないと思った。
 親の言う通りにまだ見たことのない占冠村ニニウ部落に嫁ぐことになって,9月12日の朝新得をたち,汽車で狩勝峠を越すときも車中の旅客に嫁入りする日の娘とは見えない髪で,着物の柄も今なら30歳になっても地味だと言われる位だったが,その頃の娘の嫁入りの着物としては普通だった。
 羽織をきてそのひもを胸にきちんと結び,帯をしめているところが少しよそ行きらしいいでたちで,金山駅に下車したとき,迎えに来ていた人々が,まずくれたのは3足の「わらじ」であった。
 下駄をぬいで1足の「わらじ」をはき,2足は自分の背に負うて歩き始めたが,今の馬鹿曲りを登るとき,駄馬道だったこの附近は原始林のトンネルだった。峠の絶頂も見晴らしのきかない樹海で,そこから降下する道を歩きに歩き続け峠の茶屋についたとき2匹の「やまべ」を煮たのを買ってもらった。腹がすいていたのでそのうまさがまたひとしおだった。「わらじ」をはき替えて占冠へ,またわらじをはき替えて中央についたとき,ここに夫となる人の――嫁いで行く家の知人の家があったが,もう日が暮れたのでここで泊まることになった。
 娘16歳,しかも嫁入りの途中なのでただ恥ずかしいばかりであったが,嫁に行く家はもうすぐそこで明日は下駄で行けると思っていると翌朝早くまた2足の「わらじ」を持たされた。
 出発して間もなく大きな川を渡るというのに橋がない。見ると渡船場で,舟にのるとき渡し守の妻がニニウというところはね,こうなんだと「なぞ」のようなことを言ったが16の年ではまださとされなかった。
 渡船を越すとまた山の中の昼も尚くらい道をのぼっても人家がない。生家に別れて嫁ぐ心はただ寂しいばかり。ことに16歳では泣けてくるのに,この峠はまたひどかった(鬼峠とはあとできいた)
 そのうち峠の頂上らしいところに来た時,小さな小屋があって,ここで休んで「わらじ」をはき替えたが,このとき,迎えの人々が「この峠は一人では歩けない」というので,なぜかと聞くと「出るんだ」と言って笑うだけなので,蛇ならおそろしいこともないと思った。
 さて降り始めると熊の糞があり,更に行くと熊の生々しい足あとがあったので一人で通れないわけがわかった。
それにしても何故こんな山中に嫁に行くことになったのか,泣けてきたがもう帰ることも出来ないので「わたしには生まれつきここに嫁ぐ約束のもとにあったのだ」ともう一切を運命に任せる外ないとあきらめた。
 疲れて運命を「なるがままにまかせる」気持ちになった頃,やっと人家があったので一休みし,更に歩いてやっと目的の家の近くについた。
このとき,金山以来5足目のわらじをぬぎ,やっと白足袋をはくことになったが,汗で化粧どころではなかった。

『占冠村史』,pp.886-887

   

この方のことはミーティングでも語られていたが,すぐに汽車が来ると聞かされて嫁に来たものの,実際に鉄道が開通したのはその62年後のことで,開通を見て亡くなられたとのことである。


●「鬼峠を越えて」 I.Hさん 大正15年頃の話

『ニニウへ行くのにね,それこそ車もないし,わらじを履いて山に入っていったの。それでも結婚式の真似事ぐらいはあったの。久保さんのばあちゃんに髪ゆってもらってね』

悪路と名高い鬼峠さえまだない頃で,ニニウ,中央間の道は,道をつけたのではなく歩いたなりに踏み分けられたというような,越える時にはあまりの足場の悪さに馬から落ちたり,また馬ごと頃がしてしまったりするような道だった。

『しむかっぷでむかしあったこと』,占冠村,2003

同じく,鬼峠を越えての嫁入りの話である。占冠からニニウに嫁いで大変な苦労をされた方で,『占冠村史』『北海道の女』『しむかっぷでむかしあったこと』のそれぞれにエピソードが掲載されている。その後占冠本村に移り村の最高齢者となられたが,昨年のフォーラムの直前に100才で亡くなられたと聞いた。

「悪路と名高い鬼峠さえまだない頃」というのは現代的解釈で,「歩いたなりに踏み分けられた」道というのが本来の鬼峠のはずである。


●「石臼を背負って」 S.Fさん 大正14年頃の話

14歳の時,兄が郵便配達をすることに決まりニニウを離れた。荷物の大きい方を母,小さい方をFさんが背負った。さん俵に石うすを挟み,縄でしばったが,二里の鬼峠越えは,重くて固いうすが背中に食い込み,「あの重さは忘れられない」と笑う。石うすは,主食代わりのソバやトウキビを粉にするための生活必需品。重いからといって捨てていける道具ではなかったのだ。

宮内令子:『北海道の女』,北海タイムス社,1986

交流会の中で,ニニウではトウキビを粉にしたのが主食だったという話があったが,それを裏付けるエピソードである。


●「稲妻道」 I.Kさん 大正10年頃の話

ニニウと中央の往復は,一日仕事になるので大変だった。この頃は,後に難所と言われる鬼峠さえまだなくて,”稲妻道”とよばれたすごく急で稲妻のようにジグザグの坂道を行く。上り一里,下り一里の,足を踏みはずすとズーっと滑っていってしまうような坂道だった。山の斜面をまっすぐに滑って,下の道へ近道していったりした。

その頃は,男女を問わず力仕事をするものだった。14,5歳の頃,馬の背にダグラ(馬の背に荷物を乗せるための道具)を乗せ,7斗(約100キロ)の荷物を積んで稲妻道を越えた時,踏みはずして馬が坂道を滑ってしまったことがあった。幸い,ダグラが地面に食い込んで,下まで滑り落ちなくてすんだ。

荷運びは夜明とともに出て,中央の中継地吉田さんの所まで運んで,帰ってくるともう暗くなっていた。雪が降ると,手作りのやせ馬(しょいこのこと)で荷物を背負って,自分で運ぶ。一斗五升を背負って歩いた。毎朝,夜明けとともに家を出る。辺りはまだ暗く,脇道から来る人が見えないので,大きな声で名前を呼び合い進む。途中,同じ年頃の友人が5,6人,そして大人も加わり,細い道を連なって歩いた。寒いので,焼いた石ころをカイロ代わりに懐に入れて行く。冷えてしまった石は山の上に置いておき,帰りに拾って次の日また使った。道はこの一本きりだった。収穫した物はすべてこの道を通って運ばれた。

『しむかっぷでむかしあったこと』,占冠村,2003

この方はニニウ最後の農家となった方で,家はドラマ「鬼峠」の主人公宅として使われた。

「後に難所と言われる鬼峠さえまだなくて,”稲妻道”とよばれたすごく急で稲妻のようにジグザグの坂道」とあるが,これが初代鬼峠で,当時の地形図を見ると峠のニニウ側で激しい屈曲を描いているので,その辺が「稲妻道」と呼ばれた所以なのだろう。


7. 鬼コース・仏コース