4. ニニウワークショップ
13時ちょうど,道の駅に戻ってきた。何と森のかりうど高橋勝美さんが鹿汁を作っていてくれて,観光協会の事務局で振る舞われた。思わぬご馳走に参加者一同感激。一昨年は一緒に鬼峠越えをしたTakoyaki factoryてくてくさんからアツアツのたこ焼きの差し入れもいただいた。
●13:55 ニニウへ向け出発
道の駅で1時間ほど休み,今度は村のバスに乗ってニニウワークショップへと向かう。当初ここからバスに乗るのは10名余りの予定だったが,峠越え班が道の駅に引き返したため,車内はほぼ満席となった。
昨年12月1日付けで島サミット担当に異動されたM主査がニニウまでガイドをしてくださった。道中次のようなことが話題となった。
赤岩の展望台について
赤岩青巌峡にそびえるローソク岩は,ほとんど頂上まで道がついていて登ることができる。一方,鵡川右岸のレクの森(先代)から上ることのできる展望台は,現在はなくなっている。
石炭の採掘跡について
赤岩青巌峡のあたりに石炭を試掘した跡が今も残っているとある人に聞いたので質問してみたが,誰も知らないとのことだった。
鵡川の流送について
鬼峠を越えていた昔も,木材は鵡川の流送で下流に運ばれた。流送の時期になると,川一面に木が流れているので,木の上を歩いて対岸に渡ることができた。当時鵡川の水量は現在の2倍〜3倍あった。
2001.9.11の洪水
米国でテロが起こったこの日は,ニニウにとっても大きな転機となった。この日までは,役場職員の誰か彼かが毎日ニニウに通い,学童農園の手入れを行っていた。ところが,この日の洪水でニニウへの道路が決壊し,農園をやめることになった。
赤岩トンネルから先は,未舗装のまま。しかもダンプの通行が多いので,行き違いに四苦八苦しながら進む。秘境ニニウ健在といったところ。
●14:20 旧会田邸見学
旧会田(信)邸の前にて。かつて約30戸の農家があったニニウも,年々廃屋が姿を消し,ドラマのロケにも使われたS.I邸が平成19年に解体されてからは,この旧会田邸が唯一の廃屋となった。
ニニウ開拓3代目にあたる会田静雄さん。「つぶしちゃったら格好悪いから」と言って,今も毎年薪小屋の雪下ろしに来ている(母屋は大きすぎてどうしようもないとのこと)。残るべくして最後まで残ったということだと思う。
会田さんは昭和10年にこの家で生まれ,同38年秋に中央に出るまではここで暮らした。その後も父親の会田信氏はニニウに残り,昭和49年にニニウを引き上げた。
この家が建てられたのは,会田信氏が6歳の頃(大正4年頃)だという。戦後に一度土台の入れ替えをしたというが相当古い家で,それだけに柱梁も太くしっかりした造りである。「ニニウは何を調べてみても沿革が古い」(「占冠村史」p.641)と言われるが,北海道の開拓史から見れば,明治末期の入植というのは決して歴史が古いほうではない。しかし,ニニウクラスの山奥として見れば,明治のうちに開拓の鍬が入ったというのは格段に歴史が古く,現に大正の廃屋が存在しているように,土地に刻まれた明治大正の記憶が生々しく訪れる人に語りかけてくるのが,ニニウの魅力の一つである。
順番に廃屋に入る。内部は中廊下に沿って,両側にいくつもの座敷が並び,さながら「会田旅館」であった。家族は多いときで8人いたが,流送人夫など客人を泊めることも多かったという。元村長の観音さんも,役場職員時代鬼峠を越えてニニウに出張したときには,元駅逓の三船旅館には泊まらず,会田さんの家に泊まったといい,そこで食べた蕎麦の味が忘れられないと,以前思い出を語っていた。
今では見かけない粉炭ストーブやコカコーラの瓶。
昭和37年の水害の被害を受けるまでは,3反の水田を作っていたという。このような地形だから,整然と区画された水田ではなく,地形に随順な,今も残っていれば文化財にでもなっているような美しい田んぼであったことが想像される。
古い地図を見ると,川の対岸にも農家が何軒かあるので,どうやって川を渡っていたのか聞くと,簡単な丸太を渡して渡っていたそうだ。会田さんのお話を聞き,美しい沢の風景が甦ってくるような気がした。